第9話 猟師トーレス
「あんたが、噂の先生か」
野性味の残る声に、レオンは振り返った。
にやりと笑う男の顔には、どこか裏表のない気安さがあった。背に担いだ弓と、腰の獲物袋。猟師であることを物語っている。日に焼けた肌と、鋭い眼光。山で生きる者らしい風格が漂っていた。
「トーレスだ。よろしく頼む」
差し出された手を、レオンは握り返した。硬く、皮の厚い手のひらだった。
「レオンだ」
「知ってるよ。村中、その話で持ちきりだからな」
トーレスは、道場の稽古を遠巻きに眺めながら、感心したように頷いた。
「噂通り、大したもんだ。子供らの相手をしながら、あそこまで丁寧に見られるとはな」
「褒めても、何も出ないぞ」
「褒めてない。感心してるだけだ」
飄々とした物言いに、レオンは思わず口元を緩めた。
後で生徒から聞いた話では、トーレスが村に流れてきたのは、自分がここに運ばれたのと同じ頃らしい。
レオンが診療所に運び込まれた、その少し後になる。
「よそ者が二人も居着くなんて、この村も変わったもんですよ」
生徒はそう言って笑った。レオンも笑った。そういうものかと、それだけ思った。
「稽古に、加わりたいんだったな」
「ああ。腕には多少覚えがあるが、我流でな。基礎ってやつを教わりたい」
「見せてくれ」
差し出した木刀を、トーレスは慣れた手つきで構えた。型は粗いが、間合いの取り方に無駄がない。
「悪くない」
「本職には敵わんが、獣相手には十分だ」
打ち合ってみると、トーレスの動きは予想以上に鋭かった。獲物を仕留めるための、実践的な剣筋。人を相手にした剣術とは、違う洗練のされ方をしている。
木刀が交わるたび、乾いた音が道場に響く。見物していた生徒たちも、いつしか手を止めて見入っていた。
「面白い。人斬りの技じゃないな、これは」
「猟師だからな。相手が獣ってだけだ」
数合打ち合った末、トーレスが木刀を下ろした。息は上がっているが、表情は満足げだ。
「参った。まだまだ、基礎がなってないな」
「筋は悪くない。あとは、型を体に叩き込むだけだ」
「頼むわ、先生」
軽口を叩きながらも、その目には真剣な光が宿っていた。
数日後、トーレスから狩りに誘われた。
「先生も、たまには村を出て羽を伸ばせ。獲物の一つも持ち帰れば、家族も喜ぶだろう」
「稽古はどうする」
「一日くらい休んだって、誰も文句は言わんさ」
断る理由もなく、レオンはついていくことにした。朝露の残る山道を、二人並んで歩き出す。
森に入ると、トーレスの動きは一変した。物音一つ立てず、獣道を読み、風向きを読む。狩人としての本領が、遺憾なく発揮されていた。
「風上に立つな。獣は、人の匂いに敏感だ」
「知らなかった」
「戦の駆け引きとは、また別物だろう」
歩きながら、トーレスは足跡の見分け方を教えてくれた。糞の新しさで居場所を探る方法も、惜しみなく授けてくれる。物覚えの早いレオンに、次第に驚いた顔を見せるようになった。
「あんた、覚えが早すぎるだろう」
「性に合ってるのかもな」
「あそこだ」
囁くような声に、レオンは示された方向を見た。茂みの奥に、鹿の影がある。
「射るのか」
「いや、あんたがやってみろ」
弓を渡され、戸惑いながらも構えた。息を止め、狙いを定める。
矢は、見事に急所を捉えた。
「上出来だ」
トーレスが口笛を吹く。
「剣も弓も達者とは、村に置いておくのがもったいないくらいだな」
「買いかぶりすぎだ」
「いいや。素直な感想だ」
帰路の途中、川辺で一休みすることになった。水を口に含み、トーレスが背を伸ばす。
「なあ、先生。どこで剣を覚えた」
不意の問いに、レオンの足が一瞬だけ止まった。
「……昔、少しな」
