空白の少年
十一日目、中央観察室で説明が始まった。
部屋に入ると、消毒液の匂いがした。
最初に目覚めた白い部屋にも、こんな匂いがあっただろうか。
ユウは思い出そうとした。
あのときは、天井の照明を数えていた。
六本。
それだけは、はっきり覚えている。
佐伯の隣には岸が座っていた。
ひなた、しずく、玲奈、ゆらも同席している。
ユウの前に、一枚の書類が置かれた。
《SUBJECT-00》
《暫定呼称:YU》
《固定人格コア:未搭載》
「あなたは、記憶を失った一般参加者ではありません」
佐伯が言った。
「外部の判断を、現実の対人行動へ接続するために設計された生体端末です」
ユウは書類を見た。
一度、佐伯を見た。
もう一度、書類を見た。
「……何ですか、それ」
「あなたの身体は、実験用に育成されたものです」
「いや、それは聞こえました」
ユウは自分の胸元へ手を当てた。
「え、それ、俺の話ですか?」
「そうです」
「……俺、人間ですよね?」
佐伯はすぐに答えなかった。
「生物学的には人間に近い構造を持っています。ただし、通常の出生と成長の過程を経ていません」
「近いって、何ですか」
声が大きくなった。
「俺、ここにいますよ。ご飯だって食べるし、雨に濡れたら寒いし、転んだら痛いし……」
途中で言葉が止まった。
そんなことを説明して、何になるのだろう。
佐伯はユウの返答を待った。
ユウは、待たれていることにも腹が立った。
「家族は?」
「登録された家族はいません」
「登録されてないだけじゃなくて?」
「いません」
「前の学校は?」
「ありません」
「じゃあ、子供の頃は?」
佐伯は書類へ目を落とした。
「生活を経験した幼少期はありません」
「……嘘だ」
ユウは、自分の口から出た言葉に驚いた。
嘘だと言える証拠はなかった。
それでも、もう一度言った。
「嘘だ」
ひなたが椅子から立ちかけた。
「ユウ……」
「俺、学校のこと知ってますよ。授業とか、試験とか、進路とか。TYPE診断だって――」
「それらは、我々が事前に与えた知識です」
「じゃあ、何で」
ユウは机に両手をついた。
「いや、そんなはずは!俺、TYPE診断を受けことあるって知ってました」
「その情報も、初期設定として与えらたものです」
「……受けてないんですか」
「はい」
ユウは記憶を探した。
TYPE診断の仕組みは説明できる。
けれど、どこで受けたのか、誰に結果を渡されたのか、思い出せなかった。
「……じゃあ、何で」
ユウは佐伯を見た。
「何で、受けてもいない診断を、俺が受けたことにしたんですか」
佐伯はすぐには答えなかった。
「俺、自分の過去だと思ってたんですよ」
ユウは机の縁を握った。
「何も覚えてないから、何か一つでも思い出せるかもしれないって……」
言葉が続かなかった。
「最初からなかったなら、そう言ってくれればよかったじゃないですか」
「……何なんだよ、それ」
喉が痛かった。
「俺、知ってることはあるのに」
拳を握った。
「俺がやったことは、一個もないってことですか」
「観察開始後の経験は、あなた自身が実際に経験したものです」
「そういう話じゃない!」
ユウは立ち上がった。
椅子が後ろへずれ、大きな音を立てた。
「じゃあ、ここで目を覚ます前の俺は何者だったんですか!」
ひなたが立った。
「先生。こんな大事なことをどうして今日まで、ユウに黙ってたんですか」
ひなたが佐伯をにらんだ。
ユウは彼女を見た。
第十日目に見た、四人分の計画書を思い出した。
ひなたと出会うことも、交流を重ねることも、観察のために用意されていた。
「……ひなた」
「何?」
「今のも、予定にあった?」
ひなたの眉が寄った。
「今のって?」
「俺のために怒ってくれたこと」
ひなたは一瞬、言葉を失った。
「……そんなわけないでしょ」
「でも、俺がどう反応するか、調べてたんだろ」
「それと、私が怒ったことは別だよ」
ひなたはユウの方へ向き直った。
「私は今、本当に腹が立ってる。ユウがこんなに傷ついてるのに、先生が平気な顔で説明を続けるから」
ユウは答えられなかった。
ひなたの言葉を信じたかった。
けれど、目の前にいる彼女を信じたいと思う気持ちまで、誰かに用意されたものだったら。
そう考えると、何も言えなくなった。
ひなたはしばらく返事を待っていた。
それから、ユウの前まで来た。
「……ユウ」
彼女は手を伸ばしかけて、止めた。
「ちょっとだけ、いい?」
ユウは何を聞かれたのか、すぐには分からなかった。
ひなたの手が、宙で待っていた。
小さくうなずくと、彼女はユウの肩に腕を回した。
ほんの少しだけ、抱き寄せられた。
制服の布が頬に触れた。
ひなたの体は温かかった。
