赤い指
いつもありがとうございます。それではごゆっくりお楽しみください。
突き刺したナイフを、両手で握り締める。
どくどくと溢れ出る血をじっと見つめながら、肩で息をする。
グレゴールの腕が微かに震えるのが、スカートの布越しに伝わってきた。
光を失っていく瞳で、太陽の存在しない夜空を彼は仰いでいる。
「はぁ……はぁ……」
「あ——く———」
「え」
今にもかき消えてしまいそうな声が聞こえ、エイラは顔を上げる。
老年の男は自身の血に溺れ、声を出すこともままならない。
だが、それでも皺だらけの口を動かしていた。
その弱々しい動きは、エイラの網膜に深々と刻み込まれる——咄嗟の読唇なんてできないはずなのに、少女は男の言葉が理解できてしまう。
鮮やかな赤が口の端から頬を伝って、後頭部へと流れ落ちた。
「がぼっ」
グレゴールは一度大きく咽せ、胸を跳ねさせる。
エイラは呆然として、血まみれの彼を見つめた。
彼の言葉は、まだ途中だ。
待っていれば、続きが聞けるかもしれない。
「う——うぅ、う——」
低く、くぐもった呻き声が漏れる。
そして、男は二度と動かなくなった。
瞼は開いたまま閉じない。
拳は握られたまま開かない。
中途で言葉を遮られた口は半開きのままだ。
エイラはやっとの思いで、胸に刺したナイフを引き抜く。
その刹那、朦朧とした意識を引き戻すように、発砲音が響いた。
「グレゴール様!!!」
狂信者の構えた銃の口から、灰色の煙が立ち上っている。
銃とエイラを結ぶ射線の間には、傷だらけのアーロンが立っていた。
足元に、両断された銃弾が落ちる。
彼は槍を肩に担ぎなおし、背後のエイラをちらりと見遣る。
戦場は、この瞬間だけ静寂に支配されていた。
「息は?」
少女はぎこちなく首を横に振った。
突如、悲鳴が上がる。
堰を切ったように、周囲の人々から——敵味方問わず——ざわめきが溢れ出した。
「死んだ……?」
「嘘だ、あのお方が!」
「アイツがやったのか!?」
半狂乱になったような声が、空気を震わせる。
グレゴールが死んだ!
グレゴール様が死んでしまった!
……死んだ?
誰のせいで?
「あの女のせいだ!!!」
第三者の指摘を耳にしたエイラは、思わず両眼を見開く。
それから、引き寄せられるように、真っ赤に染まった両手へと視線を落とした。
これが。これこそが、自分のやったことだ。
夜の寒風が背筋を撫でる。
広げた両手の指先から、全身へと震えが伝わっていく。
瞼の裏に焼きついたグレゴールの口の動きが、壊れたテレビのように何度も何度も再生された。
人目も憚らず、大声を上げたい衝動に襲われる。
誰かが、彼女に向かって吠えている。
あの声のように、ウチも——しかし、結局漏れ出たのは、自分にしか聞こえない程度の告白だった。
「ウチ、殺したんだ。人を」
耳を塞ぎたくなるような雷鳴が轟く。
雷に貫かれて灰になったのは、無垢な樹木だろう。
それが自分だったなら、どれ程幸せなことだろうか。
「エイラちゃん!!!」
朧げな思考を掬い上げるように、エイラの腕が引っ張られた。
彼女は振り返り、背後の影を見上げる。
風に靡く白銀の長髪が、少女の視界を包み込んだ。
「立って!!!」
「ニー、ナ……」
雨のような銃声。
咆哮と共に響く剣戟。
静まり返っていた戦場を、再び喧騒が覆っている。
エイラはやっとの思いで、グレゴールの死体から腰を上げた。
「ニーナ、ウチ」
「静かにして。時間ないから」
ニーナは足元の死体に眼を遣ると、黙して唇を噛んだ。
そして、ナイフを握り締めたエイラの右手を掴み、優しく解いていく。
「手、汚れちゃうよ……?」
「良いの。エイラちゃんだけが汚れるなんて、ありえないから」
鮮血が、二人の手を紅く穢す。
絡み合う指の間で、糸を引く。
ねっとりと汚れた抜き身のナイフは、ニーナの掌中へと無抵抗に奪われた。
彼女は、なおも組み合わさった2つの小さな手を見つめ、告げる。
「わたしも、一緒に背負うよ」
「え——」
瞠目したエイラは、瞳を震わせながら声を出した。
涙の跡が風に晒され、乾いていく。
「でも、約束できないって」
「約束はね。2人で決めたことなんだから、責任を押し付けられるわけないでしょ」
ポケットから鞘を取り出し、刃を収める。
抱え込むようにナイフを胸に押し当てると、ニーナは深く頷いた。
鈍い光が見えなくなると同時に、エイラは両手で顔を覆う。
赤い痕が、指の軌跡を示すように残った。
「うっ……くぅ……」
「……戦場のど真ん中で泣くなんて、ありえないよ」
「うるさい!ニーナだってうるうるしてるくせに!」
エイラが勢いよく顔を上げた瞬間、ニーナはそっぽを向いた。
意気軒昂な審問官たちが、狂信者の群れを押し返していくのが見える。
フェルナンドの言葉通りだ。
指揮者を失った楽団は、調和を保ちがたい。
「あのさ。エイラちゃんは、どうして泣いてるの?」
「分かんない。でも、なんでか……」
「わたしの理由は確かだよ」
鈍色の鎧を着た青年が、槍を片手に走り寄ってきている。
一時の優勢を前にして、彼は笑っていなかった。
「どうして?」
「悔しいから」
エイラは、真意を確かめようと両手を下ろす。
だが、口を開くよりも前に、聞き覚えのある声が彼女の注意を惹いた。
