第35話 削られる命
翌朝、レオンは谷を出なかった。
小屋の外の石に座っていた。
震えは、朝のうちに止まった。昨夜のものは、もう手の中にない。
オズワルドは炉に火を入れ、鍬の刃を打ち始めた。
こちらを見なかった。
昼になって、椀が二つ出た。
「食え」
「いいのか」
「客じゃねえ。居座ってる奴に出す分だ」
レオンは食べた。
午後、レオンは口を開いた。
「村の話をしていいか」
槌の音が止まらない。
「聞いていないなら、それでいい」
打ち続けている。
レオンは、火の方を見て話した。
「五年前、国境の森で倒れた。拾われた村に、医者がいた」
「……」
「その娘が、看護をしていた。名はノアだ」
槌の音が、一拍だけ遅れた。
「一年かかって、俺は渇きから抜けた。抜けた日に、結婚した」
「……」
「娘が生まれた。ミアという。四歳まで生きた」
炉の火が鳴った。
「二人目がいた。腹の中だ。生まれる十日前だった」
レオンは、そこで一度言葉を止めた。
「名前は決めていた」
「……」
「リン、という」
槌が止まった。
オズワルドは、鉄を火に戻さなかった。持ったまま、動かなくなった。
「半年前に、村が焼かれた。全部だ」
「……」
「妻の腹に手を当てた。何も動いていなかった」
レオンは膝に手を置いた。
「その名を呼ぶ相手が、もういない」
小屋の中が、静かになった。
火の音だけがしていた。
やがてオズワルドが、鉄を火に戻した。
「……それで」
声が、少し掠れていた。
「どうしたい」
「あと一人、殺したい」
レオンはそう言った。
「村を売った男を、一人だけ」
オズワルドは火を見ていた。
長く見ていた。
それから、鼻で息を吐いた。
「一人で済むわけがねえ」
「……」
「分かってて言ってるな」
レオンは答えなかった。
答えられなかった。
一人で済むかどうかを、自分でも知らなかった。
その日の夕方、レオンはもう一つ言った。
言うつもりはなかった。
「断られたら、帝国に戻る」
オズワルドの手が止まった。
「帝国にも、職人はいる」
「……」
「あんたほどの腕はないだろう。それでも、呪いの繋ぎ方を知っている者は残っている」
「いるだろうな」
「俺が持っているのは、世界に一揃いしかない甲冑の破片だ」
レオンは布包みを見た。
「これを帝国に持ち込めば、あんたが五年前に渡さなかった寸法が、そのまま向こうの手に入る」
オズワルドが、ゆっくり振り向いた。
目が細くなっていた。
「脅してるのか」
「していない」
「同じだろう」
「違う」
レオンは立ち上がった。
「俺は、それでも直す。あんたが断るなら、そうするしかない」
「……」
「だから、脅しではない。報告だ」
槌が、床に置かれた。
オズワルドは長いあいだ黙っていた。
やがて、炉に炭を足した。
「座れ」
「……」
「そこじゃない。炉の横だ。風を送れ」
レオンは、言われた場所に座った。
「やるのか」
「やる」
老人は鉄鋏を取った。
「お前がどうなろうが知らん。だが、あれが帝国に戻るのは我慢ならねえ」
「……ありがとう」
「礼を言うな」
炭が赤く変わっていく。
「お前を助けるんじゃねえ。俺が五年我慢したことを、無駄にしたくないだけだ」
三月かかった。
材は、小屋の裏に埋まっていた。
帝国を出るときに、持ち出せる分だけ持ったのだという。黒い金属の塊が、八つあった。
「これで足りるのか」
「足りる。足りなきゃ作らん」
鍛造は単純な作業ではなかった。
一枚の板を打つのに、火に入れて出すのを百回以上繰り返す。打つ角度が一度違えば、割れる。
レオンは風を送り、炭を足し、水を運んだ。
それ以外は何もさせてもらえなかった。
「触るな。見てろ」
そう言われ続けた。
見ているうちに、分かってきたことがある。
この老人は、甲冑の寸法を覚えていた。
図面を見ていない。
一度も開かない。
肩の角度、胸当ての厚み、籠手の指の数。全部、頭の中にあった。
「よく覚えているな」
「十二年作った」
オズワルドは手を止めなかった。
「お前のためじゃねえ。前の着手のためにも作った」
レオンは顔を上げた。
「前の」
「いたんだよ。お前の前に」
それだけ言って、また打ち始めた。
それ以上、聞けなかった。
三月のあいだに、二度だけ外へ出た。
一度目は、エレナへの手紙を出すためだった。
生きている。三月で戻る。それだけ書いた。
二度目は、谷の入口に追手が来たときだった。
