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復讐のダークナイト 〜愛を知った男は、再び黒い牙となる〜  作者: 筑紫隼人


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第5話 二つの誓い

斧を振り下ろすと、薪が乾いた音を立てて割れた。

 

一日に四十、五十と割っても息が上がらない。

 

村の女たちが驚くので、最近は少し手を抜いている。

 

傷はほとんど塞がっていた。

 

脇腹に残る痕だけが、あの夜のものだと知らせてくる。

 

診療所を出て、村の空き家を借りた。

 

屋根の隙間から星が見える程度の家だが、文句をつける立場ではない。

 

昼のうちは、いい。

 

体を動かしていれば何も考えない。

 

問題は、夜だった。

 

布に包んだまま、部屋の奥に立てかけてある。

 

ノアがくれた古い布で、二重に巻いてあった。

 

輪郭は分かる。

 

分かるように置いてある。

 

隠せば楽になるのに、そうできない。

 

日が落ちると、喉の奥が乾く。

 

水を飲んでも変わらない。

 

乾いているのは喉ではないからだ。

 

夏の間はまだよかった。

 

寒くなってから、ひどくなった。

 

指先が、勝手に何かを探す。

 

柄の形を覚えている指だった。

 

 

その夜は、雪。

 

村の音が、何もしない。

 

犬も鳴かない。

 

気がついたら、立っていた。

 

部屋の奥まで五歩ほど。

 

布を解く手つきに迷いはなかった。

 

何度も夢の中でやったことだ。

 

黒い柄が、灯りのない部屋でも分かる。

 

手が、それを握った。

 

鞘は冷たくなかった。

 

半年ばかり誰も触っていないはずなのに、鞘だけが生きているように温い。

 

握った瞬間、渇きが引いた。

 

嘘のように、引いた。

 

抜けば、もっと楽になる。

 

それが分かる。

 

分かるから、恐ろしい。

 

何を斬るわけでもない。

 

抜いて、一度だけ振って、戻せばいい。

 

誰も死なない。

 

誰にも知られない。

 

そう考えている自分の声が、自分のものではない気がした。

 

足りない。

 

誰も言っていない。

 

部屋には、レオンしかいない。

 

そのとき、戸が鳴った。

 

ノアが立っていた。

 

外套も羽織らず、髪に雪をのせたまま。

 

何を言われるか、身構える。

 

だがノアは、剣を見なかった。

 

手も見なかった。

 

ただ、顔だけを見ていた。

 

「抜いてない」

 

そう言った。

 

「……ああ」

 

「なら、いい」

 

ノアは部屋に入ってくる。

 

そしてレオンの手から剣を取った。

 

抵抗する間もない。

 

細い腕が、その重さに一度沈む。

 

それでも、落とさなかった。

 

「今夜から、私が預かる」

 

「駄目だ。危ない」

 

「あなたが持っていることの方が、危ない」

 

布を巻き直しながら、ノアが言う。

 

「置いてあるのが見えるように、わざとそうしてたでしょう」

 

レオンは答えられなかった。

 

「試してたの。いつでも取れる場所に置いて、それでも取らない自分を確かめてた」

 

そういうことだったのか、と思う。

 

自分では気づいていなかった。

 

「もう、試さなくていい」

 

 

ノアが去った後の部屋は、やけに広かった。

 

渇きは戻ってきた。

 

前より、ひどかった。

 

朝までかかった。

 

壁を殴ったのも、歯を鳴らしたのも、この夜が最後になる。

 

何度も外へ出ようとして、何度も座り込んだ。

 

窓が白むころ、震えが止まった。

 

雪が止んでいる。

 

診療所の窓に灯りがついていた。

 

ノアはまだ起きているのだろう。

 

剣を抱えたまま、眠れなかったのかもしれない。

 

そう思ったら、笑えてきた。

 

笑ったあとで、涙が出た。

 

この夜のことを、レオンは誰にも話さなかった。

 

