第42話 最も近い場所で
名前がなくなったので、条件から洗い直すことにした。
宿の机に紙を広げた。
書いたのは、四つだった。
一つ。カルム村の正確な位置。
二つ。村の中での、俺の家の場所。
三つ。村の防衛が最も薄くなる時刻。
四つ。俺が村を離れる日と、その時刻。
レオンは、その四行を長く見ていた。
四つ全部を知っていた者が、売った。
三つでは足りない。四つ揃わなければ、あの日の襲撃にならない。
軍の人間は、四つ目を知っている。視察の日程は書類で回った。
だが一つ目から三つ目を知らない。村に来た者がいない。
村の人間は、一つ目から三つ目を知っている。
だが四つ目を知らない。帰郷の日程は、村には伝えていない。
いや。
レオンは、そこで手を止めた。
伝えていないわけではない。
着いた日に、村総出で迎えられた。
三日前から待っていたと、村長が言った。
知らせが来てからな、と。
つまり、帰る日は村に伝わっていた。
出る日は伝えていない。
だが、村にいれば分かる。
朝、狩りに出れば、誰でも見ている。
四つ揃う立場は、二つあった。
一つ。軍にいて、村に来た者。
二つ。村にいて、軍の日程を知った者。
レオンは、一つ目から洗った。
軍の名簿は、エレナが持ってきた。
「視察の書類を扱った者です」
机の上に置かれた紙束は、思っていたより厚かった。
「何人いる」
「百四十二人」
「多いな」
「書類は回ります。上官、副官、書記、糧秣、馬、宿。全部に写しが行きます」
レオンは紙束を開いた。
名前が並んでいる。
階級と、所属と、生死。
死んだ者には印がついていた。王都が落ちたときに、三十一人が死んでいる。
「生きているのは」
「百十一人です」
「そのうち、村に来た者は」
「おりません」
エレナは即答した。
「全員、記録を追いました。あの半月の間に、南へ行った者はいません」
「一人もか」
「一人もです」
レオンは紙束を閉じた。
「もう一度、調べてくれ」
「調べました」
「もう一度だ」
エレナは、少し黙った。
「……はい」
三日後、同じ答えが来た。
「おりません」
「分かった」
「レオン殿」
「なんだ」
「一つ、申し上げます」
エレナは紙束を机に置いた。
「この中に、ベルガーの名があります」
レオンは顔を上げた。
「ヨナス・ベルガー。視察の護衛として、書類を見ています」
「……死んだ」
「死にました。あなたの家の戸口で」
「分かっている」
「それでも、名簿に残っています」
エレナは紙をめくった。
ヨナスの名に、印がついている。
死亡の印だった。
「調べましたか」
レオンは黙っていた。
黙るしかなかった。
調べていた。
三日前、名簿を最初に開いたとき、その名を見た。
見て、一度だけ考えた。
この男が、村のことを誰かに話した可能性はないか。
考えてしまった。
半刻、考えた。
半刻後に、やめた。
やめたのは、根拠が出たからではない。
畑の絵を思い出したからだった。
血で半分見えなくなった紙を、今も懐に入れている。
それを思い出して、やめた。
「……考えた」
レオンは、そう認めた。
「半刻だけ考えて、やめた」
エレナは、紙束を閉じた。
「私も、考えました」
「お前が」
「はい」
「誰を」
「あなたを」
レオンは、エレナの顔を見た。
「あなたが、どこかで自分の村のことを話した可能性です。酒の席か、報告か、どこかで」
「……」
「調べました。該当がありません」
エレナは紙束を抱えた。
「疑って、申し訳ありません」
「いや」
「ですが、申し上げておきます」
彼女は一度、頭を下げた。
「私は、死んだ者も疑いました。ベルガーの名も、二度洗いました」
「……」
「役目だからです。ですが、気分のいい仕事ではありません」
そう言って、出ていった。
レオンは、机に残った紙を見ていた。
名簿の上に、自分が書いた四行がある。
軍にはいない。
つまり、二つ目である。
村にいて、軍の日程を知った者。
村へ向かったのは、その翌日だった。
六日かかった。
着くと、小屋から煙が上がっていた。
トーレスが、薪を割っていた。
「来たか」
斧を置いた。
「飯は」
「いい」
「食え。顔が悪い」
食べた。
薄い汁だった。
食べながら、レオンは四行を書いた紙を出した。
渡した。
トーレスは、それを読んだ。
読むのに、時間をかけた。
「四つか」
「四つだ」
「揃わなきゃ、あの日にならん」
「そうだ」
「軍は」
「洗った。村に来た者はいない。百十一人、全員だ」
トーレスは紙を膝に置いた。
「じゃあ、村側だな」
「そうなる」
「面倒な話だ」
そう言って、立ち上がった。
小屋に入って、何かを持って出てきた。
板だった。
炭で、線が引かれている。
レオンは、それを見た。
村の地図だった。
「作っておいた」
トーレスは板を板の上に立てた。
「お前が来ると思ってたからな」
板の上に、村があった。
街道。井戸。広場。酒場。診療所。道場。家の並び。
一軒ずつ、四角が描かれている。
「五十七戸だ。全部書いた」
