静止世界の訪問者
音が消えた。
帝都の喧騒も、遠くの車両音も、すべてが一瞬で断ち切られる。
イザ・マクシムは、部屋の中央で立ち尽くしていた。
窓の外。
風に揺れていたはずの帝国旗は、空中で静止している。
「……止まってる」
それは直感ではなく、確信だった。
世界そのものが、“進むことをやめている”。
一歩、踏み出す。
自分だけは動ける。
だが、その事実が逆に恐ろしい。
(……何が起きてる)
その瞬間。
背後に、気配。
「やあ、イザ」
振り返る。
そこにいたのは、見知らぬ男だった。
軍人ではない。
民間人にも見えない。
この停止した世界に、当然のように立っている存在。
「……誰だ」
男は答えない。
ただ、ゆっくりと近づいてくる。
イサは即座に魔力を巡らせた。
拳に集中。
戦闘兵としての反応。
――しかし。
「……っ!?」
体が動かない。
魔力はある。
感覚もある。
だが行動だけが切り離されている。
男はそれを見て、わずかに口を開く。
「まだ早い」
静かな声だった。
「君は、まだなにも理解していない」
「……何を」
問い返しても、答えはない。
男は一歩、踏み出す。
距離はすぐそこ。
だが、触れられない。
存在の階層が違うかのように。
男は懐から、一枚の紙を取り出した。
白い、ただの紙。
それを、無言でイザの胸ポケットへ差し込む。
「……何を、する気だ」
声だけが、かろうじて出る。
男は答えない。
ただ、最後に一言だけ残す。
「覚えていなくていい」
一瞬の沈黙。
「いずれ、辿り着く」
その言葉と同時に。
世界が、動き出した。
風が吹く。
音が戻る。
時間が、再開される。
何もなかったかのように、すべてが連続した世界へと戻る。
「——っ……!」
イザの視界が崩れる。
強烈な違和感。
だが、それが何なのか分からない。
何かを見た。
何かが起きた。
——はずなのに。
(……何だ、今の……)
思い出せない。
思い出そうとすると、意識が削れるような感覚だけが残る。
膝が崩れる。
呼吸が乱れる。
視界が薄れていくしていく。
最後に残ったのは、“何か大事なことを忘れている”という感覚だけだった。
意識が途切れる。
次に目を覚ましたとき。
白い天井が視界に入った。
規則的な電子音。
薬品の匂い。
帝国軍病院。
「……ここ……」
体は重いが、動く。
記憶も、ある。
任命式。
戦争の開始。
ここに来るまでの流れ。
——問題はない。
ただ一つ。
直前の記憶だけが、曖昧だった。
「……なんで、倒れたんだっけ」
思い出せない。
理由が抜け落ちている。
だが、それを不自然だとは感じない。
まるで最初から無かったかのように。
イザは無意識に胸元に手を当てる。
違和感はない。
何もない。
あるべきものしか、そこにはない。
だが。
彼女はまだ知らない。
忘れさせられたのではなく、消されたのだということを。




