4.月に籠めた想い
「あの男は何処ですか?」
月光を遮るようにして、シファールが空から舞い降りる。
「あなたを一人にするとは思えませんが……」
ルナがただ一人湖の縁に立っているのを不審げに見るが、すぐに酷薄な笑みを浮かべた。
「あれだけ弱っていたのです。灰にでもなりましたか?」
シファールの軽口にルナは睨むような視線を向けるが、彼は嬉々としてそれを受け入れる。
「美しい……」
感嘆めいた声すら洩らし、無遠慮にルナの顎を掴んで無理矢理顔を引き寄せる。
「そう……私をもっと憎んで。憎悪に歪んだ瞳をもっと見せてください」
ルナは顔を背けた。けれど、それすらも彼にとっては楽しい演出の一つに過ぎない。
「そんな風に顔を逸らすと、ここが無防備になりますよ?」
首筋をぺろりと舐められ、ルナは顔を背けたままびくりと身を震わせた。ひやりと冷たい手と同様に吹きかけられる息は凍っているが、縦横無尽に這いまわる唇は、白く透き通った肌に赤い花を散らすように熱を刻んでいく。
「散々、焦らしたのです。あなたの血は、さぞや私を酔わせてくれるのでしょう」
言いつつ、虚ろな瞳は既に酩酊したように正気を失っている。
尖った牙が、ぷつりと音を立ててルナの肌を傷つけた。
「――っ」
きつく目を閉じてその痛みをやり過ごすが、シファールの牙が深く深く肌へと侵入する嫌悪感にルナは唇を戦慄かせた。血を吸い上げられる感覚に足元がよろめきそうになるが、彼の胸を頼ることだけは絶対にしたくない。
(ハディスっ――)
目じりに涙を溜めながら、心の中で強くその名を呼んだ時だった。
「くっ……」
シファールは突如呻き声を上げると、乱暴にルナを突きとばした。
短い悲鳴と共に、ルナの華奢な肢体は草の上に投げ出される。
「ま……さ……か……」
がくりとその場に頽れ、シファールはルナの前で片膝をついた。薄い唇からは赤い雫がこぼれ、裂けんばかりに見開かれた瞳は、彼がルナに執拗に求めた憎悪の色に染まっている。
「あの男の血ですか……っ」
「ええ、そうよ。今の私の血は、あなたにとっては禁忌でしょ?」
「しかし、あの男の血如きで……」
ルナの言葉にシファールは引きつった笑みを浮かべるが、
「く……かはっ…………」
ハディスの血が体内で暴れ出し、シファールは地に手をついて悶えた。長い爪が荒々しく土をかき、下草を引きちぎる。
血の毒性はその個体の力に比例する。ハディスの力を今更のように思い知らされるが、シファールは呪いの言葉を吐くでもなく、ひとしきり暴れた後にただ狂ったように笑い出した。
「ふ……はは……は……」
指先をさ迷わせながら、自分を見下ろすルナへと腕を伸ばす。
シファールの手が求めるように近付いて来るのを見て、それでもルナはその場を動かなかった。
ドレスは所々裂け、結わずに垂らした髪も風に煽られるままとなっている。しかし、その瞳は気高さを失わずに、凛として目の前の男を見つめる。
そんな彼女の瞳が、僅かに……ほんの僅かに細められた。
憐れみを滲ませた表情が、月明かりの下で彼の目に透けて見えた。
「違う……その目ではない……そんな……」
伸ばされた手はルナに触れることなく、ぱたりと地に落ちた――
シファールが横たわっていた筈の場所には、もう何も残されてはいなかった。
風に吹かれるままにその身を揺らす草花と違い、彼はその場に留まることを許されなかった。彼の姿は砂塵のように崩れていき、風と共に儚く消えてしまったのだ。
シファールの手にかかって無残にも命を散らした者たちを思い、ルナは目を閉じて月に祈りを捧げた。そしてそんなルナを、後ろから包み込む人影があった。
「無茶なことをする……」
ハディスの言葉に、ルナは静かに微笑んで見せた。
「でも、私を信じてくれたから許してくれたのでしょう?」
「そなたを危険に晒すのは本意ではないよ」
「怒ってるの?」
「怒ってなどいない。ただ……」
目を伏せて、淋しげに言う。
「守ると言いながら、私はそなたを守ることが出来なかった。それが許せないだけだよ」
ルナは瞬き、その瞳を優しく和ませた。
「それは嘘ね。あなたはちゃんと私を守ってくれたわ」
鼓動を確かめるように、胸に手を当てて言う。
「あなたの血が私を守ってくれたのよ。あなたを近くで感じることが出来たから、怖いものは何もなかったわ」
「ルナ……」
ハディスの口元に笑みが浮かんだ。しかし、すぐに忌々しげに歪められる。
「だが、そなたを一時でもあの男の自由にさせてしまった」
頬に触れていた手を、ゆっくりと首筋へ移していく。
「……ルナ、これが最後だよ」
「え?」
ルナは驚いたようにハディスを見上げた。
「あの男の血はもう残っていないから、あとは私の血を浄化すれば、そなたは人として生きていける。私の血は多量に飲ませてしまったが、自分の血が私を害すことはないから安心していい」
そう言ってハディスは穏やかに微笑するけれど、ルナは少しも安心することなんて出来ない。
「あなたは、私を置いて行ってしまうつもりなの?」
悲しげに目を細めてハディスを見ると、彼の手が再びルナの頬に触れた。
「ルナ……そなたは大切なものを失った。私と共に行くということは、更に色々なものを失うということだよ」
ルナは想いを籠めて、優しく微笑んだ。
「ハディス、私の心は初めて逢った日から決まっていたのよ。それなのに――」
睫毛を伏せ、憂いを滲ませて言う。
「どうしてあの約束を忘れていられたのか――」
唇に指を当てられ、ルナは言葉を呑み込んだ。
「私は一つだけルナに嘘をついた」
「え……?」
ハディスはやんわり微笑むと、戸惑うルナの頬にかかる髪をそっと払う。
「忘れられても悲しくはなかった、と言ったのは嘘だ。思い出してくれたと知った時、自分でも驚いてしまうほど嬉しかったのだから」
ルナの目元に溜まっていた涙が、堪え切れずに滑り落ちる。
「一緒に連れていって。あなたを一人にしないと約束するから」
「ルナ……私もそなたを一人にはしないと約束する」
ハディスはルナを抱き寄せると、蕾のような唇に優しく接吻をする。
「もし望むなら、私はそなたの悲しみを消すことが出来る。だが……」
ルナはハディスの言わんとしていることを察し、首を横に振った。
「それは、みんなのことも忘れてしまうってことでしょ? あなたも言ったわよね。忘れられたら悲しいわ……」
「ああ、そうだな」
ルナは彼の背中に手をまわした。
ハディスの肩越しに、金色に輝く月が見える。
「ねぇ、見て。月が私たちを祝福してるわ」
ルナはつとめて明るく言う。
「そなたは月が好きなのか?」
ルナはぱちりと目を瞬いた。あの日交わした言葉を想い出し、
「ええ、好きよ。ハディスは?」
同じ月の夜を想い、ハディスも優しい眼差しでルナを見る。
この夜の世界に、月以外に愛でるものがなかった。でも、今は――
「ああ、好きだよ。とても……」
その意味を本当には分かっていなかったけれど、ハディスの答えにルナは嬉しそうに微笑んだ。
【終】




