第11話 人肉血の卓 / THE TABLE OF FLESH AND BLOOD
広間へ足を踏み入れた瞬間、頼光は空気そのものに重さを感じた。
大江山の最深部。
そこは京のどの御殿とも、寺社のどの神域とも違っていた。
黒く滑らかな壁。
その奥を、血管のような青白い光が脈打っている。
頭上には、紫の光が格子のように走り、ときおり空間そのものが水面のように揺れた。
頼光には、それが何なのか分からない。
神仏のものとも、鬼の妖術とも違う。
ただ、人が長く留まってはならぬ場所だということだけは、身体が理解していた。
[ SECTOR-04 : INNER CHAMBER ]
[ TEMPORAL INTEGRITY : 34.2% — DEGRADING ]
[ BIO-SIGNATURES : 6 HUMAN ]
[ STEALTH PROFILE : ACTIVE ]
「セクター04、インナー・チェンバー到達……タイムラインの完全性が34パーセントまで低下している!」
23世紀の端末室で、KAITOは青ざめた顔でモニターにしがみついていた。
あいつら、まさかあの怪物の懐の奥まで……。
鉄錆。
腐肉。
酒。
そして、雷が落ちた直後のような、鼻を刺す焦げた匂い。
六人は山伏の衣の下に武具を隠し、ゆっくりと宴席へ進んだ。
源頼光。
渡辺綱。
坂田金時。
卜部季武。
碓井貞光。
平保昌。
その誰一人として、刀へ手を伸ばしてはいない。
広間には、無数の鬼がいた。
赤い肌。
青い肌。
額から角を生やした者。
人に似ていながら、口だけが異様に裂けた者。
巨大な獣の骨を噛み砕く者。
血に濡れた腕を振り回しながら笑う者。
その中心。
一段高い場所に、一人の男が座っていた。
酒呑童子。
長い髪。
白い肌。
鬼の王と呼ぶには、あまりにも端正な顔立ち。
その手には、赤い酒を満たした杯。
そして唇には、静かな笑み。
「珍しい客が来たものだ」
大声ではなかった。
だが、その一言だけで広間の喧騒が止まった。
何十、何百という目が、一斉に六人へ向く。
金時の拳が、衣の中で固く握られた。
綱は横目だけでそれを見る。
動くな。
その視線だけで伝える。
酒呑童子は六人を眺め、わずかに首を傾げた。
「山伏か」
頼光は静かに頭を下げた。
「諸国を巡る修行の途中、道を違えましてございます」
「道を違えて、大江山へ?」
酒呑童子が笑う。
「それはまた、随分と運の悪い修行者たちよ」
鬼たちが一斉に笑った。
頼光も薄く笑う。
「山も道も、すべては御仏の導きにございますれば」
一瞬。
酒呑童子の目が細くなった。
その視線が、頼光の腰のあたりで止まる。
衣の下。
安綱。
鞘の中で、刀身が微かに震えた。
ギ……
頼光は動かない。
酒呑童子も何も言わない。
ただ、笑った。
「ならば今宵は、我らの客だ」
酒呑童子が指を鳴らした。
鬼たちが大きな膳を運んでくる。
頼光の背後で、季武の呼吸が止まった。
膳に積まれていたのは肉だった。
しかし獣のものではない。
白い指。
爪。
焼け焦げた皮膚。
切断面から、まだ赤黒い液体が滲んでいる。
皿の端には、小さな手首まで残っていた。
その隣には、大きな杯。
濁った赤い液体。
酒ではない。
少なくとも、酒だけではない。
金時の視線が止まる。
赤い川。
血を洗っていた女。
彼女の言葉が蘇る。
――酒呑童子は、人が怯える顔を見るのが好きです。
――怒りも。
――嘘も。
――殺そうとする心も。
すべて見ています。
金時の奥歯が軋んだ。
[ SUBJECT : SAKATA NO KINTOKI ]
[ HEART RATE : 168 BPM ]
[ HOSTILITY : CRITICAL ]
[ EXTERNAL EXPRESSION : SUPPRESSED ]
[ STEALTH PROFILE : 89.7% — DEGRADING ]
「坂田金時のバイタルが跳ね上がっている……! おい、感情を抑えろ、このままではサーベイランスに捕捉されるぞ……!」
KAITOの指がキーボードを叩き、データレートの変動に冷や汗を流す。
酒呑童子が金時を見る。
「どうした?」
金時は答えない。
「山伏殿」
酒呑童子は楽しそうに続ける。
「我が山の馳走は、お気に召さぬか?」
広間が静まり返る。
鬼たちが見ている。
誰か一人でも顔を歪めれば終わる。
頼光が口を開こうとした、その前に。
綱が動いた。
