第55話 狼との死闘
砦の場所は、紙で届いた。
オズワルドの谷を出る前日である。
名はエルステン。国境から四日。
ケインが読み上げた通りの名だった。
四日目の夕方に、砦が見えた。
丘の上に、石の塊が置いてある。
高くはない。壁の高さは、十歩ほどだろう。
古い砦だった。
帝国が北へ兵を回してから、使われていない。
レオンは、丘の下で足を止めた。
丘の斜面に、人がいた。
数えた。
三十七まで数えて、やめた。
ケインは四十人と言った。
近い数である。
全員、黒い装束を着ていた。
誰も、こちらへ動かなかった。
槍も弓も構えていない。
ただ、立っていた。
見られていた。
レオンは、荷を下ろした。
布を解いた。
胸当てを取った。留め具を締めた。肩を乗せた。籠手をつけた。脛当てをつけた。
最後に、兜を被った。
金属が噛み合う音が、丘の下に響いた。
斜面の男たちが、少し動いた。
動いて、また止まった。
一人が、腕を上げた。
砦の方を指した。
通れ、という意味だった。
北の門まで、二百歩あった。
歩いた。
両側に、黒い装束が並んでいる。
近づくと、二歩ずつ下がった。
誰も止めない。
誰も声をかけない。
門の前に着いた。
厚い木の扉である。鉄の帯が三本巻いてある。
閉じていた。
レオンが立つと、内側から動いた。
内側から開く仕掛けだった。
誰かが引いている。
開いた隙間から、中庭が見えた。
石畳だった。
レオンは、入った。
背中で、音がした。
扉が閉じた。
その後で、別の音がした。
木が木にはまる音である。
外から、閂がかかった。
ケインの言った通りだった。
中庭は、三十歩四方ほどだった。
石畳が敷いてある。古いもので、何枚か割れていた。
南の門も閉じている。
四方を壁に囲まれていた。
その中央に、男が立っていた。
ヴォルフだった。
甲冑は着ていない。
革の胴着と、籠手だけである。
腰に、長剣が一本。
レオンは、二十歩の距離で止まった。
「来たか」
ヴォルフが言った。
「来た」
「直したな」
「直した」
「三月より早かったな」
「十八日で済んだ」
ヴォルフは、少し笑った。
「あの爺さん、腕を落としてないか」
「落としていない」
「そうか」
ヴォルフは、剣の柄に手をかけた。
「閂の音を聞いたか」
「聞いた」
「外に四十人いる」
「知っている」
ヴォルフの手が、少し止まった。
「……誰に聞いた」
レオンは、答えなかった。
ヴォルフは、それ以上聞かなかった。
「まあいい」
剣を抜いた。
「どっちにしろ、ここから出るのは一人だ」
「一つ、確かめたい」
レオンは、剣を抜かずに言った。
「言え」
「お前は、暗黒魔法を使うな」
「使う」
「俺の甲冑には、通らない」
「通らん」
ヴォルフは、剣を下げたまま答えた。
「だから、使わん」
「では、剣だけか」
「剣だけだ」
レオンは、その答えを聞いた。
こちらは甲冑がある。傷が塞がる。魔法が通らない。
向こうは革の胴着だけである。
有利だった。
数字の上では、圧倒的に有利だった。
「気づいてるか」
ヴォルフが言った。
「何にだ」
「お前の剣は、ここでは役に立たん」
レオンは、柄に手をかけた。
「斬った相手から生命を吸う。吸えば強くなる」
「……」
「ここには、俺一人しかいない」
ヴォルフは、剣を構えた。
「吸える命が、一つしかない」
「分かっている」
「分かってて来たか」
「来た」
レオンは、剣を抜いた。
黒い刀身が、夕方の光を返さずに沈んだ。
ヴォルフが、その刀身を見た。
見て、小さく息を吐いた。
「十年ぶりだな」
「……」
「それを抜く相手になるのは」
石畳の上で、二人とも動かなかった。
風が、壁の上を抜けていった。
先に出たのは、レオンだった。
三歩で間合いを詰めた。
右から入れた。
