第48話 まだ何かがおかしい
副王都に戻って、三日かけて書き出した。
紙に、分かったことを並べた。
一つ。五年前、帝国はレオンの生存を確かめ、村へ間者を入れた。
二つ。間者はケイン・ドレスラー。北の出、元猟師、二十で間者に転属。
三つ。報告は月に一度。五十八回。一度も欠けていない。
四つ。三年目にケインは引き上げを具申した。却下された。
五つ。却下の理由は「対象が最も幸福になる時まで待て」。
六つ。襲撃の直前、村の位置と防衛状況が別便で送られた。
七つ。襲撃当日、ケインがレオンを狩りに誘った。
レオンは、その七行を見ていた。
全部、本人が認めた。
証拠もある。
それでも、収まりが悪かった。
四日目の夜、エレナを呼んだ。
紙を見せた。
エレナは、上から下まで読んだ。
読み終えて、顔を上げた。
「よろしいですか」
「言え」
「四つ目と五つ目が、おかしいです」
レオンは、その二行を見た。
「どこがだ」
「その前に、一つ確認させてください」
エレナは、自分の荷から紙束を出した。
「帝国軍の間者の運用について、調べました」
「いつの間に」
「二十一日、押収文書を洗ったときにです。ついでに写しました」
机に広げた。
規定の写しだった。
「間者の運用には、定員があります」
「……」
「南方軍の間者定員は、四十二名です。五年前の数字です」
「少ないな」
「少ないです。王国も似たようなものです」
エレナは、紙を指した。
「そして、運用の規定があります」
「読め」
「一つ。同一対象に対する監視は、原則として三月で交代する」
レオンは、顔を上げた。
「理由は」
「顔が割れるからです。長くいれば、土地の者に顔を覚えられます」
「……」
「三月で交代すれば、間者は使い回せます。一人の対象に一人を固定すると、定員が減ります」
「ケインは、五年いた」
「五年です。交代していません」
エレナは、紙を置いた。
「四十二名のうち一名を、五年間、一つの村に置いたことになります」
部屋が、静かになった。
「それは」
レオンは、言いかけて止めた。
「異常か」
「異常です」
即答だった。
「南方軍の間者が、五年のあいだに関わった事案は、記録で百件を超えます。王国軍の動き、街道、糧秣、全部です」
「……」
「その中で、辺境の一つの村に、五年、一人を固定した」
エレナは、こちらを見た。
「誰かが、そうさせています」
レオンは、紙の四つ目を見た。
三年目に具申した。却下された。
「却下できる立場の者がいる」
「はい」
「軍の判断ならどうだ」
「軍は、却下しません」
エレナは、首を振った。
「軍の判断であれば、三年目に引き上げます。報告に価値がないからです」
「……」
「異常なしという報告が三十回続いた時点で、定員を他に回します。それが軍です」
レオンは、紙を見ていた。
「俺も、そうする」
「はい」
「俺が命令を出す側なら、引き上げる」
「そうでしょう」
「三月で戻す。半年で切る。三年も置かない」
レオンは、紙の五つ目を指した。
「この命令は、軍のものではない」
エレナは、頷かなかった。
代わりに、もう一つ言った。
「五つ目について、申し上げます」
「言え」
「対象が最も幸福になる時まで待て、という命令です」
「ああ」
「軍事的には、損しかありません」
レオンは、その言葉を待っていた。
「五年待つあいだに、対象は王国軍の上級士官になりました」
「なった」
「危険度が上がっています。早く処分した方が、確実です」
「そうだ」
「待てば待つほど、相手が強くなります」
エレナは、紙の端を押さえた。
「軍の判断なら、村に入って三月で殺します。寝込みを襲えば終わります」
「終わる」
「あのとき、あなたは剣を封じていました。甲冑も壊れていました」
「……」
「五年前なら、間者一人で殺せました」
レオンは、その事実を考えた。
五年前。
診療所で震えていた。歩くのにも時間がかかった。
あのころ、ケインが来ていれば、終わっていた。
ノアも、ミアも、生まれなかった。
村は焼けなかった。
「殺さなかった」
レオンはそう言った。
「はい」
「殺さずに、五年置いた」
「はい」
「そして、一番幸せなときに殺した」
エレナは、紙を見ていた。
