第3話 優しく、気高い姫
立ち上がったルカを、イリアは「こちらへ」と馬車へ促した。
雪原を少し戻った窪地に、一台の馬車が停めてある。
王女の乗り物、と身構えていたルカは、拍子抜けした。装飾らしい装飾もない、地味な箱型の馬車。御者台に座っているのは、白髪交じりの初老の男が、ひとり。それきりだった。
護衛の騎士も、侍女も、供回りもいない。第三王女の随行が、老いた御者ひとりとは。
(何か、事情があるんだろうな……)
そう思わせるには、十分すぎる寂しさだった。
男が御者台から降りて、深く頭を下げる。
「姫様がお連れになった客人ですな。どうぞ、中へ。北はまだ、長うございます」
「あ、ありがとうございます。あの、こんな、僕なんかに……」
ルカが身を縮めると、男は表情を変えずに、けれど、どこか柔らかく言った。
「ヨナスと申します。姫様の、身の回りのことを。剣も持てぬ老いぼれですが、湯を沸かすくらいはできますでな」
馬車に乗り込むと、外套を二枚重ねてなお、寒かった。ヨナスが毛布を掛け、木の椀に湯気の立つものを注いでくれる。薬草を煮出したような、素朴な匂いがした。
ルカは椀を両手で包んで、その熱さに、ようやく人心地がついた。
「すみません、こんなによくして頂いてるのに……ぼ、僕、何もお返しできるものがないんですけど」
「客人が温まる。それで、十分でございます」
ヨナスの言葉は、短い。けれど、その短さの奥に、主人への深い敬いが滲んでいた。この老人はきっと、長いこと、この孤独な王女に仕えてきたのだ。
やがて、外の始末を終えたイリアが、馬車に乗り込んできた。
向かいの席に腰を下ろすと、彼女はまず、ルカの様子を確かめるように見る。
「……顔色が少し戻りましたね。よかった」
イリア姫は柔らかく微笑むと、自らもヨナスが淹れた茶を口に含んだ。
「そういえば、名前を窺っていませんでしたね。なんとお呼びすればいいでしょう?」
「ルカ=エルネストです。ルカとお呼びください」
「ルカ、ですね。わかりました」
名と顔を一致させるように、彼女はじっとルカを見つめた。すぐに記憶したのか、それからそっと瞳を伏せて、また茶を口に運ぶ。
「それで、姫様。どうしてこんな雪の中にいらっしゃったのですか?」
ルカは、早速気になっていたことを訊いた。
助けてもらっておいてなんだが、イリアが来たタイミングがあまりに良すぎる。
「実は、先程村に立ち寄ったのです。村の状況を見に寄っただけだったのですが」
「村……? あっ!」
そこで思い当たるのは、ひとつしかない。ルカを追い出した、あの村だ。
「そこの村の人が、大層悔やんでおられました。さっき来た王都からの追放者を、受け入れてやれなかった、と」
「それで、姫様は……」
「はい。慌ててすっ飛んで行きました。まだそれほど時間が経っていないとのことだったので、間に合うかもしれないと思って。急いで大正解でしたね」
姫君はころころと笑った。
なるほど。だから、彼女が雪原に居合わせたのだ。
それにしても、まさか見も知らぬ追放者を雪の中まで探しに来るとは。王都には、こんな人いなかった。
「彼らにも悪気があったわけではないのです。どうか恨まないであげてくださいましね……」
イリアはどこか気まずそうにそう言った。
自分を見殺しにしようとした人間たちを恨むなと言うのも、無理はある。その無理を承知で、彼女は言ったのだ。やはり、ルカの直感に間違いはなかった。
あの村もあの村で、苦しんでいるのだろう。
「はい」
ルカは、迷わず頷いた。
「彼らだって僕を邪険にしたかったわけじゃないのは、なんとなくわかっていました。ただ、余裕が、なかっただけで」
自分と同じだ。あの村も、王都に見捨てられ続けてきたのだろう。王都に傷つけられた者同士。恨む理由など、どこにもなかった。
姫騎士は少し驚いたように瞬きをして、それから、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。……あなたなら、そう言ってくれると思っていました」
その笑顔に、ルカの胸がことりと跳ねた。
嘲笑されてばかりのこの三年間。誰かに、こんなふうに真っ直ぐ微笑まれたのは、いつ以来だろうか?もう思い出せなかった。
(う、嬉しいけど……姫様の笑顔、可愛すぎだろ)
どぎまぎして、ルカは椀の中に視線を落とす。
「……? どうかしましたか?」
「い、いえ! 何でもありません!」
どうやらこの姫様は、無意識に罪な笑顔を振り撒いているらしい。困ったものである。
馬車が、雪道を北へ進んだ。
行き先を尋ねると、イリアは「辺境砦です」と答えた。北方の魔物領域と、人の土地との境。その最前線を守る砦だという。
「どうしてそんな危ないところに?」
「そこが、私の職場だからです」
「職場?」
姫と職場という単語が上手く頭の中で繋がらず、首を傾げる。
姫様は困ったように笑った。
「実は私、そこの守備隊長でもあるんですよ」
「守備隊長!? 姫様が!?」
ルカは思わず声を上げた。
王女が。第三王女が、辺境砦の守備隊長を。普通では、あり得ない。左遷、という言葉が頭をよぎる。よほどの事情がなければ、王族がこんな最果てで剣を振るうはずがない。
「第三王女なのに、どうして守備隊なんかに……?」
「私にも、色々事情があるんですよ」
そう言葉を濁し、イリアは瞳を伏せた。
言いにくいことが、様々あるのだろう。一介の祈祷師などには、想像さえできないような事情が。
(イリア=ルーヴェンハルト、か……)
その名には、ルカも覚えがある。
かつて、剣技を称えられた姫騎士がいた。王族でありながら剣を取り、その才を惜しまれた少女。けれど、いつからかその名は別の呼び名にすり替わっていた。
〝呪われ姫〟──。
民は彼女をそう呼び始めた。それで気づけば、辺境へ飛ばされていたのである。
王都の噂でルカが知っていたのは、その程度だ。
その噂の姫が、目の前にいる。
王都に才を捨てられ、辺境へ追われた人。
(この人も……僕と同じ、なのかな?)
