第51話 最も信じていた男
戸が鳴ったのは、その夜だった。
三度、間を置いて鳴った。
黒い牙にいた頃、天幕の前で使っていた合図である。
味方だと示すための、形だけの決まりだった。
レオンは、机の前に座っていた。
三つの紙束が、そこに積んである。
立ち上がって、戸を開けた。
ヴォルフが立っていた。
二十日ぶりだった。
三月かかると、本人が言った調べである。
「早いな」
「ああ」
「皇都は遠いだろう」
「遠い」
ヴォルフは、部屋に入ってきた。
戸を閉めた。
閂をかけなかった。
机の上の紙束を見て、そこで足を止めた。
「読んだか」
レオンは、椅子に座り直した。
「読んだ」
「全部か」
「全部だ」
ヴォルフは、紙束に近づいた。
一番上の一枚を取った。
取って、見た。
目で追っていない。
見ただけで、下ろした。
「対暗黒騎士特殊戦術部門」
そう読み上げた。
「五年前の冬に設立。現在の責任者は、ヴォルフ・アイゼン」
レオンは、その声を聞いていた。
自分の名を、人ごとのように読んでいた。
「合ってる」
ヴォルフは、紙を机に戻した。
「俺だ」
部屋の空気が、変わらなかった。
変わると思っていた。
何かが落ちるか、割れるか、止まるか、そういうことが起きると思っていた。
何も起きなかった。
ヴォルフは、壁際の椅子を引いた。
座った。
いつも通りの座り方だった。
焚き火を囲むときと、同じ姿勢である。
「聞きたいことがあるだろう」
「ある」
「順に言え。答える」
レオンは、紙束に手を置いた。
置いて、一つ目を聞いた。
「五年前、楔の寸法を出したのはお前か」
「俺だ」
即答だった。
「図面の署名は、立会だった」
「立ち会っただけで書けるわけがない」
ヴォルフは、脚を組んだ。
「お前の甲冑は、俺が三年見てた。付け外しを横で見てた」
「……」
「留め具の位置も、継ぎ目の角度も、全部覚えてた」
「紙に書いたのか」
「書いた。十二枚だ」
レオンは、その数字を聞いた。
十二枚。
「職人が三人がかりで五年かかった。俺の十二枚があっても、それだけかかる」
「……」
「よく出来た甲冑だったってことだ」
ヴォルフは、笑った。
笑い方が、いつもと同じだった。
「二つ目だ」
レオンは、声を平らに保った。
「村に間者を五年置いたのは、お前の指示か」
「そうだ」
「三年目の具申を却下したのも」
「俺だ」
「待てと書いたのは」
「俺だ」
レオンは、机の端を掴んだ。
「対象が最も幸福になる時まで待て、と書いたのか」
「書いた」
ヴォルフは、こちらを見ていた。
目を逸らさなかった。
「三つ目を聞け」
「……密書は」
「俺が作った」
「将軍府の印は」
「押収品の中にあった。王国の書類を箱で三つ持ってる」
「筆跡は」
「写した。あの爺さんの字は癖が強い。期日の日が跳ねる」
レオンは、三月前の夜を思い出した。
エレナが灯りの下で二通の私信と照合した。
字の癖が三箇所、特に期日の日の字の跳ね方が同じだと言った。
一致していた。
「……四つ目だ」
声が、少し掠れた。
「村を襲わせたのは」
ヴォルフは、脚を組み替えた。
「俺だ」
「南方軍に話を通したのか」
「通した。大侵攻の初動目標に組み込ませた」
「理由はどう説明した」
「国境から一番近い集落だ。橋頭堡の確保に要ると書いた」
「……」
「誰も疑わん。地図を見れば、そう見える」
レオンは、机を見ていた。
「ディーターを使ったのも」
「あれは偶然だ」
ヴォルフは、首を振った。
「部隊の割り当ては南方軍が決めた。あいつが来たのは、たまたまだ」
「……そうか」
「そこだけは、俺じゃない」
レオンは、その答えを聞いた。
嘘をつくなら、ここでつく必要がない。
この男は、嘘をつかずに全部認めている。
レオンは、立ち上がった。
壁に立てかけた剣を取った。
布を解いた。
黒い刀身が出た。
ヴォルフは、座ったままだった。
腰に剣がある。
手をかけなかった。
「抜けよ」
ヴォルフが言った。
「抜いてる」
「じゃあ、振れ」
レオンは、剣を構えた。
構えた形のまま、止まった。
三月前、ケインの前で同じことをした。
あのときは、振り下ろせなかった。
今は、振れる。
腕は動く。
動くのに、前へ出ない。
「どうした」
「……」
「迷ってるのか」
「迷っていない」
レオンは、剣を下げなかった。
「お前は、抜かないのか」
「抜かん」
「なぜだ」
ヴォルフは、脚を組んだままだった。
「今のお前を殺しても、しょうがないからだ」
「……」
「甲冑がない。三月前に壊れたんだろう」
レオンの指が、柄の上で動いた。
「なぜ知っている」
「知ってるさ」
ヴォルフは、机の紙束を指した。
「そこに書いてあるだろう。俺の部門は、暗黒騎士の管理が仕事だ」
