第46話 裏切られた友情
三日、何も起きなかった。
村を出て、街道を北へ歩いた。
一日目は、何も考えなかった。
二日目も、同じだった。
飯を食い、宿を取り、朝になれば歩いた。
通りすがりの行商に道を聞かれ、答えた。
井戸の水を飲んだ。
三日目の昼に、麦畑の横を通った。
刈り入れが終わっていた。
切り株が並んでいる。
その上に、雀が十羽ほど降りていた。
落ち穂を拾っていた。
レオンは、足を止めた。
止めた理由は、分からなかった。
雀を見ていた。
一羽が飛んだ。
残りも飛んだ。
畑に、切り株だけが残った。
そこで、来た。
頭の芯が、熱くなった。
喉の奥が詰まって、息が入らなくなった。
手が震え始めた。
渇きの震えではなかった。
震え方が違う。
胃が上がってくる。
レオンは、街道の端に膝をついた。
吐かなかった。
出るものが、腹になかった。
代わりに、音が出た。
喉の奥から、低い音が出た。
歯を噛んでも、止まらなかった。
半年前、広場で出したものと同じ音だった。
あのときは、ケインが止めた。
今は、誰もいない。
麦畑の横で、一人だった。
レオンは、地面に手をついていた。
爪が、土に食い込んだ。
どれくらいそうしていたか、分からない。
立ち上がったとき、日が傾いていた。
その日の夜、宿に入った。
旧王都の手前の、小さな宿である。
部屋は二階だった。
床に荷を置いた。
剣を壁に立てかけた。
座ろうとして、座らなかった。
壁を見た。
木の壁である。板が縦に並んでいる。
レオンは、その前に立った。
右の拳を握った。
殴った。
音がした。
板が鳴った。
二度目。
三度目。
四度目で、何かが割れた。
板ではなかった。
手だった。
人差し指と中指の根元が、裂けた。
血が出た。
レオンは、その手を見た。
痛かった。
はっきり痛かった。
甲冑はない。剣も抜いていない。
だから、痛みが来る。
痛みが来ることに、少し救われた。
救われたと思ったことに、自分で驚いた。
五度目を殴ろうとして、やめた。
やめたのは、階下から足音が聞こえたからだった。
宿の主人が上がってきた。
戸を叩かれた。
「お客さん、何か」
「すまない」
「壁、大丈夫ですかね」
「壊していない」
「……そうですか」
足音が降りていった。
レオンは、床に座った。
手から、血が滴った。
床板に落ちた。
落ちた跡を、見ていた。
五年を、思い出し始めた。
やめようとしても、始まった。
九話。
道場の柵の外に、男が立っていた。
あんたが噂の先生か、と言った。
稽古に加わりたい、と言った。
あれは、接触だった。
近づく口実が要ったのだ。
十話。
森で王女を助けた。
あの男は、矢を二本射た。
右の男の手。左の男の足。
助けた。確かに助けた。
そして帰り道に言った。
厄介なことになったな、と。
あれは、報告すべき事案だと判断したのだ。
王国軍が接触してきた、と書いたのだろう。
十二話。
出立の前夜、干し肉の包みを渡された。
ノアとミアのことも頼む、と言った。
言われなくても、様子は見に行くさ、と返された。
見に行った。
毎月、見に行った。
書くために。
ミアを抱いた日。
ぎこちない手つきで、それでも様になっていた。
子供は苦手じゃないのか、と聞いた。
俺も、人には言えないことの一つや二つ、あるからな、と返された。
あのとき、目の奥に違う色が見えた。
見間違いだと思った。
思うことにした。
レオンは、床の血を見ていた。
二十一話。
灰の中に座っていた。
隣に、あの男がいた。
二日、何も言わずに座っていた。
水を置いた。干し肉を置いた。
受け取らなければ、また置いた。
二十二話。
墓を掘った。
手を貸そうとして、断られた。
断られても、村の方の遺体を運び続けた。
五十三人、数えた。
数えたのは俺だ、と言った。
そして半年、小屋を建てて住んでいた。
誰かいないと、猪が墓を掘る。
そう言った。
レオンは、両手で頭を抱えた。
どれも、二通りに読める。
全部、二通りに読める。
近づいたのは任務だった。
だが矢は本当に射た。
報告は書いた。
だが干し肉は渡した。
毎月見に行った。
その手で、ミアを抱いた。
墓を掘った。
掘る必要は、どこにもなかった。
任務は、襲撃で終わっている。
報告する対象は、死んだ。
それなのに、半年住んだ。
猪を追い払った。
レオンは、歯を噛んだ。
どちらかであってほしかった。
全部嘘か、全部本当か。
どちらかなら、整理がつく。
嘘なら憎める。
本当なら、こんなことになっていない。
混ざっている。
混ざっているから、どこにも置けない。
死者は、奪われただけだった。
