朝比奈澪の秘密⑥:陸上少女、打ち明ける
澪は、ぽつりぽつりと言葉を落とし始めた。
「……私、図書委員になってるでしょ。金曜日が担当で、返却が多いの。放課後に図書室を一時間開けて、そのあと返却本を全部戻すの。それで、どうしても部活に行くのが遅くなる日があって……」
震える声で、澪が続ける。
「そしたらね……。先輩に言われたの。『部活が面倒だから、わざとゆっくりやってるんじゃないのか?』って。声の大きな先輩で、周りにも聞こえるように、何度も言われた。それで、今日――顧問に呼び出されて……。『やる気がない態度だと迷惑だ』って言われたの。それで、今日は練習に参加させないって言われて……」
澪の肩が小さく震えている。
こいつは、誰よりも頑張っている。
だからこそ、顧問の一言は彼女を深く傷つけたのだろう。
「否定はしたのか?」
「した。でも、顧問は信じなかった。近くにいた司書にも聞いて……。そうしたら、司書も『そんなにはかからないと思いますけど』って答えて……」
「それで、冤罪というわけか」
澪は首肯した。
それがどれだけ悔しいかは分かる。
彼女は一生懸命やっていたはずだ。
そんなものは、彼女の性格を知っていれば分かることだ。
陸上についても楽しそうに語っているのを何度も見聞きしていた。
そんな彼女が、不正をするわけがない。
でも、顧問や他の部員たちは、そうは思わなかったらしい。
「いつの間にか、それが事実ってことになっちゃってた。誰も私のことを信じてくれない。とても居心地が悪いの。でも……陸上は止めたくない」
それが澪を苦しめているのだろう。
今の彼女にとって、部活動は居心地のいいものではない。
もしかしたら、前からそうだったのかもしれない。
でも、彼女は陸上競技が大好きだ。
居心地が悪かったとしても、続けていきたいはずだ。
そのためには、我慢するしかない。
一人で孤独に耐え抜くしかない。
どれだけ酷い扱いを受けても。
どれだけ居心地が悪くても。
平気な振りをして。
それでも、限界はある。
澪の瞳から、涙がぽろぽろとこぼれていた。
それを見て、心臓が締め付けられるような思いになった。
澪は幼馴染だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
それでも――。
彼女を泣かせた人間を許せなかった。
関係者に対する、攻撃的な感情が膨らんでいく。
こんな理不尽を飲み込めるはずがない。
飲み込む必要もない。
「ゴメン。迷惑だよね」
「ああ、迷惑だ」
澪がびくりと肩を振るわせる。
だけど、ぼくは続けた。
「でも、迷惑だからって放っておけるわけじゃない」
澪は驚いたように目を見開いた。
そして――躊躇いがちにぼくの横に移動した。
「澪?」
何がしたいのか分からず、様子をうかがう。
すると――澪はゆっくりと、ぼくに抱き着いてきた。
小さな身体が、押し付けられる。
彼女の指が、ぼくの服を強く握った。
震えも伝わって来る。
それだけ、必死なのだろうが――。
――これ、どうすればいいんだ。
何分、初めての経験だった。
心臓が跳ね上がり、身体が硬直する。
とりあえず、目の前にある頭を撫でてみる。
しん、と静まり返った部屋の中、小さな嗚咽だけが聞こえてくる。
そんな状態がしばらく続いた。
そして――。
「ねぇ、凪」
「何でしょう?」
「……私を助けてくれる?」
澪は泣きはらした目で尋ねた。
そう言われては、断ることは出来ない。
そもそも、断ろうなんて発想すらなかった。
「……ああ、勿論だ」
「それじゃあ、お願いがもう一つあるんだけど」
「何でも言ってくれ」
「私、凪の声が聞きたい」
「……声?」
「凪の声で、慰めてほしい」
「ぼくの声でいいのか?」
「うん」
ぼくの声に、そんな価値があるのだろうか。
それは分からないが。
それで澪を慰めることが出来るのなら、ぼくは躊躇わない。
何時間でも、慰めの声をかけてやる!
「分かった。それくらいのこと、やってやる」
澪の表情が、少しだけ明るくなる。
それを見て、ぼくは判断が間違っていなかったと確信した。
慰めの言葉でいいなら、いくらでもかけてやる。
そう思っていたのだが――。
「それじゃあ、録音するね」
「……ん?」
脳がフリーズした。
録音だと?
よりによって、録音?
恥ずかしい言葉を半永久的に残すつもりなのか。
正気の沙汰とは思えない。
「私には、癒しが必要なの」
澪の精神状態は、ギリギリのところにある。
だから、自分を肯定してくれる言葉が必要なのだ。
旧部室棟での音声も、それだったのだろう。
「あの声優の声がね――。じゃなくて、凪の声が、あの声優の声に似ているのよ」
「……つまり?」
「癒しが必要なので、録音させて」
ぼくは『それくらいのこと、やってやる』と言ってしまった。
今更それを取り消すことは出来なかい。
出来ないのだけれど――。
「録音する必要はないんじゃないかな~、なんて思うんだけど」
「必要に決まっているじゃない」
「決まっているのか!?」
「そりゃそうよ。凪は、二十四時間三百六十五日、私の耳元にいることは出来るの?」
「それは無理だけど」
「ね?」
何が「ね?」なのだろうか。
全く理解できないが、澪は疑問に思ってすらいないようだ。
「あー、辛いな~。このままじゃあ、家に帰れないな~」
「お前、実はそんなに落ち込んでないだろ!?」
「そんなことはないわよ! 落ち込んでる! だから癒しを!」
澪は作り笑いを浮かべながら言った。
それは明らかに無理をしている表情で――。
「分かったよ」
落ち込んだ気持ちを、少しでも晴らせるのであれば。
ぼくは全力で頑張ることにした。
それからのことは、思い出したくない。
何故か澪のスマホには『素敵台詞』というリストがあった。
ぼくは、そこに記された恥ずかしいセリフを延々と言わされた。
『君の笑っている顔は、とても素敵だよ』
『君のことは、もう絶対に離さない』
『君のことが、大好きだ』
『世界よりも、お前の方が大事だぜ』
羞恥心で頭がおかしくなりそうだった。
だけど、そのかいあってか――澪の表情が少しだけ明るくなった。
というか、妖しくなった。
時折『ぐへへ』という声が漏れていた。
――これは、本当にやる意義があるものだったのか?
その疑問は、深く考えないことにした。




