第4話 赦しの抱擁
「俺は、生きていてはいけない人間だ」
絞り出した声が、震えていた。
ノアは、何も言わない。
ただ、両腕を伸ばしてきた。
「よせ」
男はその腕を振り払おうとする。
だが、力が入らない。
「俺に触れるな。分かっているのか、俺が何をしてきた人間か」
自分の声とは思えないほど掠れていた。
今にも崩れそうな声。
「知らない」
ノアが静かに答える。
「でも、知りたいなら聞く」
「聞いて、どうする」
「どうもしない。ただ、聞く」
その言葉に、何かが崩れる音がした。
自分の内側で、長く固く凍りついていたもの。
「俺は……」
声が掠れて途切れる。
それでも、言葉は止まらない。
「命乞いする敵を、笑いながら斬った。捕虜は皆殺しにしろと命じ、手柄のために何百人も殺した」
言葉にするたび、喉が引き攣れる。
手のひらに、まだ剣の重みが残っている気がした。
「戦場に出れば、誰が敵で誰が味方かなど、すぐに分からなくなる。だが俺は、いつも自分から先に踏み込んだ。躊躇したことなど一度もない」
「部下が死んでも、何も感じなかった。仲間だと思ったこともない。剣を振れば敵は死ぬ。それだけが、俺のすべてだった」
ノアは黙って聞いている。
目を逸らさず、顔も歪めない。
「それが俺だ。人の心なんて、とうに捨てた化け物だ」
言い終えると、体から力が抜けた。
誰にも打ち明けたことのない話だった。
打ち明ける相手など、これまで一人もいない。
「だから、俺に関わるな。お前まで汚れる」
男はノアの手を強く払いのけた。
寝台から出ようとして、痛みに崩れ落ちる。
それでも、床を這うようにして戸口へ向かった。
ここにいてはいけない、という思いだけが体を動かす。
膝をついたところへ、戸が乱暴に開いた。
アルブレヒトだった。
「何の騒ぎだ」
低い声に、部屋の空気が張り詰める。
「関係ない。俺は、ここを出ていく」
「その体で、どこへ行く」
傷が開いたのか、脇腹に鈍い熱がある。
立っているだけで視界が揺れた。
アルブレヒトは、男の腕を掴んで無理やり立たせる。
年齢に似合わない、強い力だった。
「娘に、勝手に近づくなとでも言うつもりか」
「そうだ。俺は、人殺しだ」
「聞いた」
戸口で、アルブレヒトが短く答えた。
「今、全部聞こえていた」
男は息を呑む。
物音を殺していたつもりなどない。
ただ、聞かれていい話だとも思っていなかった。
「それでも、娘の覚悟を、お前が勝手に決めるな」
静かだが、鋭い声だった。
「ノアが誰にどう関わるか、決めるのはノア自身だ。お前が決めることじゃない」
「分かっていない。俺は、この手で何百人も」
「分かっている」
言葉を遮られた。
「自分が汚れているからといって、人の善意まで汚すな」
その一言が、胸の深いところに突き刺さる。
「善意まで疑うつもりか。それは、お前が思うより、ずっと失礼なことだぞ」
男は返す言葉を持たない。
「私も、この村に来た当初は、よそ者だというだけで随分と拒まれた」
アルブレヒトの声が、少しだけ和らぐ。
「診療所を開くのに三年かかった。誰も、体を預けようとしなかったからな」
「それが、何の関係がある」
「それでも、手を差し伸べてくれる者はいた。その手を疑っていたら、今の私はいない」
一度、言葉を切る。
「お前がどれだけ人を殺してきたのか、私は知らない。だが、目の前で誰かが手を伸ばしているなら、まずはそれを見ろ。疑うのは、それからでも遅くない」
言うだけ言って、アルブレヒトは腕を離した。
そのまま部屋を出ていく。
去り際、一度だけノアを見やった。
何かを確かめるような視線。
ノアが小さく頷くと、それ以上は何も言わずに戸を閉めた。
残された沈黙の中、ノアがそっと近づいてくる。
「座って」
言われるまま、男は寝台の縁に座った。
もう、抗う気力はない。
ノアは隣に腰を下ろし、男の顔を覗き込む。
濡れた頬に、そっと指先が触れた。
拭うでもなく、確かめるような仕草。
「聞いた話、全部。それでも、変わらない」
「なぜだ」
「あなたが、今それを話してくれたから」
ノアの声に迷いはなかった。
「隠したまま、いい顔だけしている人より、よほど信じられる」
「俺の過去は、消えない」
「消さなくていい」
ノアが、男の手を取る。
指先はまだ、かすかに震えていた。
「その過去も、これからのことも、全部含めて。それでも、私はここにいる」
喉の奥から、堪えていたものが一気にせり上がってきた。
視界が滲んでいく。
いつからか、涙という感覚を忘れていた。
痛みにも死にも動じない体だったはずだ。
それなのに、今は止められない。
ノアが、静かに抱きしめてくる。
背中に回された腕の温かさに、男はこらえきれず声を上げて泣いた。
生まれて初めて、人前で流す涙。
肩が震えるたび、これまで積み上げてきたものが崩れていく音がした。
戦場で培った強さも、誰にも心を許さない冷たさも。
抱きしめられた瞬間、意味を失っていく。
どれくらいそうしていただろう。
永遠にも、一瞬にも感じられた。
涙が止まったころ、外はすっかり暗くなっていた。
ノアは何も聞かず、ただ隣に座り続けている。
「名前は」
男は掠れた声で、ようやく口を開いた。
「レオンだ」
初めて、自分から名乗った名前だった。
ノアが、小さく微笑む。
「レオン」
その響きに、なぜか胸が熱くなる。
自分の名を、こんなに柔らかく呼ばれたのは初めてだった。
「私、実は前から気になってた」
ノアがふと話題を変える。
「あんな怪我をして倒れていたのに、あなた、ずっと剣を手放さなかったの。眠っている間も、ずっと握りしめてた」
「……手放せなかった」
「大事なものだったのね」
レオンは少し考えてから答えた。
「大事、というより。それしか、持っていなかった」
「今は?」
ノアが静かに問う。
すぐには答えられなかった。
「分からない。これまで、剣以外のものを持ったことがない」
「なら、これから探せばいい」
軽やかな声だった。
重さを感じさせない響き。
「探すって、何を」
「剣以外に、大事にしたいもの。焦らなくていいから」
その一言が、意外なほど胸に落ちる。
窓の外で虫の音が響いていた。
当たり前のはずのその音が、やけに鮮明に聞こえる。
まだ、何も終わっていない。
過去は消えず、罪も消えない。
それでも今夜だけは、この温もりに委ねてみようと思えた。
だから、レオンはまだ知らない。
半年後の雪の夜、自分があの剣に手を伸ばすことを。
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