膳から肉を一切れ取る。
指先ほどの大きさ。
焦げた皮膚が残っている。
綱はそれを見つめることなく、口へ入れた。
噛む。
一度。
二度。
喉が動く。
飲み込んだ。
金時が綱を見る。
綱は何も言わない。
続いて赤黒い杯を取る。
血の臭いが立った。
それも飲んだ。
鬼たちがどっと笑った。
「喰ったぞ!」
「山伏が人を喰らった!」
「こいつは面白い!」
綱は静かに杯を置く。
酒呑童子は笑わない。
じっと綱を見ていた。
そして次に、頼光へ視線を移す。
「そなたは?」
頼光は膳へ手を伸ばした。
腹の奥が強く拒絶している。
人の肉だ。
おそらく昨日まで生きていた。
名があった。
家族がいた。
帰る場所があった。
それを今、自ら口へ運ぼうとしている。
――剣を隠せ。
――武者であるな。
――知恵をもって鬼を欺け。
三社で受けた同じ神託。
頼光は肉を口に入れた。
噛む。
生温かな脂が舌に広がる。
鉄の味。
血の味。
吐き気がこみ上げる。
それでも顔には出さない。
飲み込んだ。
「旨いか?」
酒呑童子が訊く。
頼光は静かに答えた。
「修行の身にございますれば、与えられたものに良し悪しを申しませぬ」
酒呑童子の口元が、わずかに上がった。
「気に入った」
残る四人も続いた。
季武。
貞光。
保昌。
そして最後に、金時。
金時は膳の肉を掴んだ。
太い指に赤黒い汁が付着する。
殺す。
必ず殺す。
胸の中では、それしか考えていない。
だが顔には出さなかった。
口へ入れる。
噛む。
飲み込む。
そして突然、大声で笑った。
「なんとも景気の悪い宴よ!」
鬼たちが静まる。
綱の目が一瞬だけ動いた。
金時は杯を掲げた。
「鬼の酒とは、この程度か! これでは山伏一人、酔わせることもできぬぞ!」
一拍。
そして。
鬼たちが爆笑した。
「言ったな!」
「もっと飲ませろ!」
「人のくせに面白い!」
「酒を持て!」
酒が運ばれる。
杯が回る。
鬼たちの視線が金時へ集中する。
頼光は気づいた。
金時もこちらを見ない。
だが。
これは偶然ではない。
頼光の袖の内側。
小さな酒壺。
神便鬼毒酒。
三人の老翁から授かった切り札。
鬼には毒。
人には力。
酒呑童子はまだ、その存在を知らない。
知られてはならない。
綱が立ち上がった。
「坂田殿、旅の恥を晒すでない」
金時を止めるふりをして身を乗り出す。
袖が徳利に触れた。
カラン。
徳利が倒れた。
酒が卓へ広がる。
「これは失礼」
鬼の一人が怒鳴る。
「何をしておる!」
綱が布を取る。
季武と貞光が立ち上がり、卓を拭くふりをする。
保昌が鬼へ頭を下げる。
すべてが一瞬だった。
六人の身体が、長年戦場で培った呼吸のまま動く。
頼光の右手が袖へ入る。
酒壺の栓を抜く。
無色の液体。
一滴。
二滴。
三滴。
新たに運ばれてきた徳利の中へ。
[ UNKNOWN SUBSTANCE DETECTED ]
[ FOREIGN AGENT : INTRODUCED ]
[ CHEMICAL PROFILE : UNRESOLVED ]
[ HUMAN RESPONSE : ENHANCEMENT ]
[ ONI RESPONSE : NEURAL COLLAPSE ]
[ ORIGIN : UNKNOWN ]
「なんだ、この未知の成分は……!? 酒に何かを混入した……?」
KAITOの目の前で、化学プロファイルの解析エラーが点滅する。彼らが持ち込んだ「あの酒」が、歴史の歯車を狂わせようとしていた。
頼光たちには、何も見えない。
ただ。
一瞬だけ。
空中を走る紫の光が強くなった。
頼光は顔を上げる。
酒呑童子。
見ていた。
こちらを。
頼光の心臓が大きく脈打つ。
見られたか。
気づかれたか。
酒呑童子は何も言わない。
ただ、いつもの滑らかな笑みを浮かべている。
「山伏殿」
頼光が言った。
「先ほどより、随分とご馳走になりました」
徳利を取る。
「せめて、一献」
広間のざわめきが少しずつ消える。
頼光は酒呑童子の前へ進んだ。
一歩。
また一歩。
安綱が、腰の中で震えている。
酒呑童子が杯を差し出した。
「そなたが注ぐのか」
「旅の礼にございます」
酒を注ぐ。
とく。
とく。
とく。
赤い酒が杯を満たしていく。
頼光の背中を汗が流れる。
綱は動かない。
金時も笑顔を崩さない。
季武。
貞光。
保昌。
全員が、ただ待つ。
酒呑童子が杯を持ち上げた。
鼻先へ近づける。
一瞬だけ止まった。
頼光の呼吸も止まる。
