第56話 削られていく命
月が、壁の上を移った。
中庭に入ったのが夕方である。
今は、真夜中を過ぎていた。
五刻は経っている。
レオンは、石畳の上に立っていた。
甲冑に、傷はない。
割れてもいない。
受けた打撃は、数えきれない。
全部、鉄が受けた。
それでも、体が重かった。
重さは、順に来た。
最初は肩だった。
着たときには何も感じなかった三十貫が、肩に食い込んだ。
次に、息が浅くなった。
吸っても、底まで入らない。
兜の中が、暑い。
汗をかいているのが分かった。
甲冑を着ている間は、汗もかかないはずだった。
五年前は、そうだった。
今は、かいている。
三刻目に、視界が狭くなった。
兜の隙間から見える幅が、変わるわけはない。
変わったのは、見ている側だった。
左右の端が、暗くなっていた。
四刻目に、指の感覚が鈍くなった。
柄を握っている。
握っている感触が、遠かった。
力は入る。
入るのに、手触りがない。
五刻目に、傷が塞がらなくなった。
左の腿だった。
継ぎ目の隙間を、剣の先が抜けた。
浅い傷である。
血が出た。
出たまま、止まらなかった。
五年前なら、五つ数えるうちに塞がっていた。
三月前の町でも、肩の矢穴はすぐに塞いだ。
今は、流れ続けている。
レオンは、その感触を確かめた。
脛当ての内側が、濡れていく。
治癒が働いていない。
働かせるものがない。
甲冑は、命を燃やして傷を塞ぐ。
燃やす命が、残っていなかった。
ヴォルフが、それに気づいた。
中庭の中央で、足を止めた。
石畳を見た。
レオンの足元から、黒い筋が伸びている。
月の光では、赤く見えない。
「塞がらんか」
そう聞いてきた。
レオンは、答えなかった。
答える息を、使いたくなかった。
「そろそろだと思ってた」
ヴォルフは、剣を下げた。
「五刻だ。お前の鎧は、殺さずに五刻がぎりぎりだろう」
「……」
「五年前、調べた」
レオンは、剣を構え直した。
構える動作が、半拍遅れた。
「来いよ」
ヴォルフは、構えなかった。
剣を下げたままだった。
「来られるならな」
レオンは、踏み込んだ。
右からではない。
左から入れた。
ヴォルフが、わずかに目を見開いた。
刃が、脇腹を掠めた。
革が裂けた。
血が出た。
初めて、傷をつけた。
ヴォルフは、三歩下がった。
脇腹を押さえた。
押さえた手を見て、少し笑った。
「左から来たか」
「……」
「十年で、初めてだ」
レオンは、追わなかった。
追う力が、残っていなかった。
「追えよ」
ヴォルフが言った。
「今なら取れる。追え」
レオンは、石畳の上で止まっていた。
膝が、震えている。
追えば、届く。
届くが、届いた後に立っていられない。
「追えないか」
ヴォルフは、脇腹から手を離した。
血が、革の上を伝っていた。
「俺は、まだ立てる。お前は、立てなくなる」
剣を持ち直した。
「それだけの差だ」
それから、四半刻が過ぎた。
レオンは、二度膝をついた。
二度とも、立ち上がった。
二度目は、剣を支えにした。
甲冑の中で、汗が冷えていた。
腿の血は、止まっていない。
脛当ての中に溜まって、重くなっていた。
ヴォルフは、攻めてこなかった。
五歩の距離を保って、歩き回っていた。
当てる気がない。
倒れるのを待っている。
それが分かった。
「ヴォルフ」
レオンは、声を出した。
出すのに、息を使った。
「……ああ」
「なぜ、終わらせない」
ヴォルフは、足を止めた。
「終わらせる気はある」
「……」
「だが、この終わり方じゃない」
「……どういう意味だ」
ヴォルフは、剣の先を石畳につけた。
「お前が鎧の中で干からびて死ぬ。それじゃ、何にもならん」
「……」
「俺が欲しいのは、死体じゃない」
レオンは、その言葉を聞いた。
五年前から、同じことを言っている男である。
殺したくない、と言った。
人間のまま死なれるのが許せない、と言った。
「だから、提案がある」
ヴォルフは、北の門の方を見た。
「外に、四十人いる」
レオンの指が、柄の上で動いた。
「開けてやろうか」
中庭が、静かになった。
風が、壁の上を抜けていった。
