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お隣の氷姫は、ぼくにだけ微笑む  作者: こねこねこ
第2章 朝比奈澪の秘密

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18/31

朝比奈澪の秘密④:陸上少女、孤立する

 放課後になると、ぼくはすぐに家に帰った。

 着替えを済ませると『秘密の部屋』に入る。

 ここにはぼくの漫画も置いてある。

 先輩がいない時も、一人で使っていいと言われている。

 ぼくはいつもどおり、少年漫画を手に取ろうとした。

 その時、ぼくはあるタイトルに目を引かれた。


『ほと走れエロス』


 どう見ても、走れメロスのパロディだ。

 どのようなものなのか、少し気になってしまった。

 ぼくは漫画に伸ばしていた手を、走れエロスに向けた。

 そしてページを捲る。


『エロスは奮起した。必ず、かの幽玄神秘の女湯を覗かなければならぬと決意した。エロスには良識がわからぬ。エロスは、村の暇人である。ホラを吹き、空想上の友人と遊んで暮して来た。けれども卑猥に対しては、人一倍に敏感であった』


 このような阿呆な出だしで始まった。

 その後エロスは覗きの罪で投獄され、人生は転落の一途をたどることになる。

 妹の結婚式に出ようと悪友を身代わりにしたが、妹には絶縁された。

 悪友のところに戻ったが「お前は最初から友達ではない」と嘲笑される。

 エロスは絶望し、どこか遠くへ走っていった。

 その後、エロスの行方はようとして知れない。

 これがあらすじだ。


「何だこれ」


 これが素直な感想だった。

 どうやら、この本は名作パロディの短編集らしい。

 あまりの馬鹿馬鹿しさに、他の作品が気になってしまった。


 もう少し読んでみようと思っていたのだけれど――。

 桐島先輩が、帰ってくる音がした。

 隣の家のドアの開閉穏が響く。

 その直後、先輩はすぐにぼくの家にやって来た。

 どうやら、玄関に荷物を置いてすぐに来たらしい。


「お邪魔します」


 部屋に入って来るなり、先輩はそう言った。

 そして、おもむろにブレザーを脱ぎ、ハンガーにかけた。

 今日はこの格好で過ごすのかと思ったが、それで終わりではなかった。

 先輩はスカートを床に落とす。

 そのままシャツも脱いで下着姿になる。

 その美しい肢体はまさに芸術品――いや、見とれている場合ではない。


 ――ぼくがいることに気づいていないのだろうか。


 部屋に入ってから、先輩は一度もこちらを見ていない。

 だからといって、無防備が過ぎる。

 声をかけた方がいいのだろうか。

 そうは思ったが、行動には移せなかった。

 そうしているうちに、先輩はぼくの存在に気づいた。

 少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつも通りの表情になる。


「あら、いらっしゃったのですね」

「……はい」

「お見苦しいものをお見せしました」


 先輩は平然と言った。

 下着姿を見られて、恥ずかしくないのだうか。


「いえいえ、そんなことはありません。眼福です」

「あら、助平?」

「それは違います!」


 その身体は、まさに芸術品。

 下心? ございませんが?