言葉を濁す。それ以上、話す気にはなれなかった。
トーレスは、その様子を見て、それ以上は聞かなかった。
「まあ、いい。誰にだって、話したくないことの一つや二つはある」
あっさりとした態度に、レオンは拍子抜けした。
「聞かないのか」
「聞いて、何か変わるか?」
「……いや」
「なら、いい。今のあんたがどういう男かだけ分かってりゃ、それで十分だ」
その言葉に、肩の力が抜けていくのが分かった。
「お前は、どうなんだ。その腕、ただの猟師にしては様になりすぎている」
「さあな。俺にも、色々あったのさ」
トーレスは、はぐらかすように笑った。
「言いたくなったら、そのうち話すさ。あんたも、俺も」
それ以上、互いに深追いすることはなかった。踏み込まない距離感が、かえって心地よい。
その夜、獲物を手に帰宅すると、ノアが目を丸くした。
「あら、大物ね」
「トーレスが仕留めさせてくれた」
「その人、今度うちにも連れてきてよ。お礼をしたいわ」
ノアは、嬉しそうに獲物を捌く支度を始めた。
「あなたに、友達ができたのね」
その一言に、レオンは少し驚いた。友達という言葉が自分に当てはまるとは、これまで考えたこともなかった。
「友達、か」
「違うの?」
「いや……そうかもしれない」
口にしてみると、存外しっくりくる響きだった。
数日後、トーレスは本当に家を訪れた。ミアを見るなり、相好を崩す。
「へえ、可愛いじゃないか」
「触れてみるか」
「いいのか」
「ああ」
ぎこちない手つきでミアを抱いたトーレスは、存外、様になっていた。あやし方には、素人らしからぬ丁寧さがある。
「子供は、苦手じゃないのか」
「意外か」
「少し」
「まあな。俺も、人には言えないことの一つや二つ、あるからな」
冗談めかした口調だった。だが、その目の奥に、一瞬だけ違う色がよぎった気がした。
見間違いだろう、とレオンは思うことにする。
それから、二人で過ごす時間が当たり前のように増えていった。
稽古の後に一杯、休みの日には狩り。時には、他愛のない話で夜を明かすこともあった。村の酒場でも、二人が並んでいる姿はすっかり見慣れた光景になる。
「先生と猟師さんは、いつの間にあんなに仲良くなったんだか」
「似た者同士なんだろうさ。どっちも、口数が少ない割に頑固でな」
村人たちの噂話にも、レオンは今では苦笑いで応じられるようになっていた。
「なあ、トーレス。お前がいると、なんだか気が楽になる」
酒場の帰り道、レオンがぽつりと漏らした。
「お前とは、話してて疲れない。理由も聞かれないしな」
「そりゃ、光栄だ」
トーレスは、星空を見上げながら静かに答えた。
「俺も同じだよ。こんな風に誰かと肩を並べて歩くのは、久しぶりだ」
「久しぶり、か」
「ああ。長いこと、一人だったからな」
その言葉に滲む何かを、レオンは深く考えなかった。
誰にでも、簡単には触れられない過去がある。それは、自分自身がよく知っていることだった。だからこそ、詮索せずにいられる。互いの傷に触れず、ただ今を共にする。
そんな関係が、こんなにも心地よいとは思わなかった。
かつて命のやり取りしか知らなかった自分に、こんな穏やかな時間が訪れる。想像もしていなかったことだ。
この関係が、これから先もずっと続くと、レオンは疑いもしない。
夜空には、雲一つなかった。冬の訪れを告げる、澄んだ星々が瞬いている。
その静けさの中で、レオンはふと気づいた。この村に来てから初めて、明日を疑わずに眠れている。
隣を歩く男も、同じ空を見上げていた。
何を考えているのかは、聞かなかった。
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