断片的な脅迫⑧:氷の姫君、溶ける
先輩のハグは、五分ほど続いた。
その間、ぼくは様々なことを考えていた。
日本においても、友人同士がハグをするということはある。
あまり多くはないが、不自然ではない。
だけど――それが数分間にわたって続くというのはどうだろうか。
それは、知り合いも友人も超えた関係になるのではないか。
――いや、期待をするのは良くない。
ぼくは自分を戒めた。
先輩は、今回のことを感謝してくれているだけだ。
このハグは、その表れに過ぎない。
ここで勘違いをすると、後で失望することになる。
あるいは、絶望することになる。
だけど――。
先輩のぼくに対する態度は、明らかに変わっていた。
ぼくがソファーに座ると、先輩はその隣に腰を下ろした。
そして、寄りかかって体重を預けてくる。
「あの、これは、どういうことでしょうか?」
「……なんとなく、です」
これは、甘えられているのだろうか。
それとも、ご褒美のつもりなのだろうか。
考えても答えは出ない。
「ところで、佐藤さん」
「何でしょう?」
「私は、あなたに助けていただきました。二回も」
「二回?」
「一度は、ここにある本を置かせてくれたこと。二度目は、今日のスマホのこと。私は、佐藤さんにとても大きな恩義を感じています」
なんだ、そんなことか。
それを言うなら、感謝をするのはぼくのほうだ。
先輩がここに来てくれてから、毎日が少しだけ楽しくなってきていた。
つまらない人生に、少しだけわくわくするような刺激が現れた。
だから、ぼくは「気にしないでください」と答えた。
答えたのだが――。
「それは無理です」
先輩は、きっぱりと言った。
「いや、でも――」
「私が気になるのです。言っておきますが、佐藤さんのことを内緒にしておくというのは、恩返しになりません」
「そうは仰いましても……」
「お願いします。ちゃんとした恩返しの機会をください」
姿勢を正し、丁寧な言葉で先輩は言った。
「私に何か、してほしいこと、ありませんか?」
「してほしい事……」
「なんでもいいですから。言ってみてください」
なんでもいい。か。
こういうのが一番困るんだよなぁ。
当然、本当に『何でも』というわけではない。
欲望をそのまま口にしたら、ドン引きされること請け合いだ。
ぼくと先輩の関係。
先輩の感じている恩義の重さ。
先輩の適性。
それらを考慮し、適切な回答をする必要がある。
そう考えた結果――。
「この部屋で、本を読ませてもらっているだけで十分ですよ」
ぼくはそう答えた。
こんなところで、リスクを負うような回答をする必要はない。
これが、最も無難な回答だろう。
「……そうですか」
先輩は、失望したように声音を落とした。
それに焦ったぼくは、つい不用意な発言をしてしまった。
「ほら、先輩と一緒にいられますし」
そう言った瞬間――『やらかした』と思った。
とんでもなく恥ずかしいことを言ってしまったのではないだろうか。
これではまるで――先輩と一緒にいたいみたいだ。
いや、いたくないわけではない。
一人で家にいるのは退屈だ。
そこに先輩が来ることで、楽しく過ごせている。
ただ、今の発言は――。
好意を伝えているように聞こえるかもしれない。
まるで、恋愛感情を抱いているように聞こえるかもしれない。
そう思っていたら――。
先輩の色白の肌が朱に染まっていた。
「あの……、えっと……」
「いや、そういう意味ではなくて」
「では、どういう意味で?」
先輩は、上目遣いで尋ねた。
一緒にいられる――このことの意味。
ぼくは何故、先輩と一緒にいたいのだろうか。
考えてみれば、明確な理由はない気がする。
ただ――。
先輩と一緒にいるのは、なぜか居心地がいいのだ。
飾らない先輩は、気の置けない友人のようで。
「何ていうか、ずっと一緒にいたいような気分になるんです」
「……何を言っているのですか?」
先輩はさらに顔を赤くした。
うん、聞きようによっては、プロポーズのように聞こえるね。
毎朝みそ汁を作って欲しいって言っているように聞こえるね。
今日は、何を言っても失敗する気がしてきた。
ぼくは、次の言葉を探していた。
無難で、この場を切り抜けられるような適切な言葉。
だが、そうしているうちに、先輩は攻勢に出た。
「とにかく、何かお願い事をしてください」
願い事を急かしてきた。
何なのこの人、シェンロンなの?