「……よく覚えているな」
「半年、ここで寝てる」
トーレスは板を指した。
「歩けば分かる。焼けても、土台は残ってる」
レオンは板を見ていた。
正確だった。
自分の家の位置も、道場の位置も、合っている。
「道場は、ここだ」
トーレスの指が、井戸の裏を指した。
「街道からは見えん。見えんから、よそ者は見つけられん」
レオンの指が、動いた。
密書の六行目と、同じ言い方だった。
自衛の教習所は村の南寄り、井戸の裏。街道からは見えず。
同じことが、三月前にも書いてあった。
そして半年前、この男が同じことを言った。
道場は外から見えない、知ってなきゃ行けない場所だと。
レオンは、板を見ていた。
見て、何も思わなかった。
同じ村を見ている二人が、同じことを言っているだけだった。
「で、村の誰だ」
トーレスが聞いた。
「分からない」
「心当たりは」
「ない」
「じゃあ、こっちから詰めるか」
トーレスは板の横に座った。
「四つ目だ。お前が村を出る日を知ってた村の人間は、誰だ」
レオンは、考えた。
考えたことは、六日かけて三度やっている。
「ノアだ」
「ああ」
「ミアは分からない。四歳だ」
「分からんな」
「義父母。アルブレヒトとマルタ」
「二人も知ってたな」
「そして」
レオンは、そこで止まった。
「俺だ」
トーレスが先に言った。
自分から言った。
「前の晩に、俺が誘ったんだからな」
レオンは、その顔を見た。
トーレスは、火を見ていた。
「他には」
「いない」
「じゃあ、五人だ」
トーレスは指を立てた。
「奥さん。娘。義父母。俺」
「……そうだな」
「四人は死んだ」
「ああ」
「残ってるのは、俺一人だ」
そう言って、こちらを見た。
「俺を疑うか」
レオンは、その目を見た。
半年前、灰の中で隣に座っていた目だった。
二日、黙って隣にいた。
墓を掘るのを手伝おうとして、断られて、それでも離れなかった。
半年、猪が墓を掘らないように、ここに住んでいる。
「疑わない」
レオンは、そう返した。
「そうか」
トーレスは、枝を火に入れた。
「疑えよ」
「……」
「俺だって、お前の立場なら疑う」
「疑わない」
「頑固だな」
火が、跳ねた。
「まあいい」
トーレスは膝を抱えた。
「なら、村の人間じゃねえってことになる」
「なぜだ」
「村の人間は、全員死んだ」
レオンは、火を見ていた。
「五十三人だ。数えたのは俺だ」
「……ああ」
「残ったのは、年寄り二人、女二人、子供二人、それとハンス」
「七人」
「七人と、俺だ」
レオンの指が、少し動いた。
「……八人か」
「そうだな」
トーレスは、火を見たままだった。
「八人だ」
レオンは、その数を頭の中で直した。
七人ではなく、八人。
数が一つ増えた。
数が一つ増えただけだった。
それ以上、何も思わなかった。
「軍にもいない。村にもいない」
トーレスが言った。
「じゃあ、どこにいる」
レオンは火を見ていた。
答えが、ない。
「一つ、思いついたことがある」
トーレスが枝を折った。
「軍の中に、村の出の奴はいないか」
レオンは顔を上げた。
「村の出」
「カルム村じゃなくていい。近くの村でもいい」
「……」
「村のことを知ってて、軍の書類も見られる。そういう立場だ」
理屈が通っていた。
「調べる」
「そうしろ」
トーレスは火に枝を足した。
「百十一人、もう一度洗うんだな」
「洗う」
「大変だな」
「構わない」
その夜、レオンは小屋の外に座っていた。
墓の前である。
六つの盛り土が並んでいる。
菩提樹の葉が、風に鳴っていた。
レオンは、自分の手を見ていた。
今日、一人の名前を疑った。
死んだ男の名前だった。
戸口で盾になって、背中から腹まで貫かれた男である。
春に式を挙げるはずだった。
畑の絵を持っていた。
その名前を、半刻疑った。
五年前、診療所でノアに言われたことを思い出した。
隠したまま、いい顔だけしている人より、よほど信じられる。
あのとき、この女は自分を信じた。
何も知らないまま信じた。
今の自分は、何をしているのか。
知っている人間を、全員疑っている。
ヨナスを疑った。
エレナも、名簿に名があれば疑っただろう。
セレスティアも、いつか疑うかもしれない。
ノアがくれたものの、逆をやっている。
はっきり、そう思った。
思って、やめようかと考えた。
考えて、やめられないと分かった。
調べることをやめたら、何も残らない。
名前がない。目的がない。
残るのは、渇きだけだ。
渇きと二人で座っていられるほど、自分は強くない。
四日前、そうだった。
三月前も、そうだった。
だから、調べ続ける。
レオンは立ち上がった。
小屋の中で、火が小さくなっていた。
トーレスは、もう寝ている。
その寝息を聞きながら、レオンは思った。
この男がいてよかった。
半年、一人ではなかった。
それだけが、まだ残っている。
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