「……ごめん」
ひなたが言った。
「何て言えばいいか、分かんない」
ユウも分からなかった。
手を伸ばしていいのか。
何か返した方がいいのか。
それとも、この温かさまで、誰かが決めたものなのか。
けれど、今は離れたくなかった。
ユウが動かないでいると、ひなたは少しして腕を緩めた。
それ以上、何も言わなかった。
「では先生、私からも質問させていただけるかしら。」
玲奈が自分の端末を佐伯に向けた。
佐伯は玲奈の方へ向き直った。
「昨日見た、三十六件の回答ですけど、答えた人は、ユウのことをどこまで知ってたんですか」
「外部から匿名で参加した方です。架空の人物が次にどう行動するか、選んでほしいと説明しました」
「架空って……」
ゆらがユウの方を見た。
「この人が本当にこの世界にいるって、言わなかったのか?」
「はい」
「ありがとう、ひなた」
ユウは目を赤くして言った。
「俺がさっき、ひなたに言ったことも、その人たちが選んだんですか」
「外から選べるのは、こちらが用意した場面の選択肢です。受け取った答えに応じて、あなたがどの行動を取りやすくなるかが変わります。話す言葉を、一言ずつ選んでいるわけではありません」
「じゃあ、言葉は俺の?」
「言葉を組み立てる支援はあります。あなたがその場で見聞きしたことや、それまでに覚えたことが使われます」
ユウは、さっきひなたに尋ねたことを思い出した。
『今のも、予定にあった?』
ひなたは、自分のために怒ってくれた。
それなのに、あんなことを聞いてしまった。
質問を聞いた瞬間、ひなたの眉が寄った。
その顔が、まだ頭から離れなかった。
傷つけたのかもしれない。
けれど、あの質問さえ自分の意思で口にしたのか、今は分からない。
ユウは、ひなたの方を見られなかった。
傷つけたと思った。なのに、自分が言ったのだと引き受けることさえ、こんなふうに人に確かめている。
「雨の日、俺、ゆらの腕をつかみました」
「ああ。ここをガシーンとな!」
ゆらが自分の肘に触れた。ユウの指がかかったところだった。
「あのときは、まだ答えが来てなかった。あれは、俺がやったんですよね」
「その通りです。手を伸ばす一瞬に、外部からの指示は出ていませんでした」
そう言ってもらえたら、少しはほっとすると思っていた。
「俺がゆらを助けたんですよね」
「そうです」
「だったら、何でそれを先生に確かめなきゃいけないんですか」
声が震えた。
「俺がやったはずなのに」
ゆらが口を開いた。何か言いかけて、自分の肘から手を下ろした。
佐伯もすぐには答えなかった。
やがて、佐伯は手元の画面を切り替えた。
《観察期間:十四日》
《基礎観察:十日》
《関係観察:四日》
《終了処理:十四日目十八時》
「……その時間になったら、俺はどうなってしまうんですか」
「外部の方から得た回答の傾向をもとに、判断を安定させるための変更を行う予定です」
「……変えるって、何をですか」
ユウは佐伯を見た。
「俺の、何を変えるんですか」
「何を優先するか。同じ相手や出来事に、どれほど強く気持ちが動くか。そうした部分です。観察中の記憶は、資料として保存します」
「佐伯先生。それは、施設に記録が残るという話ですよね」
玲奈が口を挟んだ。
「その通りだ」
「私が聞きたいのは、ユウ本人のことです」
玲奈はユウを見た。
「校正が終わったあとも、ユウは今と同じように、私たちとの思い出を大切に思えるんですか」
佐伯はすぐには答えなかった。
「保証はできません」
ユウはポケットの上から、ひなたがくれた折った紙の角に触れた。ゆらが《海》と書き足して、ひなたが六人の名前を書いた。十五日目の予定だった。
「俺、みんなと海に行きたいんです。」
ひなたがうなずいた。
「十五日目にこれを開いたら、誰が何を書いたかは覚えてても……何で俺、こんな紙を取ってあるんだろうって、そう思うかもしれないってことですか」
「その約束を、今と同じように大切に思うかは保証できません」
指を離した。紙の角が服の下に戻った。
誰かが椅子を引いた。
ユウは一度、目を閉じた。
開けた。
書類がある。
机がある。
画面がある。
岸の名札は読めた。
ひなたの髪は栗色だと分かった。
どちらにも目が留まらなかった。
「色、薄い」
岸が近くに来た。
ユウは自分の袖を見た。
白い。
机も白い。
書類も白い。
「俺、いなくなるんですか」
「より安定した状態へ移行させます」
佐伯の声だった。
「その答え方、もう嫌だ」
岸が佐伯へ向き直った。
「説明を止めてください」
佐伯が口を開きかけた。
「今は、止めてください」
部屋は静かになった。
ユウの手は、また机の縁をつかんでいた。