酒呑童子は頼光を見る。
そして笑った。
「面白い」
杯を傾ける。
一口。
二口。
すべて飲み干した。
カン。
空になった杯が卓へ置かれる。
その瞬間。
安綱が鳴った。
ギィィン――
鞘の中から響いた音が、広間を走った。
鬼たちが振り返る。
青白い光が床の奥で一度だけ脈打つ。
紫の格子が、空中に浮かんでは消えた。
酒呑童子の右手。
杯を置いた指が。
ほんのわずかに震えた。
頼光は見逃さなかった。
酒呑童子自身も、その指を見る。
笑みが消える。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
瞳の奥に、人のものとも鬼のものとも思えぬ光が走った。
[ SHUTEN-DOJI SIGNAL : UNSTABLE ]
[ BIOLOGICAL RESPONSE : ABNORMAL ]
[ SYSTEM INTERFERENCE : DETECTED ]
[ LOST KEY PROXIMITY : 71.6% ]
[ TEMPORAL INTEGRITY : 28.9% — FALLING ]
「馬鹿な……酒呑童子の生体シグネチャーが異常変動を起こしている……! セクター04の安定性が限界だ!」
KAITOの叫びも届かない歴史の向こう側で、取り返しのつかない臨界点が迫っていた。
頼光の手が、安綱へ近づく。
まだだ。
まだ抜くな。
酒呑童子がゆっくりと顔を上げた。
そして。
再び笑った。
先ほどまでと同じ。
穏やかな笑み。
だが頼光には、もう同じものには見えなかった。
「……なるほど」
酒呑童子が呟く。
その声は、不思議なほど静かだった。
床の奥。
大江山そのものが、一度だけ低く震えた。
ドン――
鬼たちの笑い声が止まる。
誰かが周囲を見回した。
「何だ?」
壁の青白い光が、一斉に明滅する。
[ SHADOW MATRIX ANOMALY ]
[ THRESHOLD APPROACHING ]
[ SECTOR-04 STABILITY : CRITICAL ]
酒呑童子だけが、動かなかった。
頼光を見つめたまま、杯を差し出す。
「山伏殿」
「……はい」
「良い酒だ」
そして、静かに笑った。
「宴は、これからだ」
頼光の腰で。
安綱がもう一度、鳴った。
――第11話 END
次話
第12話 酒呑童子の正体 / THE TRUE FORM OF SHUTEN-DOJI
THE GATE IS OPEN.
第11話を読んでいただき、本当にありがとうございます。
人肉と血酒を前にしても、武者であることを隠し続けた頼光たち六人。
怒りも、恐怖も、殺意も見せることのできない極限の宴席の中で、ついに切り札である「神便鬼毒酒」は酒呑童子の体内へと入りました。
そして最後に現れた不気味な異変。
鞘の中で鳴り響く安綱の振動。
空中に走る紫の格子。
崩れ始める時間軸。
冷たい端末の光に照らされた23世紀。歴史の乖離率がレッドゾーンを突破した衝撃で、強制的に接続を断たれたKAITOは、荒い息を整えながら暗いモニターを睨みつけています。
――ここで引き下がる気はない。
視界を奪われようとも、彼が映し出す過去には、自分と瓜二つの顔を持つ男――源頼光が命を削って立っているのだから。
あの男がこの時代で何をなし、どこへ向かおうとしているのか。
その真実を見届けるまで、そして再びあの地平へ戻るための道をこじ開けるまで、KAITOの意思が折れることはありません。
酒呑童子の身体の内側で、そして大江山の空間そのもので、歴史の防壁が音を立てて崩壊しようとしています。
次話では、
大江山の宴は完全に崩壊し、酒呑童子の「鬼」という恐るべき姿の奥に隠されていた真実が、ついにその牙を剥きます。
ここまで読んでくださっている皆さん、本当にありがとうございます。
現在も『SHADOW MATRIX』は週間・月間ランキングに掲載いただいています。
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YouTube — SHADOW MATRIX
物語の始まり
『SHADOW MATRIX — FULL PROLOGUE』
https://youtu.be/AoCUu_vJxi4
映像で体験する『SHADOW MATRIX』
https://youtube.com/shorts/nvDEUqtF_nk




