朝比奈澪の秘密④:陸上少女、孤立する
放課後になると、ぼくはすぐに家に帰った。
着替えを済ませると『秘密の部屋』に入る。
ここにはぼくの漫画も置いてある。
先輩がいない時も、一人で使っていいと言われている。
ぼくはいつもどおり、少年漫画を手に取ろうとした。
その時、ぼくはあるタイトルに目を引かれた。
『ほと走れエロス』
どう見ても、走れメロスのパロディだ。
どのようなものなのか、少し気になってしまった。
ぼくは漫画に伸ばしていた手を、走れエロスに向けた。
そしてページを捲る。
『エロスは奮起した。必ず、かの幽玄神秘の女湯を覗かなければならぬと決意した。エロスには良識がわからぬ。エロスは、村の暇人である。ホラを吹き、空想上の友人と遊んで暮して来た。けれども卑猥に対しては、人一倍に敏感であった』
このような阿呆な出だしで始まった。
その後エロスは覗きの罪で投獄され、人生は転落の一途をたどることになる。
妹の結婚式に出ようと悪友を身代わりにしたが、妹には絶縁された。
悪友のところに戻ったが「お前は最初から友達ではない」と嘲笑される。
エロスは絶望し、どこか遠くへ走っていった。
その後、エロスの行方はようとして知れない。
これがあらすじだ。
「何だこれ」
これが素直な感想だった。
どうやら、この本は名作パロディの短編集らしい。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、他の作品が気になってしまった。
もう少し読んでみようと思っていたのだけれど――。
桐島先輩が、帰ってくる音がした。
隣の家のドアの開閉穏が響く。
その直後、先輩はすぐにぼくの家にやって来た。
どうやら、玄関に荷物を置いてすぐに来たらしい。
「お邪魔します」
部屋に入って来るなり、先輩はそう言った。
そして、おもむろにブレザーを脱ぎ、ハンガーにかけた。
今日はこの格好で過ごすのかと思ったが、それで終わりではなかった。
先輩はスカートを床に落とす。
そのままシャツも脱いで下着姿になる。
その美しい肢体はまさに芸術品――いや、見とれている場合ではない。
――ぼくがいることに気づいていないのだろうか。
部屋に入ってから、先輩は一度もこちらを見ていない。
だからといって、無防備が過ぎる。
声をかけた方がいいのだろうか。
そうは思ったが、行動には移せなかった。
そうしているうちに、先輩はぼくの存在に気づいた。
少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつも通りの表情になる。
「あら、いらっしゃったのですね」
「……はい」
「お見苦しいものをお見せしました」
先輩は平然と言った。
下着姿を見られて、恥ずかしくないのだうか。
「いえいえ、そんなことはありません。眼福です」
「あら、助平?」
「それは違います!」
その身体は、まさに芸術品。
下心? ございませんが?
裸婦画を見て、猥褻だと思う人がいるだろうか。
芸術品を鑑賞するのに、下心なんて出てくるはずがないのである。
よって、先程の描写も、芸術についての描写である。
安易なお色気シーンではないのである。
そこにエロスを感じることはない。
感じる者がいたとした、それは変態である。
そう言うことで一つ、ご納得いただきたい。
先輩はたたんだ制服を床に置いた。
そして、タンスからパジャマを取り出した。
ちなみに、このタンスも先輩の私物だ。
先輩はすぐにパジャマを身に着けた。
「はい、終わりです」
そう言って、先輩はぼくの隣に座った。
その様子には、気恥ずかしさなど一切ないようだった。
それどころか――。
「ところで、私の下着はどうでした?」
感想まで求めてきた。
「結構なものだったかと」
「セクシーでしたか?」
「セクシーでございました」
先輩は僕をからかって来た。
そのやり取りに苦慮していると、先輩はぼくの手元を見た。
そう言えば、ぼくは『走れエロス』を持ったままだった。
先輩の前では、18禁小説を読まないようにしていたのだけれど。
どうやら、バレてしまったらしい。
――先輩はさぞかし得意がることだろう。
その予想は、見事なまでに外れてしまった。
先輩は、眉を顰めてぼくを――いや、ぼくが持った本を見ていた。
なにか気に入らないのだろうか。
「先輩、この本に何か?」
「いえ、何でもありません」
なんでもない、という感じでもない。
