忘却された紙片
退院から二日。
帝都は、開戦の熱を保ったまま動き続けていた。
第158戦闘大隊もまた、編成と準備に追われる。
イザ・マクシムは、簡素な執務机に向かいながら、
どこか拭いきれない違和感を抱えていた。
理由は分からない。
ただ、“何かが抜け落ちている”という感覚だけが残っている。
(……気のせい、か)
そう結論づけようとした、その時だった。
扉が勢いよく開く。
「イザ!」
ターニャだった。
息が荒い。顔色が違う。
「ハズキが!」
帝国軍病院、重症病棟。
機械音が規則的に響く中、
ハズキ=ヤナガワはベッドに横たわっていた。
意識不明。
外傷はない。
だが、原因不明の昏睡状態。
「……どういうことだ」
イザの声は低い。
担当医は首を横に振る。
「身体的損傷は確認されていません。
ですが脳の活動に異常な乱れが……説明がつきません」
説明不能。
それは軍において、最も忌避される言葉だった。
ターニャは無言で拳を握る。
「昨日まで普通だったんだぞ……」
その時。
イザの視線が、ふとハズキの胸元に落ちる。
軍服のポケット。
わずかに、紙の端が覗いていた。
「……それ」
手が伸びる。
ゆっくりと、取り出す。
一枚の紙。
何の変哲もない、白い紙。
その瞬間だった。
視界が歪む。
音が消える。
空気が重くなる。
——既視感。
いや、違う。
記憶だ。
止まった世界。
動けない身体。
そして——
あの男。
『やあ』
『まだ早い』
『覚えていなくていい』
「……っ!!」
頭の奥が焼けるように痛む。
押し込められていたものが、強引に引きずり出される。
胸ポケット。
差し込まれた紙。
動けなかった自分。
理解できない存在。
「思い……出した……」
イザの呼吸が荒くなる。
手に持った紙が、震えている。
ターニャが振り向く。
「おい、どうした——」
「これ……」
イザはかすれた声で言う。
「これ、私も——」
言葉が途切れる。
だが、理解はできていた。
同じものだ。
ハズキのポケットに入っていた紙と、
自分が受け取った紙。
そして。
その記憶が、消されていたこと。
イザはハズキを見る。
眠ったまま、動かない。
「……こいつも、会ってる」
確信だった。
あの“男”に。
病室の空気が重くなる。
ターニャは眉をひそめる。
「何の話だ」
「時間が……止まったんだ」
イザは言う。
「私だけ動けて……
知らない男が現れて……」
言葉にするほど、現実味が失われていく。
だが、それでも確かにあった。
手の中の紙。
まだ中身は見ていない。
だが、それがただの紙ではないことだけは分かる。
イザはゆっくりと呟いた。
「……始まってる」
戦争とは別の何かが。
自分たちの知らない領域で。
ベッドの上のハズキは、目を覚まさない。
まるで、“触れてはいけないものに触れた”代償のように。
そしてイザだけが、その記憶を取り戻した。
それが何を意味するのか、まだ誰も知らない。




