第8話 三人の復讐者 / THE THREE MEN OF VENGEANCE
庵は、谷の底にあった。
六人は三人の老翁を追い、獣道とも呼べぬ斜面を下った。
雨は止まない。
霧も深い。
足元すら見えぬほどの白い闇が、谷全体を覆っている。
だが。
頼光は途中で足を止めた。
霧の奥を――一瞬だけ、紫色の光が走った。
雷ではない。
直線だった。
縦と横。
まるで巨大な格子が、山そのものの上に重なったように見えた。
「頼光殿?」
保昌が振り返る。
「……いや」
頼光は再び歩き出した。
見間違いだ。
そう思うことにした。
だが。
その光景は、彼の知るどんな神仏の奇跡とも違っていた。
谷へ降りるにつれて、暖かな匂いがした。
薪の燃える匂い。
そして。
木々の隙間に、小さな建物が現れた。
古い庵。
壁は傾き。
屋根には苔が生えている。
だが中からは、確かに火の光が漏れていた。
妙だった。
これほど激しい雨の中。
こんな深い山奥で。
庵の周囲だけが、異様なほど暖かい。
「入りなされ」
中央の老翁が戸を開いた。
その瞬間。
頼光の目に、また奇妙なものが見えた。
老人の輪郭が。
ほんの一瞬だけ。
二重になった。
人間の身体の上に、光だけでできた別の姿が重なったように。
瞬きをすると消えていた。
金時が頼光を見る。
頼光は僅かに頷く。
六人は中へ入った。
火が燃えていた。
囲炉裏。
湯。
粗末ながら温かな粥。
だが金時は、粥を見て目を丸くした。
「本物の米じゃねえか」
この山に入ってから、まともな食料など見ていない。
まるで。
六人がここへ来ることを、最初から知っていたかのように。
「まず濡れたものを脱がれよ」
老人が言った。
「鬼を討つにも、命が残っておらねば始まらぬ」
金時が火の前へ座った。
「ありがてえ……」
綱は黙って庵の中を見ていた。
寝具。
食器。
薪。
必要なものは揃っている。
だが。
人が長く生活している気配がない。
煙の煤さえ、ほとんどない。
季武も気づいたらしい。
目だけで綱を見る。
綱は僅かに首を振った。
今は何も言うな。
そういう合図だった。
老人たちは六人の傷を洗った。
貞光の足には、山中で負った深い傷がある。
一人の老翁が、見たことのない薬草を傷口へ置いた。
青白い。
微かに光っている。
「何だ、それは」
金時が覗き込む。
老人は答えない。
薬草が傷へ触れた瞬間。
貞光が息を呑んだ。
「……熱い」
青い光が、一瞬だけ傷の奥へ走る。
そして。
出血が止まった。
季武が目を見開く。
「そんな馬鹿な」
貞光自身も、自分の足を見ている。
「昨日まで歩くのも難しかった傷だぞ」
老人は小さく笑った。
「山には、人の知らぬものもある」
それだけだった。
だが。
その瞬間。
庵の外。
霧の向こうで。
何かが点滅した。
[ TEMPORAL ANOMALY DETECTED ]
[ BIOLOGICAL RESTORATION — UNKNOWN SOURCE ]
[ TIMELINE INTEGRITY : 97.31% ]
もちろん。
頼光たちに、その文字を見ることはできなかった。
だが、23世紀の端末室でその異常数値をモニタリングしていたKAITOは、思わず身を乗り出した。
「生体組織の瞬間再生……? AMATERASUの医療プロトコルすら凌駕している。あいつら、一体何者と接触しているんだ」
モニターの向こうの六人のバイタルは安定している。KAITOは安堵の息を吐きながら、彼らを取り巻く見えない存在への警戒を強めた。
夜。
雨音だけが庵を包んでいた。
六人は火を囲んでいる。
三人の老翁は、その向こうに座っていた。
頼光が口を開いた。
「ひとつ聞きたい」
「何なりと」
「なぜ、この山にいる」
老人たちは黙った。
炎が弾ける。
やがて中央の老翁が言った。
「奪われたのじゃ」
「何を」
「家を」
隣の老人。
「妻を」
三人目。
「子を」
金時の顔から笑みが消えた。
中央の老翁は炎を見ていた。
「酒呑童子がこの山に現れてから、多くの者が消えた」
「都の者だけではない」
「この山の麓にも、人は暮らしておった」
老人の目に火が映る。
「ある夜、鬼どもが来た」
静かな声だった。
「家を焼き」
「人をさらい」
少し間を置く。
「戻ってきた者は、一人もおらぬ」
綱が問う。
「ならば、復讐のためにここへ?」
老人は綱を見る。
「そう思ってもらって構わぬ」
妙な答えだった。
頼光が老人を見る。
「道を知っているのか」
「知っている」
即答だった。
「鬼の城まで?」
「知っている」
「見張りは」
「知っている」
「酒呑童子の好みは」
老人は一瞬だけ笑った。
「酒じゃ」
金時が鼻で笑う。
「名前通りだな」
だが。
頼光は笑わなかった。
知りすぎている。
この三人は。
山の道。
鬼の城。
見張り。
酒呑童子。
そして――。
頼光は静かに問う。
「我らが誰かも知っているな」
炎が揺れた。
沈黙。
やがて。
中央の老翁が顔を上げる。
「源頼光」
頼光の右手が動いた。
白布の下。
安綱の太刀まで、指三本。
綱も腰へ手を伸ばす。
老人は続けた。
「渡辺綱」
綱の目が細くなる。
「坂田金時」
金時が立ち上がりかける。
「卜部季武」
「碓井貞光」
最後に。
「藤原保昌」
完全な沈黙。
六人は。
一度も名乗っていない。
中央の老翁は言った。
「剣から手を離されよ」
頼光は答えない。
「我らが鬼なら」
老人は火を見た。
