58 カエデの森の「母」
何人かの村民が、抑えきれない吐き気に襲われ始めた。
不安そうな声が次々と上がる。
「三寿湯を飲んだ人も、助かるのか?」
「それなら、あなたたちが一体何をしたのか、聞かなければならないわね」
イザベラは青ざめた村民たちを皮肉げに見つめた。
あれほど強い怨念の呪いに取り憑かれて……
ヴァルターはアスランを見つめた。
「一体、何があったんだ?」
「俺のせいだ」
アスランはうつむき、かすれた声で言った。
「俺がいなければ、あの妖獣の子どもは死ななかったはずだ」
クラリスはアスランを見つめた。
「何だって?」
「あの黒縞妖猫……」
アスランは目を閉じた。
「俺があの子に出会ったとき、まだ子どもを身ごもっていたんだ」
アスランはあの日のことを今でもはっきりと覚えていた。
あの黒縞妖猫に初めて出会ったのは、裏山のカエデの森の中だった。
アスランは猟師だった。
マリーは出産したばかりで体がまだ弱っていたため、村医から「ヤマウズラのスープが産後の滋養になる」と聞き、アスランは山へ狩りに出かけた。
山道を登っていくと、運よくカエデの森の近くで一羽のヤマウズラを見つけた。
すぐさま弓を引き絞り、放ったが、矢はヤマウズラには当たらず、代わりに、同じくヤマウズラを狙っていた黒縞妖猫の左足に刺さってしまった。
「しまった」
まずい、と気づいたアスランはすぐ逃げようとしたが、その瞬間、黒縞妖猫が頭上から飛びかかってきた。
アスランの右肩に激しい痛みが走った。
彼は地面に転がり、弓と矢を手から落とし、慌てて顔を上げると、目の前にあったのは黄金色の縦瞳だった。
その黒縞妖猫が背を反らし、全身の毛を逆立てているが、それ以上アスランを攻撃しようとはしなかった。
ただ牙をむき出しにしながらヤマウズラの前に立ちはだかっている。
自分を攻撃するつもりではないのか?
アスランは一瞬呆気にとられたが、やがて黒縞妖猫の左後ろ足が不自然にねじれ、腹部に貫通した傷があることに気づいた。
「本当に君を傷つけようとしたわけじゃない」
アスランは血が止まらない肩を気にせず、両手を高く掲げた。
「ごめん」
アスランの視線が黒縞妖猫の傷口から体に向けると、その黒縞妖猫がひどく痩せ細り、肋骨がくっきりと浮き出ているのに、お腹はわずかに膨らんでいるのを見た。
黒縞妖猫は自分のお腹が見られていることに気づいたか、その瞳にはすぐ獰猛さがむき出しとなっていた。
アスランは、自分の家で眠っている小さな子どものことを思い出した。
「……妊娠しているのか?」
この黒縞妖猫が妊娠中で、もともと傷を負っていたところへ、自分がさらに矢を放ってしまったのだ。
「……わかった、ヤマウズラは君にやるよ」
アスランはゆっくりと後ずさって、申し訳なさそうに言った。
「君の方が、俺より必要だろう」
黒縞妖猫は最後までは警戒を解かず、アスランが十数歩ほど離れたところでようやく、足を引きずりながらヤマウズラをくわえ、密林の奥へと姿を消した。
アスランが黒縞妖猫の消えていった方向をぼんやりと見つめていると、背後から穏やかな女の声が聞こえてきた。
「あなた、なかなか優しい人ですね」
アスランが振り返ると、白衣の女が立っていた。
彼は一瞬ビックリして、そして言った。
「俺が先にあの黒縞妖猫を傷つけたんだ。 君が一人こんな山にいるのは危険だぞ。 早く下山したほうがいい」
白衣の女は微笑み、さっと手を上げると、一陣の風が山間を駆け抜けていく。
「まさか仙士だったとは…… 失礼しました」
アスランは慌てて手を上げて礼をした。
「私はアンナです。 あの黒縞妖猫が人を傷つけるんじゃないかと思って、追いかけてきたの」
「そんなことはないよ。 あの黒縞妖猫はとても優しいから、人を傷つけたりなんてしないよ」
アスランは必死な様子で言った。
「あなたの肩、まだ血が出ていますわ」
アンナはアスランの傷口をちらりと見た。
「大丈夫だ。 本当に、俺が先に傷つけたんだ。 あいつのせいじゃない」
アスランはますます焦った。
アンナはそんな彼を見て、ふっと微笑んだ。
「あの黒縞妖猫がそれ以上あなたを追いかけてこなかったようで安心しましたわ」
アスランはまたしても呆気にとられた。
「その黒縞妖猫のことを知っているの?」
「まあ、そうですね」
アンナはカエデの森の奥を見つめた。
「最近ずっと、その黒縞妖猫の後をついて回っていますの」
「どうして、あの黒縞妖猫について回っているの?」
「誰かに傷つけられないように、見守っていますわ」
アンナは少し困ったように笑った。
「だから私もあの黒縞妖猫を守るために来ていますの。 私はあの子を傷つけたりしないから、安心してください」
「じゃあ、誰があの黒縞妖猫を傷つけるのだ?」
アスランは不思議そうに尋ねた。
「そうですね……」
アンナは少し間を置いてから答えた。
「『三寿湯』って聞いたことありますか?」
「三寿湯?」
アスランは初めてその言葉を耳にした。
……
二人は話をしながら、山を下りていった。
家に帰ったアスランは、マリーを心配させないよう、黒縞妖猫や仙士に出会ったことについては何も話さず、肩を木の枝で擦りむいただけだと伝えた。
その夜、また子どもが泣き出した。
アスランは子どもを抱きかかえて部屋の中をぐるぐると歩き回っていると、ふとあの黄金色の瞳を思い出した。
ひどく疲れているのに、同時に鋭い光を宿していた瞳。それは、マリーが妊娠していた頃の姿とどこか重なっていた。
子どもはようやく眠りについた。
アスランは、眠る子どもの小さな顔を見つめながら、生まれたばかりの頃のことを思い出した。
産室の外に立っていた彼は、子どもの最初の泣き声を聞いた瞬間、足がふらつき、危うくその場に膝をつきそうになった。
胸の奥が何かで一気に満たされたあの感覚を、彼は今でもはっきりと覚えている。
黒縞妖猫はお母さんであり、彼もまたお父さんだ。
この世で、子どものために必死に生きているものたちは、皆同じなのだ。
「あの妖猫も、もう母親になる黒縞妖猫なんだな」
アスランは眠っている子どもを見つめながら、静かにつぶやいた。
「パパはあの妖猫のことを少しくらい気にかけてあげたほうがいいのかな?」