だけど、これ以上踏み込むのは止めておこう。
「それよりも――」
桐島先輩が部屋の中を見回した。
何かを探しているようだ。
「『黎明の叛逆者』の最終巻が今日発売のはずですが、購入はしていないのでしょうか?」
黎明の叛逆者は、ぼくが集めている漫画だ。
今は、桐島図書館に置いてある。
先輩にも読んでもらいたいと思ったのだ。
結果、先輩もハマってしまっていた。
その新刊の発売日が今日だったのだ。
「忘れていました」
帰りに買って帰る予定だった。
だが、学校で色々あったせいで忘れてしまっていた。
「駄目ですよ、大切なことを忘れてしまっては」
「先輩が言うことじゃないですけどね」
思い出すと、読みたくなってしまった。
今日買うのも明日買うのも同じ。
だったら、早く読めた方がいい。
「ちょっと買い物に行ってきます」
「それでは、私はお留守番しています。急がなくていいから、いってらっしゃい」
「行ってきます」
玄関から出たところで、ふと気づく。
ぼくは、家の留守を先輩に任せようとしている。
どうやら、警戒心を失いつつあるのは、ぼくも同じらしい。
×××
本屋へは、自転車で十分ほどだ。
頭の中は、最新刊のことでいっぱいになっていた。
五年間に及ぶ連載――その最後をこれから読むことになるのだ。
期待とわずかな緊張が胸に浮かぶ。
ちなみに、先輩に先に読ませる気はない。
ぼくが十分に堪能したうえで、やきもきさせてからだ。
思わせぶりなことを呟いたりするのも面白いかもしれない。
そう考えていた。
その途中――。
公園で澪の姿を見かけた。
いつもなら、部活をしている時間だ。
それなのに、何をするでもなく佇んでいた。
あの澪が、練習もせずにただ座っていた。
胸がざわついた。
嫌な予感がする。
――声をかけた方がいいか。
そう思ったが、つい躊躇ってしまう。
今日は、仲直りが出来た。
一緒に昼食も取った。
だけど、彼女の事情にずけずけと踏み込むのは躊躇われた。
声をかけたところで、邪魔者扱いされるのではないか。
せっかく改善した関係が、元に戻ってしまうのではないか。
そう思えた。
だから、立ち去ろうとした。
すると――。
『さっさと行ってください。どうせ声をかけることになるのでしょうから』
桐島先輩の声がした。
とはいっても、本人がいるわけではない。
ぼくの中の、イマジナリー桐島先輩がそう言ったのだ。
――何だこれ!?
『凪はそう言う人です』
想像上の先輩は、更に話しかけてきた。
これは重症だ――だけど、決心はついた。
ここで澪を放っておくことは出来ない。
もしも拒絶されたらどうするか?
そんなものは、知ったことではないね。
これは、ぼくがやりたくてやることなのだ。
少なくとも、ここで彼女を放置すれば、確実に後悔する。
というわけで――。
ぼくは、公園の中に入っていった。
そして、澪に近づいていく。
澪もこちらに気づいたようで、驚いたようにぼくを見上げていた。
その目は、真っ赤に充血していた。
「何でここに?」
「通りがかっただけだよ。それよりも、なにかあったのか?」
「……関係ない」
澪はぶっきらぼうに言った。
だが、その声の震えは隠せていない。
それがかえって悲壮的なものに聞こえた。
「とりあえず、今日は帰れ」
「普段は、もっと遅くまで練習してる。今帰ったら、何かあったのかって思われちゃう」
「何かあったんだな?」
澪は肯定も否定もしなかった。
つまりは、イエスということだ。
「とにかく、人通りの少ない公園に一人にしておくわけにはいかない」
「大丈夫よ」
「分からないだろ」
「それじゃあ、どうするの?」
彼女をここに置いておくわけにはいかない。
一緒にいるにしても、人目につく場所は避けた方がいいだろう。
だとすると――。
「だったら、一旦ぼくの家に来ないか?」
「……行っていいの?」
「ぼくが来てくれって言ったんだ」
澪は黙ってこちらを見ていた。
彼女の中では、色々な葛藤があるのだろう。
ぼくに出来るのは、ただ待つことだけど。
まぁ、断られたら強引に連れていくつもりだけど。
ただ、その必要はなかった。
少しすると、澪は「分かった」と言ってくれた。
とりあえず――これで一人にしなくて済む。
「それじゃあ、行くか」
そのことに安心し、ぼくは歩き出した。
その時になって、ようやく思い出した。
ぼくの家には『秘密の部屋』が出来てしまったことを。
そして――。
そこには今、堕落モードの先輩がいることを。




