第6話 ミア誕生
夜半、ノアの呻き声で目が覚めた。
「来る……みたい」
短く、途切れがちな声。
レオンは跳ね起きるなり、通りを二つ隔てた診療所へ駆けた。戸を叩く手が、自分でも分かるほど震えている。
「産まれる。もう、産まれそうなんだ」
アルブレヒトは、すぐに支度を整えた。手際に、迷いは一つもない。マルタが湯を沸かし、布を用意する。村の産婆も、程なく駆けつけてきた。
レオンは、部屋の外で待つよう言われた。
「男は、ここにいても邪魔なだけだ」
アルブレヒトの一言に、素直に従うしかなかった。
戸の向こうから、ノアの声が漏れてくる。苦しげな声を聞くたび、拳を握りしめた。代わってやれるものなら、代わりたい。
だが、今の自分にできることは何もない。外で立ち尽くすことだけだった。
戦場でなら、誰よりも動ける。剣を握れば、迷いなど一つもなかった。それなのに、戸一枚隔てたこの場所では、指一本動かせない。
無力さというものを、こんな形で思い知る日が来るとは。
外の空気は冷たく、白い息が夜闇に溶けていく。何度も同じ場所を行き来した。星の位置が、少しずつ動いていく。それだけが、時の流れを教えてくれた。
どれほど経っただろう。空が白み始めても、レオンは戸口に立ち続けていた。
夜明けが近づく頃、甲高い泣き声が響く。
体が、勝手に動いていた。
戸を開けると、ノアが汗まみれの顔で微笑んでいた。腕には、小さな命がある。
「元気な女の子よ」
レオンは、震える足でそばに寄った。
「触れても、いいのか」
「もちろん」
差し出された小さな体を、レオンはおそるおそる受け取った。指先が震える。腕にどれほどの力を込めればいいのか、見当もつかない。
軽い。あまりにも軽い。それでいて、これまで抱いたどんなものより重く感じられた。
小さな指が、レオンの人差し指を握りしめる。
その重みに、レオンは声を上げて泣いた。
「泣いてるの、あなたのほうよ」
ノアが、くすくすと笑う。
止めようとしても、涙が止まらない。喜びだけで泣いたのは、初めてだった。
アルブレヒトが、静かに近づいてきた。
「取り上げたのは私だ。名付けは、お前たちで決めろ」
そう言って、道具を片付け始める。
「ミア」
ノアが、小さく呟いた。
「前から決めてたの。女の子なら、ミアにしようって」
レオンは、腕の中の娘を見つめた。
「ミア」
口にすると、不思議な実感が湧いてくる。この小さな命に、確かな名前が宿った瞬間だった。
「悪くない名だ」
アルブレヒトが、手を止めずに短く言う。
その日のうちに、村中へ知らせが回った。
家の前には、代わる代わる村人が訪れる。祝いの言葉と共に、食べ物を置いていった。
「よかったな、先生」
近所の子供たちも、揃って顔を出した。誰もが、我が事のように喜んでいる。
かつて、よそ者として警戒されていたことを思えば、信じがたい光景だった。この村は、いつの間にか自分の居場所になっていたらしい。
数日が過ぎた。ミアは、日に日に村人たちの人気者になっていく。子供たちは代わる代わる顔を見に来ては、小さな指を掴んで喜んでいる。
ノアは、日ごとに母親らしい顔つきになっていった。レオンには、その変化がまぶしく映る。
夜泣きで起こされることも、日に幾度もあった。それでも、腕の中で泣き止む瞬間には、何度経験しても不思議な喜びを覚える。
夜。皆が寝静まった頃、レオンは一人、揺りかごの傍らに座っていた。眠るミアの寝顔を、飽きることなく眺めている。
「眠れないのか」
戸口から、アルブレヒトの声がした。
「見回りだ」
「嘘が下手だな、お前は」
苦笑まじりに、アルブレヒトが隣へ腰を下ろした。
しばらく、二人とも黙っている。ランプの灯りが、影を壁に長く伸ばしていた。
「俺は、父親でいいのかな」
やがて、レオンがぽつりとこぼした。
「この手で、何百人も殺してきた。そんな手で、この子を抱いていいのか」
アルブレヒトは、すぐには答えなかった。
「父親というのは、最初から完璧なものじゃない」
しばらくして、静かにそう言う。
「私だって、ノアが生まれた時は怖かった。この手でちゃんと育てられるのか、毎晩考えていた」
「あんたが怖がる姿など、想像できない」
「誰だってそうだ。強がっているだけだ」
アルブレヒトは、眠るミアに目をやった。
「子育てに正解などない。誰もが手探りだ。お前だけが特別に不安なわけじゃない」
「それでも、俺は違う」
「何が違う」
「俺の手は、汚れている」
言葉にした途端、喉の奥が重くなった。
アルブレヒトは、少しの間、黙り込んだ。窓の外で、梟の声が一度だけ響く。
「その手で、ミアを受け止めていただろう」
静かな声だった。
「今日、産声を上げたあの子を、真っ先に抱いたのはお前の手だ。汚れているかどうかは、これから何をするかで決まる」
「間違えたら、謝れ。守れなかったら、次は守れるようになれ。それだけでいい」
その言葉が、胸の奥にゆっくり染み込んでいく。
「それだけで、いいのか」
「それだけで、十分だ」
アルブレヒトは、立ち上がりながら付け加えた。
「完璧な父親を演じるより、そのほうがずっと子供のためになる」
戸口で振り返り、もう一言だけ残す。
「お前はもう、化け物でも兵器でもない。ただの、不器用な父親だ」
足音が、遠ざかっていく。
一人残されたレオンは、しばらくその場から動けなかった。
不器用な父親。その響きが、思いのほか心地よい。何者かであろうと気負う必要はもうない、と言われた気がした。
レオンは、揺りかごに視線を戻した。ミアの小さな胸が、規則正しく上下している。
守りたいと思う。この寝顔を、これからもずっと。そう思えることが、何より不思議だった。
窓の外で、夜風が木々を揺らしている。
レオンは、ミアの手をもう一度そっと握った。
その手を離せなくなる日が来ることを、この夜の彼は知らない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




