第10話 森の中の惨劇
風に混じって、獣の匂いがした。
レオンは弓を構えたまま、息を止める。
隣で、トーレスが小声で唸った。
「今日は、駄目そうだな」
獲物の気配がない。
朝から歩き詰めだったが、収穫はゼロだった。
「たまには、そういう日もある」
「お前がそれを言うと、腹立つな。普段は外さないだろ」
「今日は、お前の勘が鈍っただけだ」
「うるさい」
軽口を叩きながら、二人は森の奥へ進んでいく。
今夜はミアに、上等な肉を食べさせてやりたい。
そんな下心もあった。
朝、ノアには釘を刺されている。
また泥だらけで帰ってくる気でしょう、と。
それでも、獲物なしで帰るわけにはいかなかった。
木漏れ日が、地面にまだらな影を落としている。
鳥の声。
風が梢を揺らす音。
静かな昼だった。
不意に、その静けさが破れた。
悲鳴が、森に響いた。
女の声だ。
トーレスと顔を見合わせる。
その一瞬さえ惜しかった。
レオンは駆け出していた。
木々の間を縫う。
悲鳴は、まだ続いている。
切迫した声だった。
「先生、待て! 様子も見ずに――」
トーレスの声が背中から飛んでくる。
それでも、足は緩めなかった。
視界が開けた。
そこに、惨劇があった。
倒れた男が二人。
血だまりが、落ち葉の上に広がっている。
護衛らしい装いだった。
その奥では、一人の女が数人の男に囲まれている。
上等な布地の外套。
飾り気はない。
それでも、隠しきれない気品があった。
女を守るように、二人の護衛が剣を構えている。
どちらも傷が深い。
その周囲には、三十を超える野盗が群れていた。
「くそ、多すぎる……」
追いついたトーレスが、息を切らせる。
「先生、どうする」
レオンは答えなかった。
女の前にいる野盗。
その後ろにいる野盗。
逃げ道。
倒れた護衛。
一瞬で、すべてを見る。
「殺すな」
「分かった」
レオンは弓を下ろした。
剣を抜く。
野盗の一人が、こちらを振り返った。
無精髭。
濁った目。
「なんだ、てめえ」
「その女から離れろ」
「はっ。村の兄ちゃんが粋がるんじゃねえ!」
男が斧を振り上げた。
「おい、やっちまえ!」
三人が同時に飛び出した。
レオンの足が、一歩だけ前へ出る。
斧が振り下ろされる。
レオンは半身を引いた。
刃が鼻先を掠める。
その腕を、剣の峰で打つ。
「ぐあっ!」
手首から力が抜けた。
斧が落ちる。
落ちるより早く、レオンの柄が男の顎を跳ね上げた。
巨体が後ろへ倒れる。
二人目が横から斬り込んだ。
レオンは刃を受けない。
一歩、内へ入る。
相手の懐。
剣を握る手首を掴み、捻る。
肩が浮いた。
そのまま地面へ叩き落とす。
「がっ!」
三人目が背後から迫る。
「先生、後ろ!」
トーレスの声。
振り返らない。
レオンは身を沈めた。
頭上を剣が通り過ぎる。
その瞬間。
肘を打つ。
剣が落ちた。
柄で鳩尾を突く。
男は声も出せず、膝から崩れた。
三人。
数秒もかからなかった。
「な、なんだこいつ……」
野盗たちの足が止まる。
レオンは倒れた男の剣を蹴り飛ばした。
「次は誰だ」
声は低い。
怒鳴ってはいない。
だからこそ、野盗たちの顔が強張った。
一人が斬り込んでくる。
レオンは剣を受けた。
刃と刃が触れる。
一瞬。
押し返す。
相手の体勢が崩れた。
レオンの剣が閃く。
刃ではない。
峰だった。
肩。
肘。
手首。
三度。
男が剣を落とす。
そのまま蹴り飛ばした。
別の男が槍を突き出す。
レオンは軌道を外す。
穂先が脇を抜けた。
槍の柄を掴む。
引く。
男の体が前へ泳いだ。
柄頭が胸へめり込む。
男が倒れる。
「先生、左!」
トーレスの矢が飛んだ。
レオンの横を抜け、野盗の手元を射抜く。
「うおっ!」
男が武器を捨てた。
その瞬間。
レオンが踏み込む。
峰が、膝を打つ。
男が崩れ落ちた。
一人。
二人。
五人。
十人。
倒れていく。
レオンは、一度も足を止めなかった。
敵が武器を持っている。
なら、その武器を奪う。
振り下ろされれば避ける。
突かれれば懐へ入る。
隙があれば倒す。
必要以上には傷つけない。
それだけだった。
「こいつ、俺たちを殺す気がねえ!」
誰かが叫んだ。
「なら、数で押せ!」
野盗たちが一斉に動いた。
レオンの目が細くなる。
三方向。
正面。
右。
左。
逃げ場を塞ぐつもりだった。
だが。
「トーレス」
「任せろ!」
矢が二本。
右の男の手。
左の男の足。
同時に崩れる。
正面が空いた。
レオンは走った。
一人目の懐へ。
峰打ち。
二人目の顎。
柄頭。
三人目の足を払う。
四人目の腕を捻り、地面へ伏せる。
五人目の剣を弾く。
そのまま背後へ回り、首筋へ柄を当てた。
「寝てろ」
男が崩れた。
残った野盗たちが、後ずさる。
「化け物だ……」
誰かが呟いた。
その一言に、レオンの手が一瞬だけ止まる。
「逃げろ!」
一人が背を向けた。
それを見た瞬間、他の者も散った。
森の奥へ逃げていく。
一人だけ、残った。
大男だった。