「よぉ、さっきぶりだな。赤髪の嬢ちゃん」
「アーロンさん……」
「正気は保ってるか?」
アーロンの問いは、思ったよりもストレートだった。
面食らったエイラは、暫しの間表情を固まらせる。
やっとの思いで息を吐くと、ぎこちなく首を縦に振った。
「そうか。なら、俺から言うべきことは2つだけだ」
「2つ?」
「まずは、1つ目だ。審問官として俺は言う——よくやった。お前の上げた戦果は第一級に他ならない。テント周辺の戦況は、嬢ちゃんの一撃で大きく好転したと言っていい」
「ウチの、一撃で……」
現実離れした賞賛を前に、エイラは俯いた。
間髪を容れずに、アーロンは言葉を続ける。
「そして、2つ目だ。この瞬間に立ち会った人間として俺は言う——よく休め。指揮官を失ったアイツらを叩くのは、俺たちに任せろ」
「ウチが、ですか?」
「白銀の嬢ちゃんも、だ。お前たちはよくやってくれた。初陣の成果が敵将の首だなんて、出来過ぎもいいところだぜ?このくらいで満足しておきな」
そう言う彼の表情は柔らかかったが、どこか諭すようでもあった。
切り落とされた耳たぶの止血はとうに済んでおり、肩の辺りに血痕を残すのみ。
額は汗ばんでいたが、槍を握る手に迷いはない。
「わたしも、アーロンさんに賛成」
「ニーナ……」
「エイラちゃんは、何の為に戦場に戻ってきたの?」
「恩返し……あと、みんなが戦ってるのに、ウチだけ逃げるなんて嫌だったから」
「それなら、エイラちゃんはもう立派な戦果を上げたよね」
「でも——」
「第一」
ニーナはエイラの足元を見つめ、次に右肩を見つめた。
彼女は忘れているのかもしれない。
「そんな状態で、混戦をどう生き抜くの?」
「……」
反射的に右手を握ると、脱臼の激痛が蘇ってくる。
両脚が震えている理由すら、少女は説明できない。
「わ、かった」
頷かざるをえなかった。
また、近いところで雷が落ちる。
それが本当の雷鳴なのか、雷にも似た別の何かなのかは、知る由もない。
「当面の間、医療テントは安全だ。お前らもあの中にいるといい。耐火性の高い素材だから、燃えた枝程度じゃどうにもならない」
「マノンさんもあの中に?」
「いや、アイツは治療のために各地を転々としてるだろう。もし、何かやってないと気が済まないってんなら、中で待機してる審問官にでも聞いてみな」
じゃあな、とアーロンは踵を返し、だらだらと手を振る。
エイラはその背中を見つめながら、叫んだ。
「助けてくれて、ありがとうございます!」
アーロンは、振り返りも立ち止まりもしなかった。
聞こえているかどうかも分からない。
ただ、彼を引き留める気力は、最早どこにもなかった。
目前にまで迫った休息を前にして、自然と安堵が湧き上がってくる。
赤髪の少女は視線を落とし、しみじみと口を開いた。
「ねぇ、ニーナ」
「どうしたの?」
「ウチ、グレゴールが死に際になんて言ってるのか、分かっちゃったんだ」
「え」
隣に佇む親友に、ニーナは見入った。
鮮血のへばりついた彼女の横顔は、どこか儚い。
「なんて……?」
「も、う」
思考の端でループ再生されているあの映像。
苦悶と苦悩が刻まれた表情が紡ぎ出した、未完成の言葉。
凍えるような寒さだけが、意識を現実に繋ぎ止めてくれる。
「も、ど、れ、な」
「……終わり?」
「うん」
乱戦の中に消えていったアーロンから眼を離し、医療テントを見上げる。
頭上を、火の粉が絶え間なく舞っている。
「仮にさ。続くのが“い”だとしたら。戻れないのは、何だと思う?」
「……」
ニーナは、その「何か」を答えなかった。
ただ、胸に手を当てながら、エイラの前に一歩踏み出す。
「少なくとも。エイラちゃんを1人で行かせることは、わたしがしないから」
「そっか。それなら——」
エイラの言葉をかき消すような、一際大きな悲鳴が上がった。
2人は衝動的に、戦場へと視線を戻す。
狂信者たちは統率に苦しみ、集団戦闘に長けた審問団に押されている——が、その波の中心に。
長剣を手にした黒い影が降り立つ。
「は?」
エイラの口から、間の抜けた声が漏れた。
光の残像を残して、剣が閃く。
遠くからでも聞こえるくらい、耳障りな湿った音がする。
両断されたアーロンは中身を撒き散らして、大地に倒れ伏した。
お疲れ様でした。
今回はここ数話に比べて軽めな味付け、文量で読みやすかったのではないでしょうか。
なんというか、続きを入れるには中途半端な感じになっちゃったんですよね。
なので、余韻を阻害しないためにも、エイラ視点だけに絞らせていただきました。
短いながらも、濃密な1話になっていると思います。
というか、私があーだこーだ言うのなんて烏滸がましいというか、出過ぎた行いなんですよ。
エイラの選択と、ニーナの行動。そして、アーロン、グレゴール。
彼女らの交わりと変化を、読者の皆さんの感性で受け取っていただければ幸いです。
さて、次回からは視点が変わり、物語が動いていきます。
誰視点でしょうか……ヴィオラ、サリナ、フェルナンド、マーキュリー……。
1週間後の更新をお楽しみに!
最後になりますが、感想やレビューなどいただけると本当に嬉しいです。
執筆の励みになりますし、1つ1つじっくりと読まさせていただきます。
それでは、りんどうでした。