「それは、軍の目的ではありません」
「……」
「軍は、対象を排除したいだけです。幸福かどうかは関係ありません」
「……」
「幸福である必要があったのは、命令を出した者です」
レオンは、両手を机に置いた。
「……なぜだ」
「分かりません」
エレナは、はっきり返した。
「ですが、一つだけ言えます」
「言え」
「これは、作戦ではありません」
翌日、レオンはもう一つを思い出した。
オズワルドである。
三月前、谷の小屋で聞いた話だった。
楔の図面を見せられ、寸法を出せと言われた。
断った。だから除籍された。
それでも楔は完成した。
寸法を知っているのは、二人だけだったという。
俺と、もう一人。
甲冑を着てた男だ。
お前だよ。
レオンは、自分の手を見た。
出していない。
一度も出していない。
オズワルドも出していない。五年我慢したと言った。
では、誰が出したのか。
甲冑の内側の寸法である。
肩の角度。胸当ての厚み。籠手の指の幅。
着ている者と、作った者以外で、それを知る方法が一つだけあった。
毎日、近くで見ることである。
五年、同じ部隊にいれば、分かる。
付け外しを見ていれば、分かる。
内側の留め具の位置も、見れば分かる。
レオンは、立ち上がった。
歩いて、窓の前で止まった。
黒い牙である。
部隊の人数は、十八人だった。
そのうち、五年前の裏切りの日に皇都にいた者は、一人もいない。
近衛だけが、玉座の間にいた。
黒い牙は、全員、前線にいた。
生き残りがいるはずだった。
レオンは、その十八人の顔を思い出そうとした。
思い出せなかった。
名前も、ほとんど出てこなかった。
部下を、覚えていなかったのだ。
仲間だと思ったことがない、と五年前に言った。
その通りだった。
一人だけ、顔が出た。
ディーターだった。
半年前に、自分の手で首を落とした男である。
他は、出てこない。
エレナが来たのは、昼だった。
「調べものを頼みたい」
「どうぞ」
「黒い牙の名簿だ」
エレナが、少し眉を動かした。
「五年前の、十八人だ。生死を知りたい」
「帝国の部隊の名簿は、押収文書にありません」
「どこにある」
「皇都です」
「……」
「南方軍の記録には、部隊名しか出てきません」
レオンは、机を見た。
「他に当たる方法は」
「元隊員に聞くしかありません」
「……」
「あるいは、同じ時期に帝国の軍にいた者です」
レオンは、その言葉で動きを止めた。
その日の夕方、伝令が来た。
北の戦線からである。
文は短かった。
西の街で合流したい。十日後。
署名はない。
代わりに、印の代わりの印があった。
二本の線を交差させただけの、簡単な印である。
五年前、黒い牙の中で使われていた符牒だった。
味方であることを示す、その場しのぎの印だった。
レオンは、その紙を見ていた。
ヴォルフからだった。
三月ぶりだった。
帝国の内側へ入ると言って、西の街で別れたまま、連絡が途絶えていた。
生きていた。
レオンは、その紙を畳んだ。
畳んでから、手を止めた。
黒い牙の名簿。
同じ時期に帝国の軍にいた者。
甲冑の内側を知る者。
五年前、同じ部隊にいて、同じ装備の中で動いていた者。
一人いる。
今、手紙を寄越した男である。
レオンは、紙を広げ直した。
二本の交差した線を、もう一度見た。
あの男なら、十八人の名前を覚えている。
部下を覚えていなかった自分と違って、あの男は覚えているだろう。
酒を飲みながら、誰がどうしたと話すような男だった。
聞けば、答える。
誰が寸法を出せる立場にいたか。
誰が生き残っているか。
誰が皇都の部門にいるか。
全部、聞ける。
レオンは、紙を懐に入れた。
「ヴォス」
「はい」
「十日後、西の街へ行く」
「誰と会われますか」
レオンは、少し考えた。
「戦友だ」
そう答えた。
エレナは、何か聞きたそうにした。
聞かずに、頭を下げた。
レオンは、窓の外を見ていた。
三月、連絡が途絶えていた男である。
帝国の内側に入って、生きて戻ってきた。
聞くべきことが、山ほどあった。
一人だけ、信用できる相手がいる。
そう思えることが、今は助かった。
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