第39話 将軍との対峙
手紙が来たのは、三日後だった。
差出人の名はない。印だけが押してあった。
王国軍将軍府の印である。縁に欠けがある、本物の印だった。
中身は二行だった。
旧王都北の砦、四日後の夜。
一人で来い。
レオンは、その紙を二度読んだ。
罠だと思った。
思ってから、どちらが罠を張っているのか分からなくなった。
エレナには伝えなかった。
伝えれば、来ると言う。
セレスティアにも伝えなかった。
伝えれば、止められる。あるいは、軍を動かされる。
どちらも都合が悪かった。
出る前に、宿の机に紙を一枚置いた。
四日後の夜、旧王都北の砦。
それだけ書いた。
見つかるのは、早くても翌日になる。
それでいい、と思った。
砦には、四日目の夕方に着いた。
旧王都の北にある、小さな石の砦である。
一年前の戦で落ち、放棄されたまま残っていた。
屋根は半分落ちている。壁に穴が三つ開いている。
人の気配はなかった。
レオンは中庭に入り、荷を下ろした。
布を解いた。
胸当てを取る。留め具を締める。肩を乗せる。籠手をつける。脛当てをつける。
最後に兜を被った。
金属が噛み合う音が、空の砦に響いた。
感覚が、遠くなった。
石の冷たさが消えた。風の音が、半分になった。
三度目だった。
三月前、オズワルドの小屋で。六日前、町の門の前で。そして今。
三度目は、もう何も思わなかった。
日が落ちて、足音がした。
一人だった。
中庭に入ってきたのは、初老の男だった。
ヴィクター・ゴードウィン。
鎧は着ていない。革の胴着だけである。腰に剣が一本。
護衛はいない。
「来たか」
ゴードウィンはそう言った。
レオンを見て、足を止めた。
兜の奥を、しばらく見ていた。
「黒いな」
「はい」
「噂は本当だったか」
「どの噂です」
「城門を一人で開けた男が、黒い甲冑を着ていたという話だ」
ゴードウィンは庭の中央まで来た。
「六年前から、その色を探していた」
レオンは、その言葉を聞いた。
六年前。
クリスの兄が死んだ年だった。
「閣下」
「なんだ」
「これを、ご存じですか」
レオンは懐から紙を出した。
四つに折られた、古い紙である。
半年前、ヴォルフが帝国の倉から持ち出したものだった。
広げて、差し出した。
ゴードウィンは受け取った。
火はない。月の明かりだけである。
それでも、老人は読んだ。
十二行を、上から下まで読んだ。
読み終えて、顔を上げた。
「私の印だ」
「はい」
「筆跡も、私のものだろう」
「照合しました。一致します」
「そうか」
ゴードウィンは紙を折り直した。
折って、こちらへ返した。
「それで」
「それだけですか」
「何を言えばいい」
レオンは紙を受け取らなかった。
「書いたのか、と聞いています」
ゴードウィンは紙を下ろした。
「答えん」
「なぜです」
「答える義務がない」
「村が焼かれました」
レオンの声が、兜の中で響いた。
「五十三人死にました。俺の家族が、四人」
「知っている」
「その紙に、俺の家の場所と、俺が村を離れる日が書いてあります」
「読んだ」
「書いたのか、と聞いています」
ゴードウィンは、しばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「説明できんことがある」
「それは答えではありません」
「答えではない」
老人は認めた。
「だが、それ以上は言わん」
レオンの手が、柄に行った。
「言わないのですか」
「言わん」
「なら」
「抜け」
ゴードウィンが先に剣を抜いた。
「そのために呼んだ」
最初の一合で、分かったことが二つあった。
一つ。この老人は、強い。
王国で五人に入ると言われていた。入っている。四十年の剣だった。
二つ。魔法を使わない。
つまり、甲冑の魔法耐性が意味を持たない。
そして三つ目に気づくのに、少しかかった。
一騎打ちだった。
相手は一人である。
斬っても、入ってくる生命が一人分しかない。
斬る前に強くなることはできない。
五年前、城門の内側では五十人がいた。六日前の町では二百十七人がいた。
数が多いほど有利になる剣だった。
今は、一人だった。
二合目で、レオンの肩に剣が入った。
甲冑が受けた。通らない。
三合目で、こちらが踏み込んだ。
胴を狙う。外された。
ゴードウィンは退がらない。横へ回る。
四十年の足の運びだった。
四合目、五合目。
黒い刃を飛ばした。
当たらなかった。
当たる前に、位置を変えられている。
「飛ばすのか」
ゴードウィンが言った。
「六年前の記録にも、そう書いてあった」
レオンは答えなかった。
答える余裕が、なかった。
半刻を過ぎた。
レオンの体が、少し重くなっていた。
理由は分かっていた。
殺していない。
甲冑は、殺し続けなければ着ている者の命を削る。
削られているのは、自分だった。
一人も斬っていないのに、消耗している。
これが代償だった。
五年前は、気づかなかった。
気づく必要がなかった。常に誰かを殺していたからだ。
「息が上がったな」
ゴードウィンが言った。
こちらも息をしている。だが、まだ立っている。
「その鎧は、長くは着られんのだろう」
レオンの動きが、一瞬止まった。
「……なぜ、それを」
「六年、調べていた」
老人は剣を構え直した。
「来い」
一刻を過ぎたころだった。
レオンが押し切った。
押し切れた理由は、技量ではない。
甲冑が傷を塞ぎ続けたからだった。
三度斬られた。三度とも、数えるうちに塞がった。
ゴードウィンは一度斬られた。
塞がらなかった。
左の腿である。
そこから動きが落ちた。
レオンは踏み込んだ。