 裸婦画を見て、猥褻だと思う人がいるだろうか。

 芸術品を鑑賞するのに、下心なんて出てくるはずがないのである。

 よって、先程の描写も、芸術についての描写である。

 安易なお色気シーンではないのである。

 そこにエロスを感じることはない。

 感じる者がいたとした、それは変態である。

 そう言うことで一つ、ご納得いただきたい。


 先輩はたたんだ制服を床に置いた。

 そして、タンスからパジャマを取り出した。

 ちなみに、このタンスも先輩の私物だ。

 先輩はすぐにパジャマを身に着けた。


「はい、終わりです」


 そう言って、先輩はぼくの隣に座った。

 その様子には、気恥ずかしさなど一切ないようだった。

 それどころか――。


「ところで、私の下着はどうでした?」


 感想まで求めてきた。


「結構なものだったかと」

「セクシーでしたか?」

「セクシーでございました」


 先輩は僕をからかって来た。

 そのやり取りに苦慮していると、先輩はぼくの手元を見た。

 そう言えば、ぼくは『走れエロス』を持ったままだった。

 先輩の前では、18禁小説を読まないようにしていたのだけれど。

 どうやら、バレてしまったらしい。


 ――先輩はさぞかし得意がることだろう。


 その予想は、見事なまでに外れてしまった。

 先輩は、眉を顰めてぼくを――いや、ぼくが持った本を見ていた。

 なにか気に入らないのだろうか。


「先輩、この本に何か?」

「いえ、何でもありません」


 なんでもない、という感じでもない。

 だけど、これ以上踏み込むのは止めておこう。


「それよりも――」


 桐島先輩が部屋の中を見回した。

 何かを探しているようだ。


「『黎明の叛逆者』の最終巻が今日発売のはずですが、購入はしていないのでしょうか?」


 黎明の叛逆者は、ぼくが集めている漫画だ。

 今は、桐島図書館に置いてある。

 先輩にも読んでもらいたいと思ったのだ。

 結果、先輩もハマってしまっていた。

 その新刊の発売日が今日だったのだ。


「忘れていました」


 帰りに買って帰る予定だった。

 だが、学校で色々あったせいで忘れてしまっていた。


「駄目ですよ、大切なことを忘れてしまっては」

「先輩が言うことじゃないですけどね」


 思い出すと、読みたくなってしまった。

 今日買うのも明日買うのも同じ。

 だったら、早く読めた方がいい。


「ちょっと買い物に行ってきます」

「それでは、私はお留守番しています。急がなくていいから、いってらっしゃい」

「行ってきます」


 玄関から出たところで、ふと気づく。

 ぼくは、家の留守を先輩に任せようとしている。

 どうやら、警戒心を失いつつあるのは、ぼくも同じらしい。


     ×××


 本屋へは、自転車で十分ほどだ。

 頭の中は、最新刊のことでいっぱいになっていた。

 五年間に及ぶ連載――その最後をこれから読むことになるのだ。

 期待とわずかな緊張が胸に浮かぶ。

 ちなみに、先輩に先に読ませる気はない。

 ぼくが十分に堪能したうえで、やきもきさせてからだ。

 思わせぶりなことを呟いたりするのも面白いかもしれない。


 そう考えていた。


 その途中――。

 公園で澪の姿を見かけた。

 いつもなら、部活をしている時間だ。

 それなのに、何をするでもなく佇んでいた。

 あの澪が、練習もせずにただ座っていた。

 胸がざわついた。

 嫌な予感がする。


 ――声をかけた方がいいか。


 そう思ったが、つい躊躇ってしまう。

 今日は、仲直りが出来た。

 一緒に昼食も取った。

 だけど、彼女の事情にずけずけと踏み込むのは躊躇われた。

 声をかけたところで、邪魔者扱いされるのではないか。

 せっかく改善した関係が、元に戻ってしまうのではないか。

 そう思えた。


 だから、立ち去ろうとした。

 すると――。


『さっさと行ってください。どうせ声をかけることになるのでしょうから』


 桐島先輩の声がした。

 とはいっても、本人がいるわけではない。

 ぼくの中の、イマジナリー桐島先輩がそう言ったのだ。


 ――何だこれ!?


『凪はそう言う人です』


 想像上の先輩は、更に話しかけてきた。

 これは重症だ――だけど、決心はついた。

 ここで澪を放っておくことは出来ない。


 もしも拒絶されたらどうするか?

 そんなものは、知ったことではないね。

 これは、ぼくがやりたくてやることなのだ。

 少なくとも、ここで彼女を放置すれば、確実に後悔する。


 というわけで――。

 ぼくは、公園の中に入っていった。

 そして、澪に近づいていく。


 澪もこちらに気づいたようで、驚いたようにぼくを見上げていた。

 その目は、真っ赤に充血していた。


「何でここに?」

「通りがかっただけだよ。それよりも、なにかあったのか?」

「……関係ない」


 澪はぶっきらぼうに言った。

 だが、その声の震えは隠せていない。

 それがかえって悲壮的なものに聞こえた。


「とりあえず、今日は帰れ」

「普段は、もっと遅くまで練習してる。今帰ったら、何かあったのかって思われちゃう」

「何かあったんだな?」


 澪は肯定も否定もしなかった。

 つまりは、イエスということだ。


「とにかく、人通りの少ない公園に一人にしておくわけにはいかない」

「大丈夫よ」

「分からないだろ」

「それじゃあ、どうするの?」


 彼女をここに置いておくわけにはいかない。

 一緒にいるにしても、人目につく場所は避けた方がいいだろう。

 だとすると――。


「だったら、一旦ぼくの家に来ないか?」

「……行っていいの?」

「ぼくが来てくれって言ったんだ」


 澪は黙ってこちらを見ていた。

 彼女の中では、色々な葛藤があるのだろう。

 ぼくに出来るのは、ただ待つことだけど。

 まぁ、断られたら強引に連れていくつもりだけど。


 ただ、その必要はなかった。

 少しすると、澪は「分かった」と言ってくれた。

 とりあえず――これで一人にしなくて済む。


「それじゃあ、行くか」


 そのことに安心し、ぼくは歩き出した。

 その時になって、ようやく思い出した。

 ぼくの家には『秘密の部屋』が出来てしまったことを。


 そして――。

 そこには今、堕落モードの先輩がいることを。

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