「おぬしらが眠っている間に、すべて終わっておる」
金時が小声で言った。
「……setAlignment……それはそうだ」
綱が睨む。
「納得するな」
老人が初めて声を上げて笑った。
その笑い声。
頼光は知っている。
なぜか。
石清水八幡宮で聞いた。
あの鈴の音を思い出した。
――リン。
夜が更けたころ。
三人の老翁は立ち上がった。
「頼光殿」
中央の老人が言う。
「鬼を討つつもりなら、これを携えて行かれよ」
差し出されたのは、小さな酒壺だった。
古びた壺。
何の飾りもない。
頼光が受け取る。
重い。
大きさからは考えられないほど。
「酒か」
「酒じゃ」
金時が覗き込む。
「俺も飲んでいいのか?」
「飲めばよい」
老人が笑う。
「人が飲めば、力を得る」
金時の目が輝く。
「本当か」
「だが」
老人の声が変わった。
「鬼が飲めば――毒となる」
全員の表情が変わった。
頼光が酒壺を見る。
「名は」
老人は答えた。
「神便鬼毒酒」
火が大きく揺れた。
「人には力を与え」
「鬼神を酔わせ」
「その力を奪う酒」
頼光は酒壺を両手で受け取る。
その瞬間。
誰にも見えない場所で。
何かが起動した。
[ UNKNOWN SUBSTANCE DETECTED ]
HUMAN RESPONSE : ENHANCEMENT
ONI RESPONSE : NEURAL COLLAPSE
ORIGIN : UNRESOLVED
「対象を限定した神経破壊……いや、ナノマシンに近い遅効性の毒か?」
KAITOの端末に流れる解析データが、その『酒』の異常な成分構成を次々と弾き出していく。平安の伝承に残る『神仏の助け』。それがシステム的に最適化された劇薬だという事実に、KAITOの背筋に冷たいものが走った。
さらに別の老人が。
庵の奥から、一つの兜を運んできた。
星を打った。
異様なほど堅牢な兜。
その表面を。
一瞬だけ。
青い光が走った。
「これも」
頼光が受け取る。
「星兜……」
老人が頷く。
「首を落としても」
声が低くなる。
「鬼を侮ってはならぬ」
頼光が老人を見る。
「どういう意味だ」
老人は炎の向こうで笑った。
「鬼は」
長い沈黙。
「首だけになっても――鬼じゃ」
頼光の背筋を。
冷たいものが走った。
[ WARNING ]
HOSTILE ENTITY MAY REMAIN ACTIVE AFTER DECAPITATION
夜明け。
雨は止んでいた。
頼光たちは出立の支度を終えた。
貞光が、自分の足を確かめる。
痛みがない。
昨夜までの深い傷が。
ほとんど塞がっている。
「……どうなっている」
金時が笑う。
「神様みたいな爺さんだったな」
綱が睨む。
「余計なことを言うな」
三翁は庵の前に立っていた。
中央の老翁が山の奥を指す。
「この道を行け」
「やがて川へ出る」
「その川を遡れば、鬼の城へ続く」
頼光が一礼する。
「恩は忘れぬ」
老人たちは答えなかった。
六人は歩き出した。
しばらくして。
頼光が足を止めた。
「どうした」
保昌が問う。
頼光は振り返る。
全員が続いた。
そこには。
何もなかった。
庵がない。
火もない。
三人の老翁もいない。
ただ。
深い森と。
朝霧。
金時が呟く。
「……おい」
誰も答えない。
頼光は腰に下げた酒壺を見る。
ある。
星兜もある。
夢ではない。
幻でもない。
その瞬間。
庵があったはずの空間に。
紫色の線が走った。
縦。
横。
無数の格子。
ほんの一瞬。
森そのものが透け。
その向こうに。
頼光には理解できない巨大な構造物が見えた。
空を貫く塔。
光の道。
そして。
無数の文字。
次の瞬間。
すべて消えた。
――リン。
三つの鈴の音が重なる。
頼光は静かに頭を下げた。
石清水。
住吉。
熊野。
その名を口には出さなかった。
だが。
時代の遥か外側では。
別の何かが。
この瞬間を記録していた。
[ TEMPORAL NODE 03 — CLOSED ]
[ THREE GUARDIANS — SIGNAL LOST ]
[ LOST KEY PROXIMITY : INCREASING ]
六人は再び歩き出す。
酒呑童子の待つ。
大江山の奥へ。
やがて。
水の音が聞こえてきた。
川だ。
その川辺に。
ひとりの女がいた。
白い衣を水へ沈めている。
何度も。
何度も。
そして。
川の水は――
赤かった。
その赤い流れの底を。
一瞬だけ。
紫色の光が走った。
まるで。
この山そのものが。
何か巨大な機械の内部であるかのように。
――第8話 END
次話
第9話 血を洗う女 / THE WOMAN WHO WASHES BLOOD
THE GATE IS OPEN.
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第8話では、深い霧の谷底で頼光たち六人を待っていた「三人の老翁」との邂逅、そして彼らから託された神便鬼毒酒と星兜が描かれました。
平安の武者たちの目には、傷を癒やす不可思議な力も老翁たちの存在も、神仏の加護あるいは怪異として映っています。しかしその背後では、別時代の記録が静かに動き続けています。
神話の仮面が剥ぎ取られたとき、大江山の真実が牙を剥く。物語はいよいよ、禁忌の中枢へと突入します。
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