ヴォルフは、受けなかった。
半歩下がった。
刃が、空を抜けた。
返しが来る。
左の肩に当たった。
甲冑が受けた。通らない。
レオンは、そのまま押し込んだ。
ヴォルフが、横へ回った。
二合目。
三合目。
四合目。
どれも、当たらなかった。
受けもしない。
全部、外されていた。
レオンは、一度離れた。
石畳を三歩下がった。
息は、まだ上がっていない。
ヴォルフは、剣を下げていた。
構えていない。
「分かるか」
そう聞いてきた。
「何がだ」
「お前の剣は、右から入る」
レオンの指が、柄の上で動いた。
「最初の一合は、必ず右だ。十年、一度も変わらん」
「……」
「次は、押し込む。相手が下がったら、追う」
ヴォルフは、剣の先で石畳を叩いた。
「追ってくるから、横へ回れば終わりだ」
レオンは、その言葉を聞いていた。
その通りに動いていた。
「お前の剣は、俺が一番見てる」
ヴォルフは、剣を構え直した。
「十年だ。毎日、横で見てた」
「……」
「お前が隊長で、俺が隣だった」
そこで、初めて踏み込んできた。
速かった。
レオンは、刃を受けた。
受けた瞬間、押し負けた。
体が、半歩後ろへ流れた。
次が来る。
喉だった。
兜で受けた。甲冑が受けた。通らない。
通らないが、首が後ろへ持っていかれた。
三度目は、膝に来た。
脛当てが受けた。
受けたが、体勢が崩れた。
崩れたところへ、四度目。
胸当ての継ぎ目を、正確に狙ってきた。
レオンは、横へ飛んだ。
飛んで、石畳に膝をついた。
ヴォルフは、追ってこなかった。
元の位置に戻っている。
「継ぎ目は、覚えてるぞ」
そう言った。
「十二枚、紙に書いた」
レオンは、立ち上がった。
「寸法を書いた男が、目の前にいるんだ」
ヴォルフは、剣を下げた。
「どこが弱いか、全部知ってる」
レオンは、剣を横に振った。
黒い刃が、飛んだ。
三日月の形である。
石畳を走った。
ヴォルフは、動かなかった。
飛んだ刃が、体の横を抜けた。
二寸もない距離だった。
外したのではない。
避けられた。
「それも、知ってる」
ヴォルフが言った。
「三日月だ。弧の内側は当たらん」
「……」
「弧の内側に立てば、抜ける」
レオンは、もう一度振った。
今度は、下から上へ。
ヴォルフが、初めて跳んだ。
跳んで、避けた。
避けながら、距離を詰めてきた。
空中からの一撃が、肩に落ちた。
甲冑が受けた。
受けたが、膝が折れた。
落ちてきた重さの分だけ、下がった。
ヴォルフは、着地と同時に次を出した。
兜の縁を、横から打った。
視界が、一瞬飛んだ。
レオンは、腕を振った。
当たらなかった。
当たらないまま、三度打たれた。
全部、甲冑が受けた。
傷は、ついていない。
だが、体が流れていた。
四半刻が過ぎた。
レオンは、壁を背にしていた。
石畳の半分を、押し込まれていた。
傷は、一つもない。
甲冑は、割れていない。
息が、上がり始めていた。
ヴォルフは、中庭の中央にいた。
肩で息をしている。
こちらも疲れている。
だが、立っている。
「おかしいだろう」
ヴォルフが言った。
「お前は、傷一つない」
「……」
「俺は、革の胴着だけだ」
「……」
「それなのに、壁まで下がってる」
レオンは、壁から離れた。
二歩、前へ出た。
「理由は、三つある」
ヴォルフは、指を立てなかった。
剣を持ったまま、数えた。
「一つ。吸える命がない。お前は強くならん」
「……」
「二つ。俺はお前の癖を全部知ってる」
「……」
「三つ」
ヴォルフは、こちらを見た。
「その鎧を着てる間、お前は減り続ける」
レオンは、その言葉を聞いた。
「殺し続けなきゃ命を削る。お前がよく知ってるだろう」
「……知っている」
「ここには、殺す相手が一人しかいない」
「……」
