第3話 カルム村
目を覚ますと、知らない天井があった。
木目の走る、古い梁。乾いた薬草の匂いが、鼻の奥に絡みつく。
「よかった……気がついたのね」
若い女の声が、静かに降ってきた。手には、血のついた布が握られている。自分の血だと気づくのに、少し時間がかかった。
体を起こそうとして、痛みに息を呑む。
「動かないで。まだ縫ったばかりよ」
女が慌てて肩を押さえた。柔らかいのに、有無を言わせない力だった。
記憶を辿る。国境の森。倒れた自分。白いものが揺れた気配。あれが、この女だったのか。
「私はノア。ここは、カルム村の診療所」
名を聞かれている、と気づいた。だが、声が出ない。喉の奥に何かが詰まっている感覚だった。
小さな窓から、光が差している。乾いた薬草の束が、天井から幾つも吊るされていた。外では、荷車の軋む音と、誰かの笑い声。ここしばらく耳にしたことのない類の音だ。
戸が開き、初老の男が入ってきた。革の前掛けに、器具の並んだ盆。
「起きたか」
男はノアの隣に立ち、傷を確かめ始めた。指先の動きに無駄がない。
「アルブレヒト。ここの医者よ」
ノアが短く紹介する。アルブレヒトは何も聞かなかった。名前も、素性も。淡々と包帯を巻き直していく。
「深い傷が三つ。血もかなり失っている。よく生きていたな」
独り言のような呟きだった。無駄口を叩かない分、動きだけで信頼できる手だと分かる。
「森で行き倒れていたんですって。ハンスのお父さんが見つけて」
ノアが付け加えた。村の名を出されても、男には実感が湧かない。
体を起こそうとする男を、アルブレヒトの手が制した。
「寝ていろ」
「もう、動ける」
掠れた声で、ようやくそれだけを絞り出す。
「医者は私だ」
反論を許さない響きだった。
「……」
「患者が医者に逆らうな」
男は口を噤んだ。誰かにこうまで断言されたのは、初めてだった。隊長として、命令に従うことなど久しくなかった。それなのに、逆らう気力すら湧いてこない。
傍らに、布に包まれた剣が立てかけてある。ネメシスだ。
「これだけは、外さなかった。危なくて触れなかったからな」
アルブレヒトが、剣に目をやりながら言った。男は無言でそれを見つめる。安堵よりも先に、渇きに似たものが喉を這い上がってきた。
「見ず知らずの男を、よく置いてくれるものだな」
自分でも意外なほど、棘のある声が出る。
「私も、この村ではよそ者だった」
アルブレヒトは手を止めない。
「王都から来たというだけで、随分と長く遠巻きにされた。だから、事情がある者を見捨てる気にはなれない」
それだけ言って、道具を片付けて出ていく。去り際、ノアに何か耳打ちした。声は届かない。ノアが小さく頷くのだけが見えた。
その日の夕方、村長らしき老人が診療所を訪ねてきた。
「よそ者を、そう易々と匿っていいものかね」
低い声が扉越しに漏れ聞こえる。
「治療を頼まれれば、断らない。それだけのことだ」
アルブレヒトの声は、静かだが揺るがなかった。村長は、それ以上何も言わずに帰っていく。
その夜、震えが始まった。
指先から広がった揺れが、やがて全身に至る。
歯の根が合わない。
爪の先まで、氷水に浸けたように冷たい。
それなのに、額には玉の汗が浮かぶ。
耳の奥で、鼓動が異様に大きく響いていた。
呼吸が整わない。
冷たい汗が寝具を濡らしていく。
「大丈夫。ここにいるから」
ノアの声だけが遠くから聞こえた。
目を閉じれば、戦場の光景が押し寄せる。
斬った数だけ、血の匂いが鮮明によみがえった。
もう、長く誰も殺していない。
その事実だけが、抑えるものを失った理由だった。
渇望が腹の底から突き上げてくる。
何かを、誰かを傷つけたいという衝動。
その衝動に名前をつけたことはない。
ただ従うだけの日々だったからだ。
朝方、ようやく震えが収まった。
体は鉛のように重く、指一本動かすのも億劫だった。
ノアが、匙で薄い粥を運んでくる。慣れた手つき。幼いころから父の診療所を手伝ってきたのだと、後で知ることになる。
「食べられる?」
口元に運ばれた匙を、男はしばらく見つめた。誰かに食べさせてもらうことなど、記憶にある限り一度もない。
「……いい。自分で」
震える手で匙を取ろうとして、取り落とした。ノアは何も言わず、床に落ちた匙を拾う。また粥をすくって差し出した。
今度は拒めなかった。
「ありがとう」
その一言すら、うまく出てこない。掠れて、途中で消える。
礼を言う資格などない、という思いが先に立つ。これまで、数え切れないほどの命を奪ってきた手だ。そんな手で、誰かに感謝を伝えていいはずがない。
「お名前、聞いてもいい?」
男は目を逸らした。名乗れば、何かが始まってしまう気がする。名乗る資格があるとも思えない。
「……いい」
それだけを、ようやく口にした。
ノアは、それ以上を聞かない。空になった器を、静かに片付けただけだった。
数日が過ぎていく。震えは、波のように寄せては引いた。
日中はノアが傷を見に来る。アルブレヒトは毎朝欠かさず脈を測り、短く容体を告げて出ていく。単調な繰り返し。
それでも、体の芯にこびりついた冷たさは、なかなか抜けていかない。眠りは浅く、悪夢ばかりが続いた。
その夜も、男は夢を見ていた。
黒い牙の隊列。
命乞いをする敵兵。
振り下ろす剣。
夢の中で、剣が止まらない。
斬っても斬っても、渇きが満たされなかった。
不意に、腕を掴まれる感覚があった。
目を開けた瞬間、体はもう動いている。
気づけば、伸ばした手がノアの首元に触れていた。
「……っ」
息を吸う音がした。
ノアの喉が小さく鳴る。
目が見開かれている。
指先が手にした布を強く握っていた。
怖がっている。
当然だった。
男の手も、止まっている。
自分が何をしようとしたのか、遅れて理解が追いついてくる。
血の気が一気に引いていった。
「……悪い」
震える声で、それだけを絞り出す。
手を引こうとするが、指先が言うことを聞かない。
ノアはそれでも逃げなかった。
一度だけ、大きく息を吐く。
それから、ゆっくり男の手を取って、自分の首元から外した。
外す指先が震えていた。
震えたまま、離さない。
「大丈夫」
自分に言っているのかもしれない、と男は思った。
「……分かってる」
「分かるはずがない」
男は初めて声を荒げた。
「俺は、今……お前を」
続きが言葉にならない。
ノアは何も答えなかった。
ただ、男の手をそのまま両手で包み込む。
冷え切った指先に、温かさがゆっくり染み込んでくる。
その手も、まだ少し震えていた。
震えているのに、離さない。
男はその手を振り払えなかった。
何か言わなければ、と思う。
喉の奥で、堰を切ったように、言葉になりきらない何かが膨らんでいく。
黙っていられるほど、自分は器用にできていなかった。
だから、言ってしまった。
生まれて初めて、誰かに向かって。
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