第40話 小さな違和感
砦を出たのは、夜明けだった。
胸の傷は深い。歩けはするが、荷を担ぐと開く。
破片を集めるのに、半刻かかった。
石畳に散ったものを一枚ずつ拾った。胸当ての半分。肩。籠手。兜の縁。
五年前と、同じ形で壊れていた。
布に包むと、三月前と同じ重さになった。
レオンは、それを担いで歩き出した。
旧王都の手前で、馬に会った。
二頭いた。
前の馬に乗っていたのは、エレナだった。
「レオン殿」
降りてきた。
早足で近づいてきて、三歩の距離で止まった。
布包みを見た。
それから、胸を見た。
血が、服の前を黒くしていた。
「乗ってください」
「歩ける」
「乗ってください」
二度目の声が、少し低かった。
レオンは乗った。
旧王都の宿で、傷を縫われた。
縫ったのはエレナだった。手つきは慣れていた。
「どこで覚えた」
「軍です。医者が足りない日は、副官がやります」
針が、三度入った。
痛かった。
痛いことに、まだ慣れていなかった。
三月、痛みがなかった。
縫い終わって、エレナが器具を片付けた。
そして、机の上の紙を置いた。
四日前、宿を出るときに置いた紙である。
四日後の夜、旧王都北の砦。
それだけ書いてある。
「これを見つけたのは、翌日の昼でした」
「……」
「間に合いませんでした」
「間に合わなくていい」
「間に合わせるのが、私の役目です」
エレナは紙を折った。
「なぜ一人で行かれたのですか」
「お前が来るからだ」
「来ます」
「来れば、お前が死ぬ」
「死にません」
「相手は将軍だ」
「それでも、死にません」
エレナは紙を懐に入れた。
「私は、見る役目です。見られない場所で何が起きたかは、記録できません」
「……そうだな」
「報告してください」
レオンは、天井を見た。
「甲冑が壊れた」
「見ました」
「閣下は生きている。腿を斬った」
「他には」
「とどめを刺さなかった」
「刺せなかったのですか」
レオンは、少し間を置いた。
「刺そうとした」
「……」
「腕が、下がらなかった」
エレナは何も言わなかった。
「止めたのは閣下だ。俺じゃない」
「……はい」
「記録しろ」
「します」
翌日、エレナが紙を広げた。
机の上である。レオンは寝台に座っていた。
広げたのは、密書だった。
「一つ、申し上げます」
エレナが言った。
「七日前に、言いかけたことです」
レオンは顔を上げた。
「三月前です。この密書を見せられたとき、私は一点だけ引っかかると言いました」
「言った」
「あなたは遮りました」
「……そうだったな」
「今なら、聞いていただけますか」
レオンは頷いた。
エレナは、密書の四行目を指した。
「ここです」
常設の兵はない。自衛の組織が一つ。指導者は剣術の教授者で、元帝国兵の疑いあり。
「この一文です」
「どこがおかしい」
「二つあります」
エレナは指を動かした。
「一つ。自衛の組織があり、指導者が剣術を教えていると書いてあります。これは村の外から分かりますか」
レオンは考えた。
「……分かる。狩りに出れば見られる」
「では、こちらは」
指が六行目に移った。
自衛の教習所は村の南寄り、井戸の裏。街道からは見えず。
「道場の位置です」
「……」
「街道から見えないと、この紙に書いてあります」
エレナは顔を上げた。
「見えない場所を、どうやって書いたのでしょうか」
レオンは答えられなかった。
「村の中に入った者が書いています」
「……帝国の間諜が入ったのかもしれない」
「入ったでしょう。問題は、誰の指示でかです」
エレナは机に手をついた。
「二つ目を申し上げます」
もう一度、四行目を指した。
「元帝国兵の疑いあり」
「……」
「誰が疑っていたのですか」
レオンは、その言葉で動けなくなった。
「村の方々は、あなたを元帝国兵だと疑っていましたか」
「……いや」
「一人も」
「一人もだ」
五年、誰にも疑われなかった。
王都の知人の息子だと、アルブレヒトが経歴を作った。
村人はそれを疑わなかった。
「では、この紙を書いた者は、村の誰よりもあなたを正しく見ていました」
「……」
「村の中に入り、道場の位置を知り、あなたを元帝国兵だと疑った者です」
エレナは手を下ろした。
「閣下は、村に来ていません」
「……部下を送ったのかもしれない」
「送れます」
エレナは認めた。
「ですから、これは証拠になりません。ただ、不自然だと申し上げています」
