66 代償
ヴァルターは横から手を伸ばし、まだ村民たちに唸り声を上げている黒縞妖猫を軽く叩いた。
黒縞妖猫は地面で爪を研ぎ、爪先が泥地を引っ掻いて、幾筋もの深い溝を残した。それはヴァルターの方へ顔を向け、その金色の縦瞳には悲しみと懇願の色が浮かんでいた。
黒猫もまた、黒縞妖猫の頭の上に飛び乗ると、その上にしゃがみ込み、黒縞妖猫の毛並みにほとんど隠れてしまった。
「黒縞妖猫の体に魔気が宿っていることを、とっくに知っていたのか?」
ヴァルターは黒猫を一瞥した。
黒猫がのんびりと振っていた尾が、一瞬止まった。
黒猫はイザベラの方へ顔を向け、琥珀色の瞳には少しばかり罪悪感が浮かび、耳を左右にピクッと動かした。
イザベラは一瞬呆気にとられたが、すぐに事態を悟った。
「あの時、あなたが『魔気がある』と言ったのは、黒縞妖猫のことだったのね。 最初から知っていたの?」
黒猫はうなずき、尾を振るのをやめて、しおらしく垂らした。
「ごめんなさい、ご主人様」
イザベラは気にする様子もなく手を振った。
「あなたがそんなにヴァルターのことを嫌っているのに、どうして彼の空間袋に入る気になったのか不思議だったわ。 どうやら黒縞妖猫を慰めるためだったのね――」
「黒猫が誰のことを嫌っているって?」
ヴァルターは振り返ってイザベラを見つめ、にこにこと尋ねた。
イザベラは固まった。
イザベラは顔を背け、視線を庭の塀に絡まる枯れた蔦へと向け、右手を握りしめて唇に当て、咳払いをした。
黒猫は前足に顔を埋めた。バカなご主人様、どうして本音を口にしてしまったの?
クラリスたちはうつむき、何も聞いていないふりをする。
「仙門に戻ったら、その件は後で清算するぞ」
ヴァルターは空中でイザベラを指さし、次に黒縞妖猫へと視線を移した。
「幼獣を救いたいのか?」
その言葉が口をついた瞬間、イザベラたちの目がぱっと輝いた。彼らは一斉に顔を上げ、ヴァルターに視線を向けた。
黒縞妖猫は前足を曲げ、頭を地面に伏せた。
「腹を裂かれて幼獣を奪われ、自分の幼獣が他人の口に入るのを目の当たりにしながら、これほどの苦痛の中でも尚、本心を貫き魔に堕ちなかった。 その心根は強靭だ」
その言葉を聞いて、イザベラとクラリスは顔を見合わせた。
そうだ、これほどの苦痛を受けても魔道に堕ちなかったのなら、なぜ戦いの最中にはあんなにも簡単に魔に堕ちそうになったのか?
「お前は幼獣が堕魔して魔胎になった際、その魔気の一部を吸収したのだろう? だからこそ、本来なら善念など微塵もないはずの「幼獣」を操り、アスランの魂に宿る怨念を取り除くことができたのだ」
ヴァルターは淡々と語り続けた。
「魔胎は魔気を纏って怨念に満ちている。 その魔気を完全に消し去れるほどの力は誰も持っていない」
黒縞妖猫の瞳の光が徐々に消え、頭を地面に垂らした。
「だが、あなたが魔気の一部を吸収したことで、今の「幼獣」には一部の魔気しか残っていない。 完全な魔胎とは言えないから、霊魂浄化術を使えば、また魔気の一部を取り除き、輪廻に入る機会を得られるかもしれない」
ヴァルターは黒縞妖猫の耳を撫でた。
「ただ、霊魂浄化術で浄化できる魔気には限りがある。 浄化しきれない魔気は、お前が吸収するしかない」
「そんなの理不尽だよ!」
黒縞妖猫が答える間もなく、アルベルトとクラリスが焦ったように口を開いた。
「他に何か方法がーー」
「ない。 これは、黒縞妖猫と「幼獣」との特別な絆があってこそ可能なことだ。 そうでなければ、「幼獣」に待つのは灰となって消え去ってしまうことだけだ」
ヴァルターは極めて冷静な口調で、クラリスの言葉を遮った。
どういうことだ?
「そうしたら、「幼獣」を輪廻に送ってそのあとどうするつもり? 堕魔した黒縞妖猫を殺すの? 今度は黒縞妖猫自身から輪廻へ入る機会まで奪うというのか?」
クラリスは声を荒らげて問いただした。
噓だろう?
この一連の出来事において、何の過ちもなく、最も大きな被害を受けたのは黒縞妖猫ではないか?
どうしてそんなことが許されるのか?
ヴァルターはもうそれ以上は何も言わず、ただ静かに黒縞妖猫を見つめ、その答えを待っていた。
黒縞妖猫の金色の縦瞳が再び輝き、絶えず頷きながら、大きな頭をヴァルターの腰にすり寄せ、その瞳には感謝の色が満ちていた。
「幼獣に、この人たちの体から怨念を吸い取らせなければならない。 妖獣化はこれ以上続けてはならない」
黒縞妖猫は村民たちを見つめ、その目にはまだ憎しみが宿っていた。
ヴァルターは黒縞妖猫の頭を撫でた。
「お前も分かるだろう。 幼獣が輪廻へ入るなら、この世界の因果にこれ以上巻き込まれないほうがいい」
イザベラたちは、ヴァルターの判断が正しいと分かっていながらも、心の中にわずかな不満を抱いていた。
クラリスは下唇を噛みしめ、顔を横に向けた。アルベルトはうつむき、足で床をこすりながらじりじりと動いていた。リヒターは黒縞妖猫を見つめ、唇をすぼめて黙り込んでいた。
ヴァルターは彼らの目にある困惑を見つめ、静かにため息をついた。
「始めよう」
ヴァルターは黒縞妖猫に向かってそう言うと、半歩後退して、黒縞妖猫のために少しスペースを空けた。
黒縞妖猫はうなずき、地面にしゃがみ込んだ。腹部の貫通傷が目に突き刺さるように痛々しく、リヒターは顔を背け、それ以上見たくないとばかりに目をそらした。
小さな半透明の光の玉が、黒縞妖猫の前足に包まれていた。その光の玉の中には、かすかに赤ん坊の姿が丸まっているのが見えた。
小さな手は握りしめ、小さな足は縮こまり、呼吸は穏やかで微弱で、まるで眠っているかのようだった。
「おちびちゃん? おちびちゃん!」
マリーの声は、信じられないという様子から驚きと喜びへと変わった。
彼女は人混みの奥から押し出されるように現れ、髪は乱れ、頬には涙の跡が残り、ぼんやりとした眼差しで光の玉を見つめていた。
黒縞妖猫のお腹から取り出されたのは、魔胎となった「幼獣」ではなかった。
そこにいたのは、かつて死んだマリーとアスランの子どもの魂だった。




