25 出発、星詠仙門
出発当日は、雲ひとつない快晴だった。
フェアフィールド邸の正門前には、風馬という妖獣が引く馬車が停まっており、アルフレッドは使用人たちに指示を出しながら、荷物を一つずつ馬車に積み込んでいた。
フェアフィールドは門前に立ち、少し腰をかがめてイザベラと目線を合わせた。
「仙門に着いて、もし誰かにいじめられたら――」
「わかっているよ。 伝書符を握りつぶせばおじいさんが来てくれる、でしょ?」
フェアフィールドはようやく満足そうに彼女の頭をポンと叩いた。
「その通り。 天賦は隠してもいい。だが、理不尽な扱いまで黙って受け入れる必要はない」
おじいさんの荒れた手のひらが彼女の頭の上に置かれた瞬間、イザベラはふとアルフレッドのあの言葉を思い出した。『事実を知りたければ、強くなってください』
イザベラはおじいさんの目尻のしわと鬢の白髪を見つめながら、心の中で静かに思った。
わかった。強くなるわ。
おじいさん、待っていてね。
「お嬢様、どうぞ。ご無事で」
アルフレッドが馬車のドアを開けた。
イザベラは振り返り、馬車に飛び乗った。
「待って!」
イザベラが窓を開けると、エドガーが小走りに近づいてきて、イザベラの手の中に空間指輪を押し込んだ。
イザベラが中を確かめると、中には磁器の瓶がぎっしりと詰まっていた。
エドガーは気まずそうに説明した。
「いろんな薬が入ってるよ。 一番左にある、蓮花が描かれた瓶に入ってるのは緊急用だ。 節約して使ってね。 飲んだらすぐに伝書符で俺を呼んで。 息がある限り、必ず救い出す方法はあるから」
「……分かった」
「さあさあ、早く行け」
彼は手を振り、二歩ほど歩いてから振り返った。
「死なないでよ」
「エドガー!」
イザベラが呼びかけた。
「何だ?」
「ありがとう!」
三人の人影が並んで入り口に立っていた。
おじいさんはしわだらけの顔を笑わせ、まだ手を振っていた。エドガーは両腕を組んで、口をきつく結んでいた。アルフレッドは軽くお辞儀をした。
「行こう」と、イザベラは風馬の妖獣に言った。
妖獣はうなずくと、路地の出口へと素早く駆け出した。
彼女の胸元から黒猫が顔をのぞかせ、窓の外を一瞥した。
「あれ、白玉蓮は?」
「エドガーに預けたわ。 なぜか仙門へ行くのを嫌がってて」
昨晩のこと。
「明日、私はここを離れるの、もう仙門に行かないと」
イザベラは池のほとりにしゃがみ込み、白玉蓮の葉を軽くつついた。
白玉蓮は花びらを震わせ、のろのろと口を開いた。
「……また戻ってくるの?」
「当たり前でしょ、ここは私の家なんだから」
「それなら、戻ってきた時は、無根水を持ってきて」
「……わかった」
泣いて飛び去っていったあの小さな白龍のことを思い出すと、イザベラはまた頭痛がした。
「日月光もほしい」
「……探してみるよ……」
「万物土ならなおいいんだけど――」
「図々しくなってきたな、君――!」
白玉蓮は黙り込んだ。しばらくして、ようやく小声で言った。
「じゃあ、行って来て。 俺は寝るから」
イザベラは立ち上がり、ふと葉の先端を見ると、小さな水滴が一つついていた。月明かりの下でキラキラと輝いていた。
彼女はそれを見なかったふりをして、背を向けて去っていった。
妖獣の馬車が城門を出ると、窓から風が吹き込んできた。
イザベラはアルフレッドが用意してくれたクッションにもたれかかり、腰にはおじいさんからもらった空間袋を下げ、指にはエドガーからもらった空間指輪をはめていた。
彼女はうつむき、口元がゆっくりと緩んだ。笑いがこぼれる前に――
「ポタッ、ポタッ……」
「なんで鼻血が?!」
黒猫の声がひっくり返った。
イザベラは素早くハンカチを取り出し、鼻に当てた。
「ああ、エドガーが、私は最近栄養を取りすぎで、体が熱くなりやすいって言っていたの」
黒猫は彼女を丸々三秒間睨みつけ、尻尾を一度パッと振ると、最後に顔を彼女の胸元に埋めた。
「……びっくりしましたよ」
イザベラは一瞬呆気にとられたが、その背中をポンポンと叩いた。
「大丈夫よ、今の私はもうそんなに弱くないから」
馬車は遠くの仙門の方へと走り出した。草木の香りと土の匂いが混ざり合い、車窓から流れ込んでくる。
車内では、イザベラがまだ鼻を押さえていたが、黒猫は最初の心配から一転、嫌そうな表情を浮かべていた。
「そんなに龍血酒を飲むなって言ったでしょ!」
黒猫の苛立ちの中、馬車はゆっくりと遠方へと走り去っていった。
イザベラは窓の外を眺めた。
草木の香りと土の匂いを乗せた風が、頬を撫でていく。
いい風だ。
次の目的地は、星詠仙門。