ギャルのパンティーとかお願いすればいいの?
いや、先輩相手にそんなことを言ったら、軽蔑されることになるだろう。
ワンチャン、先輩が自分の――何でもない。
「さもなくば――」
「さもなくば?」
「私にお願い事をしたくて堪らないようにします!」
先輩は妙なことを言い出した。
「あの、どうやって?」
「これから、私はここでやりたい放題やることにします。そうすれば、佐藤さんも『何か対価を貰わなければ割に合わない』と思うことでしょう」
「もう来るな、って言うかもしれませんよ?」
「本当に、そう言うつもりですか?」
先輩は上目遣いで尋ねた。
それは反則だ。うちのシェンロンは可愛すぎる!
「まぁ、言いませんけど」
「そうですよね、凪」
先輩は、ぼくの名前を呼んだ。
驚くぼくに、先輩は告げる。
「第一弾として、名前で呼ばせてもらうことにしました」
「そうですか」
「それで、私のことは何て呼んでいただけるのですか?」
「桐島先輩と――」
「エリス、と呼んでください」
「でも――」
「凪は私に迷惑をかけられる義務があります。それが嫌なら、はやく願いを言うことです」
めちゃくちゃな理屈だ。
だけど――なんとなく、逆らえない。
そういう不思議な魅力が、先輩にはあるのだ。
「分かりました。では、エリス先輩」
「先輩はいりません。ただ、エリスと呼んでください」
「いや、でも……」
本人の許しがあるとはいえ、呼び捨てには抵抗がある。
ぼくが言いあぐねていると、先輩は言葉を続けた。
「今後、水の呼吸第11の型『凪』とお呼びします」
「長い!?」
「そうでしょうか、水の呼吸第11の型『凪』。ところで、水の呼吸第11の型『凪』は私のことを、いつ予備既にしてくれるのでしょうね? どうですか、水の呼吸第11の型『凪』」
先輩は淀みなく言ってのけた。
中々の早口言葉だ。
でも、中々踏ん切りがつかない。
「中々、頑固ですね。いいでしょう。それでは、妥協点を提供します」
「妥協点?」
「呼び捨てが嫌なのであれば、私のことはエリス変態と罵ってください」
「エリス変態」
何故か、こっちは素直に言えた。
ついうっかり、流れで言ってしまった。
だが、先輩は特に気分を害してないようで――。
「……凪に罵られると、少し気持ちいいかもしれません」
とんでもないことを言っていた。
「本気で言ってます?」
「冗談ですよ?」
なんだ、冗談だったのか。
冗談――ですよね?
今のは、特殊な性癖の吐露じゃありませんよね?
「水の呼吸第11の型『凪』がそう呼びたいのであれば、私は受け入れますが……」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいのです。私は恩を感じています。是非変態と呼んでください」
「すみません、エリス」
「よろしい」
先輩は満足したように言った。
最初から、こうするつもりだったのだろう。
してやられてしまった。
「というわけですので、これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
「それと、私へのお願い事は、早めに決めてください」
「……はい」
こうして、この部屋にいるときだけは、先輩から遠慮が消えた。
×××
翌日以降、先輩はこの部屋で気を抜いて過ごすようになった。
これまでは、ソファーに座っていても背筋がピンと伸びていた。
しかし、今では背もたれに背中を預け、だらりとした姿勢になっている。
時には、横向きに寝転がっていることもある。
時には、そのまま眠ってしまっていた。
気の抜けは、服装にも表れていた。
これまで、ここで見せるのは殆どが制服姿だった。
そうでなくとも、気合の入った私服を着ていた。
だが、今ではパジャマ姿で過ごすようになっていた。
あまりにラフ――というか、プライベートな姿。
時折、捲れてお腹が露出していることもある。
そんな時は、少しだけ気を使ってしまう。
ただ――。
そんな彼女と一緒にいる時間は、悪くないと思った。