ノアも、聞かなかった。

 

 

春の終わりに、麦が伸びた。

 

レオンは、それを刈る側にいた。

 

鎌の使い方を、ハンスの父に教わる。

 

最初の一日で手のひらが裂けて、ノアに笑われた。

 

剣より難しい、と言ったら、それは違うと叱られた。

 

夏の川で、村の子供に泳ぎを教えた。

 

最初は誰も近づいてこない。

 

一人が飛び込めば、あとは早かった。

 

秋には屋根の葺き替えを手伝った。

 

高いところは平気だと言って、村長に呆れられる。

 

冬が来て、また雪が降った。

 

あの夜と同じ量の雪だった。

 

何も起きなかった。

 

そうして、一年が過ぎた。

 

 

「もう、震えてない」

 

ノアが、レオンの手を取って言う。

 

レオンは自分の手のひらを見つめた。

 

たしかに、震えはない。

 

指先まで静かなものだった。

 

「誓ってほしいことがある」

 

ノアの声が、いつもより低い。

 

「なに」

 

「今すぐじゃなくていい。でも、いつか」

 

ノアは、言葉を選ぶように間を置いた。

 

窓の外で、夜風が木々を揺らす。

 

ランプの火が、ゆらりと影を伸ばした。

 

「聞く。何でも」

 

レオンはノアの手を取った。

 

この一年で、ようやく自然にできるようになった仕草だ。

 

ノアが握り返してくる。

 

だが、続きはすぐに出てこない。

 

沈黙が降りた。

 

気まずさはない。

 

言葉より先に、確かめ合いたい何かがあった。

 

レオンは、ノアの頬にそっと触れた。

 

指先が、以前ほど無骨には動かなくなっている。

 

「今夜は、それだけでいい」

 

囁くように、そう告げる。

 

ノアが小さく頷いた。

 

頬が、灯りの下でほのかに色づいていた。

 

これまで、誰かにこれほど気を配ったことはない。

 

相手の呼吸ひとつ、瞬きひとつを確かめながら動く。

 

レオンは、ノアをそっと抱き寄せた。

 

壊れ物を扱うように、ゆっくりと。

 

ノアもまた、震える手で背に腕を回してくる。

 

その夜、二人は言葉を交わさなかった。

 

代わりに、これまで積み重ねた時間の分だけ、静かに寄り添う。

 

ランプの灯りが、やがて消えた。

 

 

朝。

 

レオンは見慣れない静けさの中で目を覚ました。

 

隣で眠るノアの寝息が、規則正しく続いている。

 

女を知らなかったわけではない。

 

命のやり取りの合間に、名も知らない相手と体を重ねたこともある。

 

数え切れないほど。

 

だが、どれも空虚だった。

 

終われば何も残らない。

 

互いの名すら覚えていないこともあった。

 

生きている実感が欲しかっただけかもしれない。

 

今にして思えば、そんな気もする。

 

今は、違う。

 

胸の奥が、じんわり熱い。

 

腕の中の温もりを、失いたくないと思う。

 

そんな感情を抱いたのは、生まれて初めてだった。

 

ノアが目を開けた。

 

「おはよう」

 

掠れた声。

 

レオンは、その体をそっと抱き寄せた。

 

「ずっと、俺のそばにいてほしい」

 

自分でも驚くほど素直な言葉が出る。

 

かつての自分なら、決して口にしなかった類のもの。

 

「結婚してほしい。俺の、妻になってほしい」

 

ノアは、しばらく黙っていた。

 

驚いているのか、迷っているのか、レオンには読み取れない。

 

やがて体を起こすと、まっすぐにこちらを見た。

 

「二つ、誓ってほしい」


挿絵(By みてみん)

 

指を二本立てる。

 

「昨夜、言いかけていたことか」

 

「そう」

 

ノアが、一本目を示した。

 

「一つ。二度とあの剣を抜かないこと」

 

