笑わない天城ひなた
三日目の朝、ひなたは二つの鞄を持っていた。
一つは自分のもの。
もう一つは、足を痛めた学生のものだった。
「これくらい、いいって」
その学生を送り終える前に、別の呼び声がした。
「受付、十五分だけ代わってもらえない?」
「何時?」
「十二時半」
ひなたの昼食は十二時十五分からだった。
「……分かった」
端末が鳴った。
資料の修正。欠席者への連絡。掲示物の差し替え。
ひなたは通知を見ると、歩く速度を上げた。人に呼ばれると止まった。
ユウもそのたび、追いついたり、少し先へ出たりした。
午前の作業は展示物の運び込みだった。
通路の設備点検が長引き、箱が廊下に積み上がっていた。
ひなたは自分の荷物を置き、別の班へ向かった。
「そっち、私が持つよ」
ユウの端末に白い枠が現れた。
《A:手順を組み直してから再開する》
《B:困っている班から手伝う》
下で小さな円が回っていた。
ひなたが箱を持ち上げた。
指先が滑った。
箱は落ちなかった。
ユウの手が、箱を支えていた。
「一回、置こう」
「大丈夫。持てる」
「じゃあ、俺が置きたいから付き合って」
ひなたは彼を見た。
二人で箱を下ろした。
彼女の肩が下がった。
笑っていた口元も、一度、閉じた。
「天城さん、こっちもお願いできる?」
別の班から声が飛んだ。
ひなたは振り向きかけた。
「ごめん、今、休憩してるところだ」
ユウが言った。
相手は「あ、ごめん」と答え、自分の作業へ戻った。
それから、ユウを見た。
「……自分で言えたのに」
「ごめん。勝手に答えて」
「そうじゃなくて。言ってくれて、助かったんだよ」
ひなたは床に置いた箱へ目を落とした。
「私も、ああ言えたらよかったなって」
彼女は続けなかった。
ユウも、その先を急いで聞かなかった。
ゆらが台車を持ってきた。
「人手の前に車輪を増やそう。文明の力があるんだから」
玲奈が経路を組み替え、しずくが行き先の札を貼った。
ひなたが休んでいる間も、箱は運ばれていった。
昼休み、彼女は食堂へ来なかった。
講義棟の裏へ回ると、階段に座っていた。
端末を伏せ、膝に両手を置いている。いつもならユウを見つけると上がる手が、そのままだった。
「隣、座っていい?」
「今日は、ちょっと」
ユウは足を止めた。
「あ、ユウが嫌なわけじゃなくて」
「うん」
「怒った?」
「怒ってない」
「本当に?」
ユウは少し考えた。
「一人でいたい人に、ずっと大丈夫って言わせるのも変だな」
自動販売機で水を買った。
「これは、いる?」
ひなたは少し迷ってから手を伸ばした。
「いる。ありがとう」
冷えた容器を渡すと、彼女は両手で包んだ。
階段から離れたところで呼び止められた。
「さっき、私、笑ってなかった?」
「笑おうとしてた」
ひなたは自分の頬に触れた。
「そっか」
午後、彼女には面談を勧める通知が届いた。
《役割遂行率の低下を確認》
《自己管理と適応状態の見直しを推奨します》
「面談、予約しなきゃ」
ひなたは画面を閉じた。
ユウの端末には、午前の記録が残っていた。
Bに付いた印と、その時刻。
箱を下ろしてから、しばらく経ったあとの時刻だった。




