第38話 露見しかけた過去
奪還から六日後、クリスが訪ねてきた。
副王都の宿舎である。レオンは報告書を書いていた。二百十七という数字を、どう書くかで半日迷っていた。
戸が鳴った。
「先生。いますか」
開けると、クリスが立っていた。
右腕に布を巻いている。町の奪還戦で負ったものだろう。
「上がるか」
「失礼します」
クリスは部屋に入った。
座る前に、部屋の中を見た。壁際に、布で包んだものが立てかけてある。
その前で、一度だけ目が止まった。
レオンは水を出した。
クリスは礼を言って、飲まなかった。
「あの町にいました」
しばらくして、クリスが口を開いた。
「知っている。東の通りを任されていたな」
「はい」
「よく動いた。報告を読んだ」
「……先生」
クリスは湯呑みを置いた。
「城門の内側を、見ました」
レオンは、手を止めた。
「片付けの前です。通りが終わって、戻るときに通りました」
「……」
「五十人くらい、倒れてました」
クリスは膝の上で手を組んだ。
「全員、年寄りでした」
部屋が静かになった。
「おかしいでしょう」
「……」
「駐屯してた連中です。帝国の正規兵です。年寄りが前に出るはずがない」
「……そうだな」
「それに、一人だけ顔を覚えてるんです」
クリスは顔を上げた。
「東の通りで、俺が斬り損じた兵がいました。若い男です。二十歳くらい。逃げられて、城門の方へ走っていった」
「……」
「その男が、城門の内側で倒れてました」
「……」
「髪が、真っ白でした」
レオンは湯呑みを見ていた。
「四半刻です。四半刻で、人の髪が白くなりますか」
「……」
「ならないでしょう」
クリスは、湯呑みを両手で包んだ。
「何を見たのか、自分でも分からなくて。六日考えてました」
レオンは、膝の上の手を見ていた。
言うべきことが、頭の中にいくつもあった。
どれも、言えなかった。
「それから、もう一つ」
クリスが続けた。
「先生が城門を開けたと聞きました」
「……聞いたのか」
「三千が見てます。隠せません」
「そうだな」
「四百歩、一人で歩いたと」
「歩いた」
「矢が百本当たったと」
「百は大袈裟だ」
「術者の魔法も効かなかったと」
レオンは答えなかった。
クリスは、壁際を見た。
布で包んだものが立てかけてある場所である。
「それ、黒い甲冑ですか」
レオンの喉が、動いた。
動いたのが、自分でも分かった。
「……そうだ」
「見せてもらえますか」
「駄目だ」
即答だった。
クリスは、少し驚いた顔をした。
それから、頷いた。
「分かりました」
しばらく、二人とも黙っていた。
クリスが、ようやく口を開いた。
「先生。一つ、聞いていいですか」
来る、と思った。
レオンは、覚悟した。
五年隠してきたものが、ここで終わる。
それならそれでいい、とも思った。
思ってしまったことに、自分で驚いた。
「どうぞ」
「先生は、元は帝国の兵ですよね」
「……」
「違いますか」
レオンは、答えを返さなかった。
否定もしなかった。
クリスは、それを答えとして受け取った。
「前から、そう思ってました。十三のときからです」
「十三」
「出会った日です。王都の訓練場で、俺が真剣を抜いた日」
クリスは少し笑った。
「あのとき、先生は木刀を取りました。あの選び方は、剣術を習った人間のものじゃない。殺し合いをやってきた人間の選び方です」
「……」
「それから、あの布陣です」
クリスは懐に手を入れた。
折り畳んだ紙を出した。
広げると、見覚えのある図だった。
中央が薄く、両翼が厚い。くさびの根元に矢印が引かれている。
副王都の前面での一戦の後、この男が自分で描いたものだった。
「王国の教本にないと言いましたね」
「言った」
「調べました。帝国の軍学書に載ってます」
紙を畳む。
「読んだんですか。それとも、習ったんですか」
レオンは黙っていた。
ゴードウィンに同じことを聞かれた。
読んだのか、書いたのか、と。
「……答えられない」
「それでいいです」
クリスは紙を懐に戻した。
「俺は、別に責めてません」
「……」
「帝国から逃げてきたんでしょう。だから名乗らないんだ」
レオンは、その言葉を聞いた。
半分、当たっていた。
残り半分が、致命的だった。
「それで、分かったことがあるんです」
クリスは、身を乗り出した。