そして、二本目。

 

「もう一つ。二度とあの鎧を纏わないこと」

 

レオンは少し笑った。

 

「それは、同じことだろう」

 

「違う」

 

ノアが首を振る。

 

「同じにしたら、片方だけ破ったときに、あなたは自分を許してしまう」

 

レオンは、笑うのをやめた。

 

ノアの目は真剣だった。

 

冗談でも、念押しでもない。

 

この一年、剣を抱えて眠った夜が、彼女にもあったのだ。

 

「あれは、俺そのものだ」

 

ようやく、そう言った。

 

「違う」

 

また、首を振られる。

 

「あれは、あなたを縛っていたものでしょう。あなたそのものじゃない」

 

レオンは言葉に詰まった。

 

「あなたが二つとも守るなら。私は、一生あなたのそばにいる」

 

その声に、迷いも恐れもなかった。

 

しばらく黙って、ノアの目を見つめ返す。

 

これまで、何かを固く誓ったことなど一度もない。

 

命令に従うだけの日々に、誓いは必要なかった。

 

だが今は、誰に命じられたわけでもなく、自分の意志で誓いたいと思う。

 

窓の外で、朝の光が強くなっていく。

 

「誓う」

 

短く、それだけを口にした。

 

「二度とあの剣は抜かない。あの甲冑も、二度と纏わない。お前と、この村で生きる」

 

ノアの目に涙が浮かんだ。

 

「二つとも、破らない」

 

「三つ目は、私から」

 

ノアが三本目の指を立てる。

 

「結婚の誓いは、二人で立てるものだから」

 

レオンは思わず笑った。

 

久しぶりに、心の底から出た笑いだった。

 

 

その日の夕方、二人はアルブレヒトとマルタに報告した。

 

マルタは両手で口元を覆い、目を潤ませる。

 

アルブレヒトはしばらく無言だったが、やがて短く頷いた。

 

「よかったな」

 

それだけの言葉に、万感がこもっていた。

 

式は、村の広場で開かれた。


挿絵(By みてみん)

 

飾り立てたものではない、ささやかな集まり。

 

ハンスをはじめ、村の子供たちが花を撒く。

 

夏に泳ぎを教えた連中だった。

 

村人たちも、持ち寄った料理で祝ってくれる。

 

かつてよそ者だと遠巻きにされていたことなど、嘘のようだった。

 

「よそ者だった俺を、よくここまで」

 

レオンが呟くと、アルブレヒトが隣で肩を叩いた。

 

「私も同じだった。時間が、それを変える」

 

「本当に、変わるものなんだな」

 

「変わる。お前が、それを証明している」

 

夕暮れの光が、広場を橙色に染めていく。

 

村人たちの笑い声が、絶えることなく響いていた。

 

かつて命のやり取りしか知らなかった手で、レオンはノアの手を取る。

 

誓いの言葉を、静かに交わした。

 

 

式の後、レオンは家の床下に小さな穴を掘った。

 

剣は、ノアが持ってきた。

 

あの雪の夜から、ずっと彼女が預かっていたものだ。

 

「返すわね」

 

「……いや。そのまま、置いてくれ」

 

ノアが頷いて、自分の手で穴の底に置く。

 

砕けた甲冑も、その隣に並べた。

 

レオンは蓋をかけた。

 

重い石の蓋。

 

一人では開けられない。

 

それから、二人で土をかぶせた。

 

「これで、終わり」

 

ノアが手の土を払って言う。

 

「ああ」

 

終わり、という言葉をこんなに嬉しく聞いたのは初めてだった。

 

その夜、レオンは床に伏せて、床下の気配を探ってみた。

 

何も聞こえない。

 

渇きも、来なかった。

 

隣に立つノアの手を、もう一度そっと握り直す。

 

これで、剣ではなく人として生きていける。

 

そう信じられた夜から、四年。

 

レオンは同じ床を、自分の手で掘り返すことになる。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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