聖杯に映らず、無能と切り捨てられた祈祷師と。呼ばれ方や経緯は異なるが、王都に「要らない」と言われた者同士である点では同じだ。
イリアが話題を変えるように、尋ねてきた。
「それで……祈祷師様。あなたは、何者なのですか? 私の呪いを見抜いて、しかも緩和させるだなんて。ただの祈祷師ではありませんよね?」
「い、いえ! そんな、大層なものじゃありませんよ」
ルカは、ぽつぽつと自分のことを語り始めた。
祈祷庁に所属していたが、聖杯に三年間、一度も映らなかったこと。無能の烙印を押され、嗤われ続けてきたこと。ランド王太子の遠征を前に、勝利の神託を命じられたこと。そして、祈った時に、視てしまったこと。
「視た? 何を視たのでしょう?」
「黒い霧に沈む森と、砕ける盾と……木々の影から回り込む、異形の影が視えました。あの遠征は、勝てない。魔物だけじゃない、何かが、待ち構えている。そう思って……勝利の代わりに、中止を、と言ったんです」
その先は、言うまでもなかった。
「嘘の神託は、告げられなかった。それで……追放されました。祈祷師のローブも、服も、剥がされて。情けない話、パンツ一丁にされました」
淡々と、事実だけを積む。憐れんでほしいわけではなかった。ただ、そういうわけなんです、と。
「僕の祈りは、この国では、何の値もつかなくて。だから──」
「……許せません」
イリアの声が、低くなった。
顔を上げると、彼女は膝の上で拳を握りしめていた。碧い瞳に、静かな怒りが灯っている。声を荒げるのではなく、ただ、深く。
「仮にも王族なのに、国に仕える者をそのように扱うだなんて。ランドは昔からそうなんです。どこか嗜虐的で、弱者を甚振る趣味があって。私、昔からあいつが嫌いでした」
憤然と彼女は言った。
そうか。同じ王族として、イリアはランドと面識があるのだ。
「ルカ。あなたは何ひとつ、恥じることをしていません。それだけは、覚えておいてください」
きっぱりと、イリアは言い切った。
それから何かを考え込むように、顎に手を当てる。
「ただ、ルカが御祈祷中に視たものも気になりますね。魔物だけではない何かが待ち構えている、か……なんなのでしょうか。でも、もしそれが本当なら、ランドは──」
ぶつぶつと、独り言を口にする。
考え込むと、言葉に出てしまう癖があるようだ。
そんな彼女を見ていて、ルカは思わず頬が緩む。
王都で、誰ひとり信じなかったもの。臆病者の妄言だと、切り捨てられたもの。
それを、この人は切り捨てなかった。もし本当なら、と。案じるように、遠征の行く末へ思いを馳せかけて。
その時だった。
「姫様!」
御者台から、ヨナスの切迫した声が飛んできた。
「どうしました?」
「グラッテの村が、魔物の群れに襲われております」
イリアの表情が、一変する。
馬車の窓から覗くと、雪の向こう、村のある方角から、黒い煙が上がっていた。
「ヨナス、村へ。急いでください」
「し、しかし姫様。お身体が……先程も戦われたばかりなのに。せめて砦へ、応援を」
「それでは間に合いません!」
イリアの激昂が飛んだ。彼女の手は、もう剣の柄にかかっている。
「いいですか、ヨナス」
まるで子供を叱りつけるような口調で、彼女は続けた。
「民を見捨てる騎士など、騎士ではありません。そんな騎士を、私は騎士と認めない」
その横顔に、迷いはひとかけらもなかった。呪いで本来の力が出せないと、誰よりわかっているだろうに。それでも、彼女は誰かを守ることを、優先する。
彼女はきっと、そういう人間なのだ。
ルカは何も言えないまま、ただ、その決意の横顔を見つめていた。