「黒い甲冑です」
レオンの指が、膝を掴んだ。
「兄を殺した男が着ていたものです。黒い甲冑と、黒い剣」
「……」
「ダークナイト。五年前に、帝国に処刑されました」
「……そうだな」
「処刑されたなら、あの甲冑と剣はどうなりますか」
レオンは、クリスの顔を見た。
この男は、何を言おうとしているのか。
「帝国が持ってるはずです。宝物庫かどこかに」
「……」
「でも、先生が持ってる」
クリスは、壁際を指した。
「つまり、先生はそれを帝国から持ち出したんだ」
レオンは、動けなかった。
「違いますか」
黙っていた。
黙るしかなかった。
クリスは、自分の推論に納得した顔をしていた。
「そうだと思いました」
そう言って、座り直した。
「逃げるときに、持ち出したんですね。だから名乗れないんだ。あれを持ってるのが知られたら、帝国が追ってくる」
「……」
「六日考えて、それしかないと思いました」
レオンは、兜のある方を見た。
布の下に、それがある。
この男が持ち出しただろうと言った甲冑が、ある。
持ち出したのではない。
着ていたのだ。
五年前、この男の兄の前で。
クリスは、笑っていた。
「先生」
「……なんだ」
「良かったです」
「何が」
「あれが、こっちにあって」
レオンの胸の中で、何かが落ちた。
「兄を殺した甲冑です」
クリスは、まっすぐに言った。
「それが今、帝国を叩く側にある」
「……」
「兄も、そのほうが納得すると思います」
レオンは、喉の奥で音を止めた。
言葉が、一つも出てこない。
「使ってください」
クリスは、頭を下げた。
「あれで、帝国を止めてください。俺が言うことじゃないですけど」
下げた頭を、レオンは見ていた。
ここで言えば終わる。
俺が着ていた。
俺が、お前の兄の腕を落とし、足を落として、笑って首を刎ねた。
一言で済む。
言えば、この男は剣を抜く。
抜いて、死ぬ。
勝てない。
六年鍛えても、まだ届かない。届かないように教えたのは自分だった。
真実を渡すことは、この男を殺すことだった。
黙っていることが優しさだとは、思わない。
思わないが、言えなかった。
クリスが頭を上げた。
「あと、これだけ言わせてください」
「……」
「城門の話を聞いたとき、兵たちが言ってました」
「何と」
「黒い甲冑で一人で歩いていく姿が、絵みたいだったと」
「……」
「それで、誰かが言ったんです」
クリスは、少し照れたように笑った。
「あなたはまるで、伝説のダークナイトのようだ、と」
部屋の音が、消えた。
レオンは、呼吸を止めていた。
止めていることに、気づいていなかった。
「俺、それを聞いて、腹が立ちました」
クリスが続けた。
「先生と、あいつを同じに言うなと」
「……」
「でも、言い返せなかったんです。格好だけ見たら、確かにそうなんで」
クリスは湯呑みを取った。
今度は、飲んだ。
「変な話ですよね。兄の仇の格好をしてる人に、俺は剣を教わってる」
レオンは、その言葉を聞いた。
変な話だと、この男は言う。
変な話ではない。
事実だ。
クリスは、立ち上がった。
「長居しました。傷が治ったら、稽古をお願いします」
「……ああ」
「それと、先生」
戸の前で振り向いた。
「俺、いつか越えます」
「何を」
「ダークナイトです」
レオンの手が、膝の上で止まった。
「兄が負けた相手です。もういませんけど、名前は残ってる」
クリスは、拳を握った。
「あの名前より強くなります。そうしないと、兄に顔向けできない」
「……」
「だから、鍛えてください」
そう言って、頭を下げた。
戸が閉まった。
足音が、遠ざかっていった。
レオンは、動かなかった。
言うべき言葉が、一つあった。
越えなくていい。
あんな名前は、越える価値もない。
それを言えば、少しは楽になる。
この男の六年を、少しは軽くできる。
だが言えば、聞かれる。
なぜそう言えるのか、と。
答えれば、終わる。
レオンは、壁際に立てかけた布を見た。
布の下に、黒い鉄がある。
越える価値もない、と言うべき名前を、自分が今、身にまとっている。
立ち上がって、布に手をかけた。
かけて、やめた。
外して見る必要が、どこにもなかった。
中身を、誰より知っていた。
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