「その一人が、斬られてやらん」
ヴォルフは、剣を下げた。
「だから、俺は当てなくていい」
「……」
「時間を使えば、お前が先に落ちる」
レオンは、剣を構え直した。
言われたことは、全部正しかった。
正しいから、返す言葉がなかった。
それから、半刻やった。
攻めたのは、ほとんどレオンだった。
ヴォルフは、受けずに外した。
外して、時々返した。
返すのは、三合に一度だった。
当てる必要がないからである。
レオンの息が、深くなっていった。
肩が、重くなり始めた。
甲冑の重さではない。
着始めたときは、何も感じなかった。
今は、肩に食い込んでいる。
削られている、と分かった。
殺していない。
誰も殺していない。
だから、減っている。
日が落ちた。
中庭に、光がなくなった。
壁の上に、月が出た。
二人とも、肩で息をしていた。
ヴォルフが、先に口を開いた。
「レオン」
「……」
「一つ、言っていいか」
レオンは、剣を下げなかった。
「言え」
ヴォルフは、剣の先を石畳につけた。
杖のように使った。
「十四で、同じところに拾われた」
「……」
「同じ飯を食って、同じ型をやった」
「……」
「十六で、二人とも選ばれた」
「……」
「そこまでは、同じだった」
月の光が、石畳を白くしていた。
「十八で、お前が隊長になった」
「……」
「剣が渡った。甲冑が渡った」
「……」
「名前がついた」
ヴォルフは、顔を上げた。
「俺は、同じ部隊の中にいた」
「……」
「同じ場所から始まって、片方にだけ渡った」
「……」
「そして、お前は村に行った」
ヴォルフの声が、少し変わった。
「女がいた。娘が生まれた」
「……」
「木刀を振って、酒場で幸せ者だと叫んでた」
「……」
「俺は、それを毎月読んでた」
レオンは、その声を聞いていた。
「五年だ」
ヴォルフは、剣を持ち直した。
「お前だけが、光を手に入れた」
言い切った。
中庭に、その言葉が落ちた。
レオンは、剣を下げた。
下げて、口を開いた。
三月前、墓の前で言えなかった言葉である。
喉まで来て、出てこなかった。
今、出た。
「お前にも」
声が、兜の中で響いた。
「手を伸ばす人間は、いたはずだ」
ヴォルフの肩が、止まった。
「……何だと」
「いたはずだ」
レオンは、二歩前へ出た。
「俺が村に来たとき、歩けなかった」
「……」
「飯も自分で食えなかった。礼も言えなかった」
「……」
「それでも、手が出てきた」
「……」
「俺が探したんじゃない。向こうから出てきた」
レオンは、剣を上げた。
「お前の前にも、出てきたはずだ」
「出てこなかった」
ヴォルフが、短く返した。
「出てこなかったんだ」
「気づかなかっただけだ」
「黙れ」
初めて、声が荒れた。
「お前に何が分かる」
「分からない」
レオンは、そう認めた。
「お前が何を見たかは、分からない」
「……」
「だが、北で村を焼かなかったとき」
ヴォルフの目が、動いた。
「あのとき、お前は手を伸ばしていた」
「……」
「十一人死んだと言ったな」
「言った」
「焼かずに済ませようとして、死んだと」
「……」
「それは、手を伸ばした側の話だ」
ヴォルフは、剣を構えた。
構える動きが、少し乱れていた。
「もう、黙れ」
「黙らない」
「黙れ!」
ヴォルフが、踏み込んできた。
それまでで一番速かった。
レオンは、受けた。
受けて、押し返した。
初めて、押し返せた。
刃が離れる。
二人とも、二歩下がった。
月の下で、向き合った。
ヴォルフの息が、乱れていた。
レオンの肩も、重かった。
重さが、さっきより増していた。
甲冑の中で、何かが減り続けていた。
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