65 魔胎が人を害する。それこそが悪だ
庭の中静かになった。
さっきまで騒いでいた村民たちでさえ、口を閉ざしてしまった。ある婦人は口を手で覆い、目を丸くして、指の隙間からかすかな驚きの息遣いが漏れていた。
「お前は、まだお母さんの腹の中にいた幼獣が無理やり引きずり出され、煮え立った鍋の中へ放り込まれるところをその目で見た」
ヴァルターは淡々と説明しながら、黒縞妖猫へ視線を向け、その耳をそっと撫でる。
「幼獣はまだ生まれていなかった。だが、お母さんが感じた激痛と絶望を感じ取り、その場で魔に堕ちたんだ」
ヴァルターは黒縞妖猫の耳を撫でながら、さらに続けた。
「魔胎がほとんど知られていない理由は、実体を持たないこともあるからだ。 まだ生まれていない命は、魂と肉体が完全には融合していない。 お前の幼獣は肉体を食われてしまったが、魂はまだ残っているだろう? そして今、それはお前の腹の中にいる」
ヴァルターは黒縞妖猫を見つめた。
「お前がアスランの家へ向かったのも、幼獣の気配を追っていたからじゃない。アスランの体内に潜んでいた魔胎の怨念を取り除くためだったんだろう?」
黒縞妖猫の耳が、ヴァルターの指先の下で微かに震えた。黒縞妖猫は彼を振り返ることもなく、村民たちに向かって低く唸り声を上げる。
彼らの体からは、幼獣の血肉の気配が漂っている!
黒縞妖猫の怒りを感じ取ったのか、最前列にいた数人の村民が驚いて数歩後ずさった。
すぐに誰かが気づき、声を上げた。
「魔胎の怨念なんてものを取り除くことができるのか!?」
「この妖獣が俺たちを救ってくれるんだろう!? そうなんだろう!?」
村民たちの目に、再び希望の光が灯った。
何人かの村民はその場でひざまずき、黒縞妖猫に向かって何度も地面に額をつけた。
「お願いだ! 俺たちを助けてくれ!」
「お前の幼獣が悪いことをしたんだ! お前のせいだ! だから、俺たちを助けてくれ!」
リヒターは膝をついて懇願する村民たちを見つめ、心の中に何の同情も抱かなかった。
むしろ、低く唸り声を上げている黒縞妖猫の姿に、胸が締めつけられるような痛みを覚えた。
修仙界では、魔の存在そのものが許されない。死んだ魔には輪廻へ戻る道すら残されていなく、待っているのは魂までの消滅だけだ。
それなのに、幼獣の血と肉の気配をその身にまとった者たちが、尚もこのお母さん黒縞妖猫に自分たちを救えと求めている。
「首席……」
リヒターは悲しみに満ちた眼差しでヴァルターを見つめた。
「幼獣は……悪くない。 あの子は、何も悪くないんだ」
リヒターの声は震えていた。
「幼獣は、一瞬たりとも「無垢な命」として生きることを許されなかった。生まれる前から傷つけられ、人の善意を知ることすらないまま、最初に触れたのは人の悪意だった。 幼獣は魔胎だ。 だが……魔に堕ちたことまで、幼獣のせいではない……」
リヒターは、黒縞妖猫を見つめた。
もしこの人たちがいなければ、幼獣は無事に生まれ、こんなにも優しいお母さんに育てられていれば、きっと善良な妖獣になっていたはずだ。
だが、もう善良になるその機会もなかった……
庭には誰の声もなかった。
頭を下げていた村民たちさえも動きを止め、地面にひざまずいたまま、呆然とリヒターを見つめ、そして黒縞妖猫へと視線を移した。
「魔胎が人を害する、それこそが悪だ」
ヴァルターはリヒターを一瞥し、淡々と告げた。
黒縞妖猫の爪が土へ深く食い込んだが、しばらくすると、その力がゆっくりと抜けていった。
「首席!」
クラリスは一歩前に踏み出し、思わず何かを言いかけたが、ヴァルターと目が合った瞬間、その言葉を飲み込んだ。
彼女は顔を背け、歯を食いしばって、悔しそうに頬を膨らませた。
堕魔者は、必ず殺す。これが修仙界の不文律だ。
イザベラは空を見上げ、その瞳は暗く、その奥に潜む本当の感情が読み取ることはできない。そして、再びヴァルターの方へ視線を向けた。
イザベラは、ヴァルターの体には魔気が存在していることを確信していた。では、彼はどういう状況なのだろうか?
彼もまた、魔胎なのだろうか?
ヴァルターはイザベラの目を見つめ、リヒターたちにも目をやり、ため息をついた。
「言っただろう。俺はただこいつらを救うために助けるんじゃない、信じてくれ」