その日の午後、もう一つが出てきた。
エレナが持ってきたのは、台帳の写しだった。
「西の街の兵站部です。王都奪還の後、王国軍が一度押さえました。そのときに台帳を写しています」
「何の台帳だ」
「押収品の記録です」
レオンは身を起こした。
「この密書は、帝国が押収した王国の文書に混じっていたと伺いました」
「そう聞いた」
「台帳を調べました」
エレナは紙を机に置いた。
「王国の文書が入った記録が、ありません」
部屋が、静かになった。
「一枚もか」
「一枚もです」
「……倉は整理されていないと聞いた」
「整理されていなくても、台帳はあります」
エレナは紙を指した。
「入ったものは、必ず書かれます。出したものも書かれます。整理されていないのは、置き方です」
「……」
「置き方が雑でも、入ったという記録は残ります」
レオンは台帳の写しを見た。
日付と品名が並んでいる。
武器。糧秣。被服。帳簿。
王国の文書という項目はなかった。
「書き忘れたのかもしれない」
レオンはそう言った。
エレナが、少し黙った。
「……それも、あり得ます」
そう答えた。
「倉の担当は書き忘れます。珍しいことではありません」
「だろう」
「はい」
エレナは台帳を畳んだ。
畳みながら、一度だけこちらを見た。
何か言いたそうだった。
言わなかった。
レオンは、それに気づかなかった。
三日後、副王都から報せが来た。
セレスティアの調べの結果だった。
ゴードウィンの周辺を、二月かけて洗っていた。
結果は、四つだった。
一つ。帝国との金の動きがない。将軍府の出納に不明な項目はない。
二つ。カルム村の襲撃前後、ゴードウィンは王都にいた。将官十一人の証言がある。
三つ。村襲撃の作戦に関与した痕跡が、帝国側の記録にもない。
四つ。そして、あの男は何も隠していない。
報告書の最後に、セレスティアの字で一行あった。
将軍は、公務を続けておられます。
レオンは、その一行を長く見ていた。
その夜、エレナが言った。
「一つ、伺ってよろしいですか」
「言え」
「将軍が黒幕なら、なぜあなたを生かしたのでしょう」
レオンは答えなかった。
「四日前、あなたは膝をつかせました。将軍は膝をついていた。そこで試作兵器を出した」
「……ああ」
「あの距離なら、甲冑ではなく首に撃てました」
「……」
「撃てば終わりです。黒幕なら、終わらせるでしょう」
レオンは、胸の傷に手を当てた。
縫った糸が、そこにある。
「なぜ、甲冑だけを壊したのでしょうか」
答えは、持っていなかった。
四日前、あの男は言った。
今日は、お前に会いに来たのではない。黒い甲冑に、会いに来た。
甲冑に会いに来た。
人ではなく、甲冑に。
そして甲冑だけを壊して、帰った。
「……分からない」
レオンはそう言った。
「分からないが」
「はい」
「黒幕の動きではない」
言ってしまった。
言ってから、胸の中が冷たくなった。
三月前、墓の前で言った。
ゴードウィンを殺す。
半年かけて、初めて口にした誓いだった。
あれが、違っていたら。
エレナが出ていった後、レオンは一人になった。
寝台に座っていた。
机の上に、密書がある。
三月前、これを見たときに楽になった。
殺す相手が決まったからだ。
胸の中が冷たくて、その冷たさが形を持っていた。掴める形だった。
今、その形が崩れかけている。
崩れると、空白が残る。
レオンは、その空白を知っていた。
半年前、灰の中で座っていたときのものだった。
何も入っていない状態である。
あのときは、四日耐えた。
今は、耐えられる気がしなかった。
体が違う。
喉の奥が、渇いていた。
甲冑は壊れた。剣は手元にある。
抜く理由が、なくなりかけている。
理由がなくなれば、抜かずに済む。
それは、いいことだった。
いいことのはずだった。
レオンは、腰の剣を見た。
渇きが、濃くなっていた。
抜く理由がないから、濃くなっている。
そして、一つの問いが浮かんだ。
浮かんだ瞬間に、答えを出したくないと思った。
出したくないので、声に出した。
声に出せば、頭の中から追い出せる気がした。
「……もし将軍じゃなかったら」
誰もいない部屋だった。
「俺はこの数ヶ月、誰を殺してきたんだ」
答える者は、いなかった。
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