「……」
「管理には、所在の把握も入る」
レオンは、剣を構えたままだった。
「一年近く、お前は俺の隣にいた」
「いた」
「あれも、管理か」
ヴォルフは、少し黙った。
黙ってから、短く返した。
「半分な」
「半分」
「半分は、そうだ」
それ以上を言わなかった。
レオンは、剣を下ろした。
下ろしたのは、腕が疲れたからではない。
分かってしまったからである。
この男を斬っても、何も戻らない。
ノアは戻らない。ミアも、リンも戻らない。
アルブレヒトもマルタも、ヨナスも、九人の子供も戻らない。
五十三人は、五十三人のままである。
それは、半年前から知っていた。
知っていて、ゴードウィンを殺そうとした。
名前があれば進めた。名前があるだけで楽になった。
今、正しい名前が目の前にある。
楽には、ならなかった。
「斬っても、何も戻らんぞ」
ヴォルフが言った。
レオンは、その言葉を聞いた。
言われたくない言葉だった。
この男の口から出るべき言葉ではなかった。
「……黙れ」
「黙らん」
ヴォルフは、椅子から立った。
初めて立った。
「お前が今やりたいのは、復讐じゃない」
「……」
「終わらせたいだけだ」
レオンは、剣を握り直した。
「俺もだ」
ヴォルフは、そう続けた。
「五年、終わらせたかった」
「……」
「今日、やっと話せた」
その声が、少しだけ緩んでいた。
安堵しているように聞こえた。
レオンは、その音を聞き取った。
聞き取って、気味が悪くなった。
「一つ、聞かせろ」
レオンは、剣を下ろしたまま聞いた。
「なぜだ」
ヴォルフの顔から、緩みが消えた。
「なぜ、村を焼いた」
「……」
「俺を殺したいなら、五年前に殺せた。間者一人で済んだ」
「済んだな」
「殺さなかった」
「殺さなかった」
「待った」
「待った」
「なぜだ」
ヴォルフは、答えなかった。
窓の方を向いた。
窓は閉じている。
外は見えない。
それでも、そちらを向いた。
「それは、別の話だ」
「別ではない」
「別だ」
ヴォルフは、こちらを見た。
「それを話すと、長くなる」
「聞く」
「今日は話さん」
「なぜだ」
「お前が立ってるからだ」
レオンは、その言葉の意味を取り損ねた。
「剣を持って立ってる相手に、話す気にならん」
ヴォルフは、戸の方へ歩いた。
「座って聞く気になったら、呼べ」
「お前は逃げるのか」
「逃げない」
戸に手をかけた。
「次に会うときまでに、やっておくことがある」
「何をだ」
ヴォルフは、振り向いた。
「甲冑を直せ」
レオンは、剣を握ったまま動かなかった。
「……何だと」
「直せ。あの鍛冶屋がまだ生きてるだろう」
「……」
「三月やる。三月で直せ」
「なぜ、そんなことを言う」
ヴォルフは、戸を開けた。
廊下の暗がりが、部屋に入ってきた。
「今のお前とやっても、つまらん」
それだけ言って、出ていった。
戸は、閉めていかなかった。
レオンは、開いたままの戸を見ていた。
追わなかった。
追えば、廊下で斬り合いになる。
斬り合えば、どちらかが死ぬ。
死ねば、理由が分からないまま終わる。
分かっていた。
分かっていて、それでも足が動かなかった理由は、別にあった。
レオンは、剣を鞘に戻した。
机の前に座った。
紙束が三つ、積んである。
一年近く前、山の中で焚き火を囲んだ。
肉を焼いていた。
食えと言われた。二口食べて止めた。
食えよ、お前その体でよく動くな、と言われた。
慣れた、と返した。
慣れるもんか、と返ってきた。
あのとき、楽だった。
隠すことが、何もなかった。
ノアには、過去を話すのに四年かかった。
セレスティアには、死にかけてから打ち明けた。
エレナには、見張られている。
クリスには、言えない。
あの男の前だけ、何も要らなかった。
黒い牙のことを知っている。呪具のことを知っている。十八のときに何をしていたかを知っている。
全部知っている相手だった。
だから、楽だった。
レオンは、紙束に手を置いた。
全部知っていたのは、当たり前だった。
自分が持っている書類が、全部それを言っている。
管理が仕事だと、本人が言った。
所在の把握も入ると言った。
レオンは、机に額をつけた。
つけて、しばらく動かなかった。
隠さなくていい相手だと思っていた。
隠す必要がなかったのは、向こうが全部知っていたからである。
知った上で、知らないふりをしていた。
一年近く、そうしていた。
五年前からだと言うなら、五年である。
レオンは、額を机につけたまま、息をしていた。
部屋の戸は、開いたままだった。
廊下から、風が入っていた。
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