頭目らしく、他の誰よりも装備が厚い。
「舐めるなよ、小僧が」
大斧が振り下ろされた。
レオンは動かない。
斧が地面を叩く。
土が跳ねた。
その一瞬。
レオンの姿が消えた。
次に大男が見た時には、目の前にレオンがいた。
斧の柄を踏みつける。
動きを止める。
峰が首筋を打った。
大男の膝が落ちる。
さらに一撃。
意識を刈り取る。
大男が地面へ倒れた。
レオンは剣を下ろした。
森に、荒い息だけが残った。
倒れた野盗たち。武器を失った者たち。呆然と立つ護衛。そして、守られていた女。
レオンは剣を鞘へ収めた。
「お怪我は」
女の前で片膝をつく。
「ありません……あなたたちのおかげで」
声は震えていた。それでも、しっかりしている。
「護衛の方々は」
「四人で参りました」
一人の護衛が答える。腕を押さえながら、悔しげに俯いた。
「二人は、そこで」
もう一人の護衛は、肩から血を流したまま立っている。顔色が悪い。立っているのが不思議なほどだった。
「お守りしきれず、申し訳ございません」
女は首を横に振った。
「いいえ。あなた方は、よく守ってくれました」
そして、血を流す護衛へ目を向ける。
「今は手当てをお願いします」
「殿の方が先です」
「私は無傷です。あなたは違う」
護衛が、それ以上言い返せずに頭を下げた。
女が、外套のフードを下ろす。現れた顔は、思っていたより若かった。歳は十七、八ほど。だが、立ち姿には村娘とは違うものがあった。
「セレスティアと申します」
名だけを告げた。護衛たちも、それ以上は何も言わない。
レオンは、一礼した。
「それでは、俺たちはこれで」
「お待ちください」
セレスティアが呼び止める。
「命を救われました。頭を下げるべきは、私の方です」
まっすぐな目だった。
「あなた方のような方が、こんな辺境まで?」
護衛の一人が、すぐに口を挟んだ。
「お前たちには関係のないことだ」
レオンは何も言わなかった。セレスティアは、そんな護衛を見て小さく首を振る。
「訳あって、国境の様子を見に来ておりました」
「そうですか」
それ以上、レオンは聞かなかった。向こうにも事情がある。こちらにも、知られたくない過去がある。それで十分だった。
トーレスが、血を流す護衛の手当てに回った。
「傷は浅い。血止めをすれば、命に別状はない」
「助かります」
護衛が驚いた顔で頭を下げる。
手当てを終えた頃、森の向こうから馬の蹄音が聞こえてきた。
王国軍だった。護衛が事前に放っていた伝令を受け、駆けつけたらしい。物々しい甲冑の一団が姿を現す。空気が変わった。
捕らえられた野盗たちが、次々と縄をかけられていく。
指揮官らしい男が、セレスティアの前で深々と頭を下げた。
「ご無事で、何よりです」
「私は大丈夫です。それより、負傷者を」
「承知しました」
セレスティアの言葉に、兵士たちが動き出す。若い娘の言葉とは思えないほど、場が素早く動いた。
倒れていた二人は、布をかけられて運ばれていく。セレスティアは、その姿を黙って見送った。
馬に乗る間際。彼女が、もう一度レオンを振り返った。
「この恩は、忘れません」
短い言葉だった。けれど、その目は真っすぐだった。
「レオンです」
なぜか、名を告げていた。
「この近くの村で、剣を教えています」
言い終えてから、自分でも戸惑った。名も居場所も、隠しておくべきものだ。それなのに、口が勝手に動いた。
なぜ言ったのか、自分でも分からない。
「レオン様……」
その呼び方に、少しだけ違和感を覚えた。
やがて、セレスティアたちは森を離れていった。
一行が見えなくなった頃。トーレスが、ぽつりと言った。
「厄介なことになったな」
「なぜだ」
「あの護衛の数と質だよ」
トーレスが、去っていった方向を見る。
「ただの娘じゃない」
「そうだろうな」
「それに、お前だ」
「俺が?」
「三十人以上いたぞ」
トーレスが苦笑する。
「それを一人も殺さずに片づける村の先生なんて、そうはいない」
レオンは答えなかった。
「いつか、話す」
「急かしはしないさ」
トーレスは肩をすくめる。
「だが、忘れるなよ」
森に、静けさが戻ってきた。
その夜、村に戻ったレオンを、ノアが出迎えた。
「随分、遅かったのね」
「少し、揉め事に巻き込まれてな」
ノアの目が、服についた血に止まる。
「怪我は?」
「かすり傷一つない」
「なら、いいけど……」
ノアはそれ以上、聞かなかった。ただ、レオンの手を取る。
「早く入って。ミアが待ってるわ」
「ああ」
レオンは、ノアの手を握り返した。その温かさを、当たり前のものだと思っていた。
その夜は、それで終わった。
だが、レオンが告げた名前は、もう森を出ていた。
数日後、それは王都の書状に記されることになる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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