これは違う。
五年が、形を失っていく。
幸せだった記憶が、一つずつ、二通りに割れていく。
割れたものは、元に戻らない。
翌朝、エレナが宿に来た。
旧王都で合流する手筈だった。
部屋に入って、床の血を見た。
それから、レオンの手を見た。
「見せてください」
「いい」
「見せてください」
二度目で、出した。
エレナは、荷から布と水を出した。
洗った。
しみた。
「縫いますか」
「いい」
「化膿します」
「構わない」
「構います」
そう返して、針を出した。
三針だった。
レオンは、縫われるあいだ黙っていた。
縫い終わって、エレナが布を巻いた。
「壁ですか」
「ああ」
「何度ですか」
「四度だ」
「五度目は」
「やめた」
エレナは、布の端を結んだ。
「やめられたのですね」
レオンは、その言葉で顔を上げた。
「宿の者が上がってきただけだ」
「それでも、やめました」
エレナは道具を片付けた。
「以前のあなたなら、十度殴っています」
「……」
「以前というのは、半年前です」
レオンは、巻かれた手を見ていた。
「報告を」
エレナが言った。
レオンは、口を開いた。
「トーレス・ヘイグは、帝国の間者だった」
「はい」
「本名はケイン・ドレスラー」
「はい」
「五年、毎月報告していた。本人が認めた」
「はい」
エレナは、驚かなかった。
二十一日かけて押収文書を洗ったのは彼女である。
記号の照合も、彼女がやった。
名簿の一致も、彼女が見つけた。
「どうされましたか」
「出ていけと言った」
「捕らえなかったのですか」
「捕らえなかった」
「斬りませんでしたか」
「斬らなかった」
エレナは、少し黙った。
「なぜです」
レオンは、答えを探した。
三日、探していた。
「……手が動かなかった」
「はい」
「抜けば、終わると思った」
「終わると」
「五年が、嘘だったと決まる」
エレナは、床の血を見ていた。
「今は、どうですか」
「……」
「今は、どう思っていますか」
レオンは、巻かれた手を握った。
握ると、痛んだ。
「殺したい」
初めて、そう口にした。
言ってから、もう一度言った。
「殺したい」
エレナは、こちらを見た。
責めなかった。
励ましもしなかった。
「はい」
そう返しただけだった。
副王都に着いたのは、四日後だった。
セレスティアに報告した。
事実だけを伝えた。
彼女は、最後まで口を挟まなかった。
聞き終えて、しばらく机を見ていた。
「捕らえますか」
そう聞いた。
「軍で動かせます。帝国の間者であれば、手続きは要りません」
レオンは、答えに詰まった。
捕らえれば、裁きにかかる。
裁きにかかれば、処刑される。
それが正しい手順だった。
「……いえ」
「なぜです」
「……」
答えが、出なかった。
セレスティアは、それ以上押さなかった。
代わりに、引き出しを開けた。
紙を出した。
剣の記録である。
三枚になっていた。
「一つ、伺います」
「はい」
「あなたは、その方を殺したいのですか」
レオンは、彼女の顔を見た。
嘘をつく場面ではなかった。
「殺したいです」
はっきり、そう答えた。
セレスティアは、頷いた。
そして、紙にペンを入れた。
日付を書いた。
その横に、短く記した。
殺意、一件。
レオンは、その文字を見た。
「殿下」
「はい」
「それも、数えるのですか」
「数えます」
彼女は、ペンを置いた。
「剣を使った回数を数えてきました。二百三十七から始めて、今は四百五十四です」
「……」
「ですが、使った回数だけでは足りないと、途中で気づきました」
紙を引き出しに戻した。
「使おうと思った回数を、数えるべきでした」
「……」
「今日から、そちらも書きます」
レオンは、何も返せなかった。
引き出しが閉まる音がした。
宿に戻ったのは、夜だった。
手の傷が、脈に合わせて痛んだ。
レオンは、寝台に座っていた。
座って、考えていた。
四日前、言うなと三度言った。
聞きたくなかった。
聞けば、五年に順番がつくからだった。
今は、違う。
もう割れている。
三日かけて、自分で割った。
割れたものを、二通りのまま持っているのが一番きつい。
どちらかに決まった方が、まだ楽になる。
決めるには、聞くしかない。
レオンは、壁に立てかけた剣を見た。
抜く気は、まだなかった。
いや。
あった。
あるから、聞きに行くのだろうと思った。
レオンは立ち上がった。
荷をまとめ始めた。
村へ戻る。
言うなと言った男に、話せと言いに行く。
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