70 飼魔
庭はしばらく静まり返っていた。
塀の外から風が吹き込み、枯れ葉はくるりと宙を舞い、やがて再び地面に落ちた。
誰も口を開かなかった。
ヴァルターは無意識のうちに黒縞妖猫の背を指先で軽く叩いていた。
顔を上げると、イザベラと目が合った。彼女も何かを考えているようだった。
イザベラは軽くうなずき、ゆっくりと口を開いた。
「アンナ自身には役に立たなくても、別の誰かにとっては役に立つのかもしれないわ」
リヒターはヴァルターとイザベラを見つめ、サイモンの体に残る微かな仙力を思い出し、唇をわずかに震わせた。
「……飼魔」
クラリスははっとして背筋を伸ばし、組んでいた腕をほどいた。
「ありえない! そんなことまでしていたなんて!」
「それなら、アンナが半年で三階級も昇級できた理由にも説明がつく。 彼女はサイモンという魔族を飼っている可能性が高い。」
ヴァルターは険しい表情で続けた。
魔族は、堕魔者の魔力と魔怨を喰らい、自らの魔力を増大させる。さらに仙士の仙力まで吸収できる。仙士を殺し、その仙力を奪うことも可能だ。
今回のグリーンベル村の事件も、そう考えれば筋が通る。 村で異変が起き、最初に小仙門へ助けを求めた時、アンナたちは自分たちでは解決できないと言って、ほかの仙士を呼び寄せた。
だが、その一方で、村長には『堕魔』という言葉を口にさせなかった。
なぜか。 たとえ疑いの段階でも、堕魔の可能性が報告されれば、仙門は相応の実力を持つ仙士を派遣するからだ。
だからアンナは、村長に『妖獣が人を襲った』とだけ伝えさせた。 そうすれば、派遣される仙士もそれほど強くはないと踏んだんだろう。
実力の低い仙士をおびき寄せ、サイモンに仙力を吸収させる。 そして、奪った力をアンナに還元させる。 そう考えれば、堕魔者でもない彼女が異常な速さで仙級を上昇できたことにも納得がいく」
話を進めるにつれ、ヴァルターの口調は早まり、眉間のしわも深くなっていった。
「アンナはすでにD級の仙士だ。 だとすれば、こんなことをしたのはグリーンベル村が初めてじゃないはずだ」
イザベラの声が沈んだ。
同じような事件がほかにも起きていたとしたら、一体どれほどの人が犠牲になったのだろう。
そう考えると、その場にいた五人の表情が曇った。
ヴァルターは手を振った。
「今はサイモンが魔族だと証明できれば十分だ。 その先は俺たちの手に負える話じゃない。 仙門に任せよう」
「でも、アンナが逃げたりしないかな?」
クラリスは心配そうに言った。
アルベルトは笑った。
「安心しろ。 ヴァルターに頼まれて、とっくにあいつらの住処に結界を張ってある。 入ることはできても、出ることはできない結界だ。 行こう!」
「まずは黒縞妖猫を空間袋に戻しておこう」
何かを思いついたように、イザベラが口を開いた。
ヴァルターがイザベラを見ると、彼女はわずかに眉を上げ、肩をすくめた。
「万が一に備えて」
黒縞妖猫は、なぜそんなことをするのかわからない様子だったが、それでも素直に空間袋へと入った。
一行はアンナの住処へと急いだ。
空はすでに暗くなり始めていた。
イザベラたちがアンナの住処にたどり着くと、彼女はちょうど結界を破ろうとしているところだった。
両手を結界に押し当て、指先から激しい仙力を放っていたが、結界はびくともしなかった。
アンナは彼らの姿を見ると、一瞬慌てた表情を浮かべた。しかし、すぐに平静を取り戻し、何事もなかったかのように微笑んだ。
「こんな遅い時間に、仙士の皆さんがいらっしゃるのは、何かご用でしょうか?」
「その結界、俺が張ったんだ。 あんたには破れないぜ」
アルベルトは顎を上げて、腕を組んだまま言い放った。
アンナの笑顔が、一瞬こわばった。それから彼女は首を傾け、いかにも不思議そうな表情を作った。
「あなたが張った結界? アルベルト仙士、どうして私の住まいにそんなものを?」
クラリスは、なおも芝居を続けるアンナに呆れ、思わず目を回した。
「黒縞妖猫から全部聞いたわ。 あなたが黒縞妖猫を傷つけたことも、捕獣籠に封獣術を施したことも。それに、三寿湯の噂をグリーンベル村に広めたのもあなたなんでしょ?」
それを聞いたアンナは沈黙し、顔からゆっくりと笑みが消えていった。
「どうして知ってるの? 正義の仙士を気取っておきながら、結局は捜魂術を使ったってわけ? 正義なんて全部嘘っぱちじゃない! 結局ものを言うのは実力だけーー」
「残念だったな。 捜魂術なんかより、俺の方がずっと役に立つぜ」
黒猫がアルベルトの頭の上に現れ、アンナを見下ろした。
「あなた、ただのペットじゃなかったの!? まさか召喚獣だったの!?」
アンナは以前から、この黒猫が妙に賢く、動きも機敏すぎることを不審に思っていた。しかし、今まで一度も言葉を発したことがなかったため、確信は持てずにいた。
「そうだよ。 お前の前で猫のふりをしてなきゃ、今朝のうちにその顔を引っかいてやったところだ。 まったく、胸くそ悪い女だぜ!」
黒猫はそう言いながら前足を掲げ、その爪からは鋭い光が放たれた。
アルベルトもまた、アンナに向かって歯をむき出しにした。
アンナは彼らを見つめ、やがて不意に笑みを浮かべた。その瞳には、あからさまな嘲りが宿っていた。
「仮にそうだとして、それが何? 堕魔した妖獣の言葉なんて、修仙界で誰が信じると思う? あなたたちには何の証拠もないじゃない、仙士さんたち」




