44 黒縞妖猫
ヴァルターが向かいの窓を開けると、風が部屋を吹き抜けた。窓枠が壁にぶつかり鈍い音を立て、積もっていたほこりがサッと窓枠から落ちてきた。
血の臭いはすっかり消え去り、床に散らばった血や内臓の断片は鮮やかな赤みを失い、暗赤色から黒色へと変色している。一見するとただの染みのようにしか見えない。
ヴァルターは仙力を部屋全体へと広げ、妖獣が残した妖力の残滓を探る。
仙力が部屋を一巡しても、妖力の残滓は何ひとつ感じ取れなかった。ヴァルターは目を細めた。
「どうしたの?」
イザベラはヴァルターの様子がおかしいことに気づいた。
「妖力の残滓がない」
常識的に考えれば、少なくとも血肉には妖力の残滓が残っているはずだった。
「全くないの?」
ヴァルターは首を横に振った。
やっぱり、おかしい。
イザベラは眉をひそめ、後から入ってきたクラリスを見て、床を指さした。
クラリスは床に散らばった肉片を一瞥し、しばらく考え込んだ後、しゃがんで間近で観察すると、手を伸ばしてイザベラの頭を撫でた。
「これほど細くなってしまった以上、もう救うことはできないよ」
イザベラ……私はバカじゃないよ!
クラリスたちはイザベラを子どもだと思っているが、イザベラからすれば、彼らこそが子どもであり、しかもとても純粋な子どもだ。
訓練中に泣いてしまうほどに。
イザベラは深く息を吸い込み、クラリスの手を振り払った。
「私が言いたいのは、現場がおかしい、何か怪しいってことだわ」
星詠仙門の弟子として、日頃の修行や実力を高めるための課題に加え、修仙界で生き抜くための様々な基礎知識も体系的に学んでいる。
その中には、妖力の探知や、仙級および各種妖獣の特徴の判別も含まれている。
「……ヴァルターは妖力の残滓はないと言っていたし、それにこの猫妖獣は毛を落とさないわ」
イザベラは部屋の中を一周した。
クラリスはヴァルターの方を見て、探るように口を開いた。
「これほどの現場で妖力が残っていないなんて、もしかして妖獣じゃないんじゃない?」
ヴァルターは首を横に振り、大きく開いた窓の前へと歩み寄った。
クラリスはしばらく周囲を見回した。
「あの母親に安神術をかけた後、彼女は深い眠りについてしまった。早く目を覚ましてくれればいいのに」
しかし、ヴァルターは再び首を横に振った。
「あの母親が、実際に妖獣を見たとは限らない。彼女には傷一つない」
イザベラは一瞬呆気にとられたが、やがてヴァルターの言葉を理解した。
確かに、もし母親が妖獣に遭遇したのなら、妖獣と戦うか、逃げるか、いずれにせよ、服も汚れていないまま、呆然と部屋に座っているようなことはあり得ない。
「私は、彼女が子どもを……殺されるところを目撃したのだと思って……」
クラリスの声は小さくなった。
「母親にとっては、あの現場を見ただけで十分に辛いはずだ」
ヴァルターは外の芝生を見つめながら答えた。
窓の外には妖獣が通り過ぎたような足跡があったが、低い草に覆われて、ほとんど見えなくなっていた。
ヴァルターは地面に残った血痕を避けながら、窓辺まで歩み寄ると、再び屋外に向けて仙力を放った。すぐに巨大な妖力を感じ取った。
「クラリス!」
これほど膨大な妖力を放てるのは、生きている妖獣だけだ。
ヴァルターは片手を窓枠に押し当て、そのまま飛び出した。その後ろから、クラリスとイザベラがすぐさま続いた。
三人は芝生の上を猛スピードで駆けた。
ヴァルターは走りながら、腰に差した黒い剣を抜いた。剣が鞘から抜かれる音は一切しなかったが、その瞬間、鋭い殺気が立ち上った。
屋内には妖力の残滓はなかったが、屋外には妖獣がいた。
イザベラの頭の中を、いくつもの考えが駆け巡った。
「この妖獣が必ずしも子どもを殺した犯人とは限らないわ……」
ヴァルターは走りながら振り返り、イザベラを一瞥した。その目には、どこか満足そうな光が宿っていた。
「剣を抜いたのは万が一に備えてのことだ。無実の者を無差別に殺すつもりはない」
そうか、自分の思い過ごしでよかった。イザベラも黙って剣を抜いた。
さっきのヴァルターの満足げな眼差しを思い返す。彼は一体何に満足しているのだろう?
まだ考え事に没頭していたイザベラは、隣にいたクラリスに頭を軽く叩かれた。
「集中しなさい」
「ああ、ごめんなさい」
前方のヴァルターの周囲で、突然仙力が揺らめき、ヴァルターは手を伸ばして飛んできた伝書符を受け止めた。
符紙は彼の指先で幽藍色の炎に包まれ、瞬く間にリヒターの声へと変わった。
「首席、昨日人が行方不明になった数軒の家から妖力の残滓は確認されませんでした。でも、家の中には非常に強い怨気が漂っています。
もし妖獣の痕跡を見つけたとしても、決して軽率な行動はとらないでください――」
この件はあまりにも不可解で、間違いなく厄介な事態だ。
「手遅れだ」
ヴァルターは顔を上げた。
クラリスは風の轟音に紛れた短い言葉を聞き取れなかった。
「首席? 何と言った?」
「手遅れだ、と言ったんだ」
感じ取れる妖力は、ますます強くなっていって、あの妖獣がすぐ目の前に迫っていることを示していた。
ヴァルターはイザベラとクラリスを遮り、片手で黒き剣を振るった。
剣気が前方へと突き進み、続いて太い木の幹をかすめ、巻き上げられた草や花を巻き込んだ。
草の切れ端や砕けた葉が空中に舞い上がり、剣気の余波の中でくるくると回転しながらゆっくりと落ちていった。
その瞬間、三人は木の陰で草にまみれて転がっていたものが何なのかをはっきりと見極めた。
それは、巨大な黒縞妖猫だった。
全身の黒い毛を逆立て、背中は張り詰めた橋のように反り、両目からは凶暴で威圧的な光を放っていた。それが咆哮を上げると、枝が揺れ、周囲の葉までもが震えて落ちた。