「四十人だ」
ヴォルフは、ゆっくり言った。
「術者が六人混じってる。だがお前の鎧には通らん」
「……」
「残りは、ただの兵だ」
「……」
「斬れば、入る」
レオンは、腿の血を感じていた。
溜まった血が、脛当ての中で動いた。
「四十人分だ」
ヴォルフは、剣を肩に担いだ。
「それだけ入れば、傷は塞がる。息も戻る。目も見える」
「……」
「昔のお前に戻る」
レオンは、立っていた。
立っていることに、力を使っていた。
「一人で四十人を相手にするのは、お前の得意だっただろう」
ヴォルフは、北の門へ歩き出した。
「城門を一人で開けた男だ」
「……」
「二百十七人斬ったんだろう」
門の前で、止まった。
閂は、外からかかっている。
「外に合図を出せば、開く」
ヴォルフは、こちらを振り向いた。
「言えよ」
「……」
「一言でいい」
レオンは、剣を支えにして立っていた。
「開けろ、と言え」
頭の中に、言葉が浮かんだ。
浮かんだのは、自分の声ではなかった。
足りない。
そう聞こえた。
二年前から、何度も聞いた声である。
雪の夜に、一度。
村の広場で、殺し終えた後に、一度。
墓の前で、一度。
オズワルドの小屋で、三日目の夕方に、一度。
今、五度目だった。
足りない。
レオンは、歯を噛んだ。
噛んで、確かめた。
渇いていた。
渇いている場所が、分かった。
喉ではない。腹でもない。
握っている手の中である。
柄を握っている、その感覚の奥にある。
十八日前、オズワルドの小屋で、同じことを確かめた。
握りたいという感覚が、どこかにあった。
場所が分かるなら、押さえられる。
そう思った。
今、押さえようとした。
押さえた。
押さえたが、戻ってきた。
さっきより強く、戻ってきた。
レオンは、膝をついた。
三度目だった。
立ち上がれなかった。
剣を支えにしても、腕に力が入らない。
「どうした」
ヴォルフが、門の前から声をかけた。
「開けてやる。言え」
「……」
「死ぬぞ」
レオンは、石畳を見ていた。
自分の血が、溜まっている。
「お前は、ここで干からびて死ぬ」
ヴォルフの声が、近づいてきた。
歩いてきている。
「女の墓も守れんぞ」
レオンの指が、動いた。
「焼け跡が、十年で畑になる」
「……」
「誰も、あそこが村だったと知らなくなる」
レオンは、顔を上げた。
兜の中から、ヴォルフを見た。
脇腹から血を流した男が、五歩のところに立っていた。
「四十人だ」
ヴォルフは、そう繰り返した。
「四十人斬れば、生きて帰れる」
「……」
「帰って、墓を守れ」
「……」
「それの、どこが悪い」
レオンは、その言葉を聞いた。
正しかった。
正しく聞こえた。
四十人は、帝国の兵である。
村を焼いた国の兵である。
斬る理由がある。
斬れば、生きて帰れる。
帰れば、墓が守れる。
全部、繋がっていた。
繋がっているのが、分かった。
分かることが、危ないと知っていた。
十八日前、オズワルドが言った。
理由があるからな。理由があれば、何人でも斬れる。
レオンは、石畳に手をついた。
ついた手が、震えていた。
震えの中に、別のものが混じっていた。
欲しい、という感覚だった。
はっきり、そこにあった。
「言え」
ヴォルフが、もう一度言った。
「開けろ、と言えば済む」
レオンは、口を開いた。
開いた口から、息が出た。
言葉にはならなかった。
ヴォルフが、一歩近づいた。
「聞こえん」
レオンは、もう一度、口を開いた。
喉が、動いた。
音が出た。
「……開け」
そこまで出た。
出てしまった。
ヴォルフの顔に、何かが浮かんだ。
笑いではなかった。
安堵に近いものだった。
五年待った男の顔だった。
ヴォルフは、北の門へ歩き出した。
手を上げた。
外へ、合図を出そうとした。
その手が、止まった。
止まった理由は、音だった。
門の外で、音がした。
剣が触れ合う音である。
一度ではない。
続いていた。
ヴォルフが、門を見た。
レオンも、見た。
外で、誰かが戦っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




