第8話 酒場の灯火
道場から、笑い声が絶えなくなった。
「先生、見て! できた!」
素振りを終えた少年が、得意げに木刀を掲げる。危なっかしい構えだったが、確かに以前より剣筋はまっすぐになっていた。
「よくやった」
頭を撫でようとした手が、思いのほか震えている。褒めるだけのことで、なぜこうも胸が熱くなるのか。自分でもまだ、よく分かっていない。
「先生、また泣いてる」
「泣いてない」
「泣いてますよ、目が真っ赤です」
からかうような声に、他の生徒たちまで笑い出す。レオンは、慌てて顔を背けた。
村では、いつしかそう呼ばれるようになっていた。優しくて、涙もろい先生。かつての呼び名からは、あまりに遠い。
その呼び名を、誰かに嫌味で言われたことは一度もない。むしろ、親しみを込めて呼ばれるたび、面はゆさと共に確かな温もりを感じた。
ある日の組み手で、ハンスが年下の生徒を倒した。
相手が尻もちをつく。木刀を落とし、両手を上げた。
ハンスの木刀が、その喉元で止まる。ぴたりと、寸前で。
「よし」
レオンは頷いた。
「今のが、一番いい」
「でも先生、止めなかったら勝ってました」
「勝ってる。止めた時点で、もう勝ってる」
ハンスは、しばらく自分の木刀を見ていた。それから、嬉しそうに笑った。
「覚えました」
その返事に、レオンは満足した。止める癖がついた。それでいい。
それが、どれほど危ういことなのか。この日のレオンは、考えもしなかった。
夕暮れ、稽古を終えて片付けをしていると、村長が顔を出した。
「先生、今日も精が出るなあ」
「いえ、大したことは」
「隣村からも、教わりたいという子が来ておるよ。噂が広まっとる」
村長は、腕を組んで満足げに頷いた。
「お前さんが来た頃は、正直、どうなることかと思ったもんだが」
「ご迷惑を、おかけしました」
「迷惑どころか。今じゃ、村の自慢だよ」
そう聞かされるたび、面映ゆさに落ち着かなくなる。誰かに頼られる感覚には、まだ慣れない。
「せっかくだ、一杯どうだ」
村長に誘われるまま酒場へ足を向けるのが、いつからか日課になっていた。
酒場の扉を開けると、すでに何人かの村人が席を占めていた。
「おう、先生! こっち座れ!」
手招きされ、断る理由もなく席につく。木の椅子は傷だらけで、腰を下ろすたびに軋んだ音を立てた。それすらも、今では馴染みの音だ。
杯を重ねるうち、口も軽くなる。もともと饒舌な性分ではない。それでも、酔いが回ると、不思議と言葉が滑らかに出てきた。
「聞いてくれ」
隣の男の肩に、腕を回す。
「俺は、幸せ者だ」
「はいはい、また始まった」
「いや、聞け。本当に、幸せ者なんだ。こんな俺を受け入れてくれる村があって、待っていてくれる家族がいる」
杯の中の酒が、揺れながら光を反射する。その揺らめきを見つめながら、レオンは言葉を継いだ。
「昔は、こんな夜が来るなんて考えたこともなかった」
「先生、それもう三回目ですよ、今夜」
どっと笑いが起きる。からかう声にも、悪意はない。むしろ、その繰り返しを村人たちはどこか楽しみにしているようだった。
「先生の惚気、そろそろ十八番だな」
「違う。惚気じゃない。事実だ」
「はいはい、事実事実」
適当にあしらわれても、レオンは気にしない。事実は、事実だった。
扉が開いたのは、そんな時だった。
「また、こんなところで」
呆れた声に、酒場の空気が一瞬だけ静まる。ノアが、腰に手を当てて戸口に立っていた。
「ノア……」
「迎えに来たわよ。ほら、帰るわよ」
「まだ、宵の口だぞ」
「宵の口に酔いつぶれてどうするの」
腕組みをしたノアの視線に、逆らう気力は湧いてこない。村人たちが、にやにやとこちらを見ている。レオンは、渋々立ち上がった。
「先生、また今度な」
「奥さん、いつも申し訳ない」
「いいのよ、慣れてるから」
ノアは、そう言って軽くため息をつく。だが、その口元は、決して不機嫌そうには見えなかった。
夜道を、二人並んで歩く。
「またあの台詞、言ってたんでしょう。俺は幸せ者だ、って」
「聞こえてたのか」
「村中に聞こえてたと思うわよ」
「悪いか」
「悪くはないけど……毎回言うと、安売りに聞こえるわよ」
「安売りじゃない。何度言っても、本当のことだからな」
ノアが、小さく噴き出す。夜風に、二人の足音だけが重なっていた。
「もう、口が上手くなったのね。昔は、お礼一つ、まともに言えなかったのに」
「お前が、変えたんだ」
「知ってる」
腕を組んで、ノアが笑う。星の下、二人の影が長く伸びていた。
家までの道のりを、二人はゆっくり歩く。急ぐ理由など、どこにもなかった。
道場の評判は、確かに広がっていた。
隣村からも生徒が集まり、稽古場は日に日に賑やかになっていく。朝の掃除だけで一苦労だった道場が、今では朝から木刀の音で満ちている。
ハンスをはじめ、古株の生徒たちは、新入りの面倒を進んで見るようになった。教える立場になることで、彼ら自身の腕もまた一段と上がっていく。
誰かに教えを乞われる。それが、こんなにも心を満たすとは思わなかった。
「先生、今度、猟師も稽古に混ぜてくれって言ってますよ」
生徒の一人が、そう伝えてきたのは数日後のことだった。
「猟師?」
「ええ、腕は立つらしいですけど、なんというか、ちょっと変わり者らしくて」
生徒は、苦笑しながら付け加えた。
「村の外れに、一人で住んでるんです。誰ともつるまない代わりに、狩りの腕だけは村一番だとか」
その一言に、レオンは軽く首を傾げる。まだ見ぬ相手に、これといった感慨はなかった。
だが、この日の会話が、後に最も深い友情へと変わっていく。
そして、最も深い裏切りへも。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