剣を弾き上げた。
老人の手から、剣が離れた。
石畳を跳ねる音がした。
ゴードウィンが膝をついた。
左の腿が持たなかったのだろう。片膝のまま、こちらを見上げた。
レオンは、剣を上げた。
そこで、気づいた。
腕が、止まらない。
下ろすつもりだった。
いや、下ろすつもりだったのかどうか、分からない。
剣は上がっている。
上げたのは自分である。
次の動作は、一つしかない。
上から下へ。
それだけだった。
息が、兜の中で大きく鳴った。
俺はまた、殺そうとしている。
はっきりと、そう思った。
思ったのに、腕が下がらない。
上げたまま、止まっている。
止まっているのは、迷いではなかった。
振り下ろす準備が終わって、合図を待っている状態だった。
誰の合図だ。
自分の、だ。
レオンは、歯を噛んだ。
噛んでも、腕が動かない。
下へも、下がらない。
「……お前は」
膝をついた男が、口を開いた。
「本当に、昔のままだな」
レオンの腕が、そこで一度揺れた。
「六年前の記録に、同じことが書いてある」
ゴードウィンは、こちらを見上げていた。
怯えていなかった。
「倒した相手に、すぐとどめを刺さん。少し待つ。待ってから、落とす」
「……」
「相手の顔を見るためだ、と証言があった」
レオンは、兜の中で目を閉じた。
六年前。
砦の前。
折れた剣を構え直した男の顔を、兜の奥から見下ろした。
何か言おうとしていた。
口だけが動いていた。
聞かなかった。
聞く気がなかった。
そして、笑った。
今、同じ姿勢で立っている。
「殺せ」
ゴードウィンが言った。
「お前がそういう男だったことくらい、私は知っている」
レオンの腕が、動いた。
下へ動いた。
止めたのは、自分の意志だったかどうか分からない。
刃が、老人の肩の上で止まった。
一寸もない距離だった。
ゴードウィンは、動かなかった。
「それでいい」
老人がそう言った。
そして、左手を腰の後ろへ回した。
レオンは、その動きを見ていた。
見ていたが、反応しなかった。
剣を止めることに、全部を使っていた。
ゴードウィンの手が、革の鞘から何かを抜いた。
短い。
弩ではなかった。
一尺ほどの筒である。片側に取っ手がつき、片側に黒い杭が見えていた。
「名はない」
老人はそれを構えた。
「試作が三本あるだけだ」
レオンは、それを知っていた。
形が違う。だが、中身は同じものだった。
五年前、皇都の玉座の間で浴びたものである。
「それは」
「王国のものだ」
ゴードウィンは引き金に指をかけた。
「六年前から作っていた。お前のためにな」
杭が放たれた。
距離は、一歩だった。
甲冑が光った。
跳ね返すために光った。
跳ね返らなかった。
胸当ての中央に、黒い杭が食い込んだ。
音は、骨まで届いた。
五年前と同じ音だった。
胸当てに、縦の亀裂が走った。
走って、広がった。
肩の留め具が、内側から外れた。
籠手が割れた。
兜の縁が、裂けた。
音が、重なって落ちた。
鉄の破片が、石畳に散った。
レオンは、膝をついた。
胸が熱い。
熱くて、そこから感覚が戻ってきた。
石畳の冷たさ。
風の音。
腿に受けた傷の痛み。
全部、一度に戻ってきた。
痛かった。
痛みを感じるのが、三月ぶりだった。
ゴードウィンは、立ち上がっていた。
杖のように剣を使って、立っていた。
筒を捨てる。
「残りは二本だ」
そう言った。
「二本しかない。だから一本は、お前に使った」
レオンは、石畳に手をついていた。
散った破片が、手のそばにあった。
三月かけて打ち直したものだった。
三日耐えて、纏ったものだった。
「レオン殿」
「……」
「言っておく」
ゴードウィンは、こちらを見下ろしていた。
「私を殺したければ、来い」
「……」
「だが次は」
老人は、足を引きずりながら背を向けた。
「お前が何者かを話してからにしろ」
足音が、遠ざかっていった。
門を出る前に、一度止まった。
「それと、一つ」
「……」
「今日は、お前に会いに来たのではない」
レオンは顔を上げられなかった。
「黒い甲冑に、会いに来た」
それだけ言って、足音は消えた。
砦に、誰もいなくなった。
レオンは、石畳に座っていた。
胸の傷から、血が出ている。
塞がらない。
甲冑が壊れたからだった。
破片が、足元に散っている。
胸当ての半分。肩。籠手。
五年前と、同じ形で壊れていた。
レオンは、その一枚を拾った。
縁が、黒く焼けている。
拾ってから、気づいた。
胸の中に、一つの感情があった。
それが何なのかを、確かめた。
安堵だった。
壊れてよかった、と思っていた。
息が、楽になっていた。
重さが、肩から消えていた。
痛みが戻ってきて、そのことが嫌ではなかった。
壊れてくれて、よかった。
そう思っていた。
レオンは、破片を握った。
握って、理解した。
これは、自分で止められなかったという意味だった。
三月かけて直した。三日耐えて纏った。全部自分で選んだ。
そして今、壊れて安堵している。
自分では脱げなかったのだ。
脱がせたのは、他人の手だった。
六年前から自分を殺すために武器を作っていた、この国の将軍の手だった。
レオンは、破片を見つめた。
胃が、上がってきた。
石畳に手をついて、吐いた。
三月前と同じだった。
橋の後と同じだった。
吐いて、拭って、そして気づいた。
オズワルドが言った言葉を思い出した。
一人で済むわけがねえ。
その通りだった。
一人も殺せなかった。
それでも、二人目を殺そうとしていた。
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