七人いた。
レオンは六人倒して、一人を逃がした。
戻ると、オズワルドが火を見ていた。
「何人だ」
「七人」
「殺したか」
「六人」
「そうか」
それだけだった。
その夜、渇きは来なかった。
六人分が、体の中にあったからだ。
レオンはその事実を、オズワルドに言わなかった。
三月目の終わりに、形が出来た。
黒い甲冑が、板の上に並んでいた。
胸当て、肩、籠手、脛当て。五年前と同じ形だった。
まだ繋がっていない。
「ここからだ」
オズワルドが言った。
「部品は打てた。だが、これはただの鉄だ」
「呪いが入っていない」
「入れる。入れるには、二つ要る」
老人は指を二本立てた。
「一つ。お前の血だ」
「どれだけだ」
「死なない分だけ」
「二つは」
オズワルドは、レオンの腰を見た。
「その剣が吸った命だ」
レオンは、柄に手を置いた。
「どうやって出す」
「出さん。剣をここに置いて、お前が触っていろ」
「……」
「呪いを繋ぎ直すには、お前自身の中の呪いに、もう一度触れる必要がある」
老人は炉の火を強くした。
「三日かかる。その三日、お前はあれを触り続ける」
レオンは、剣を見た。
触れただけで渇きが引く。それは三日前に知った。
触り続けるということは。
「地獄だぞ」
オズワルドが言った。
「止めてくれる奴は、ここにはいねえ」
一日目の夜に、来た。
剣の鞘に手を置いた状態で、炉の前に座っていた。
血は、腕から取られた。一日に三度。
最初は、何も感じなかった。
夜になって、腹の底が鳴り始めた。
鳴り方が、三日前とは違っていた。
あのときは、渇いているだけだった。
今は、渇きが形を持っていた。
抜け、と言っている。
レオンは左手で右の手首を掴んだ。
鞘から離さないよう、押さえつけた。
離せばいい。
離せば楽になる。
だが離せば、三月が無駄になる。
朝まで、そうしていた。
二日目に、幻が来た。
炉の向こうに、人が座っていた。
ノアだった。
薬草を束ねている。村の診療所でよくやっていた仕草だった。
顔を上げて、こちらを見た。
「レオン」
呼ばれた。
レオンは、その名を呼び返しそうになった。
呼ばなかった。
幻だと分かっていた。
分かっていて、涙が出た。
「手を離して」
ノアが言った。
「それ、離して」
レオンは首を振った。
「お願い」
振り続けた。
ノアが立ち上がって、近づいてきた。
手を伸ばしてくる。
その手に、触りたかった。
触れば、右手が離れる。
レオンは左手に力を入れた。
骨が鳴る音がした。
ノアが消えた。
消えて、しばらくしてから、別のものが見えた。
ミアだった。
庭で菩提樹の幹を叩いている。
まだ登れないと言われて、不満そうにしている。
「おとうさん」
振り向いた。
笑っていた。
レオンは目を閉じた。
閉じても見えた。
そのまま、夕方まで続いた。
三日目は、何も見えなかった。
見えるものが全部消えた。
炉の火も、オズワルドの背中も、小屋の壁も、全部遠くなった。
残ったのは、右手の下にある鞘だけだった。
そこだけが、はっきりしていた。
温かった。
生きているように温かった。
足りない、と聞こえた。
何度も聞こえた。
そのたびに、レオンは一つのことを思い出そうとした。
十四日目の夜。
いや、もうそれは半年以上前だ。
縁側で、肩に頭を預けられた。
あなたの強さね。
誰かを守るためのものであってほしい。
約束して。
約束する。
レオンは、その声を頭の中で繰り返した。
繰り返しながら、右手を押さえ続けた。
日が落ちた。
それから、どれくらい経ったか分からない。
槌の音が、止まった。
「終わった」
オズワルドの声がした。
レオンは顔を上げた。
視界が、ゆっくり戻ってきた。
板の上に、甲冑が一揃い並んでいた。
黒い。
炉の火を受けて、鈍く光っている。
五年前と同じだった。
割れた跡も、焼けた縁も、どこにもない。
「手を離していい」
レオンは右手を鞘から離した。
離した瞬間、渇きが引いた。
嘘のように引いた。
呪いが、甲冑に移ったのだと分かった。
「立てるか」
「……立てる」
立ち上がった。
三日、座っていた足が、すぐには動かなかった。
それでも立てた。
甲冑の前に立った。
オズワルドが横にいる。
何も言わない。
レオンは、その黒い鉄を見た。
五年前、これを着ていた。
これを着て、何百人も殺した。
クリスの兄の腕を落とし、足を落とし、首を刎ねた。
その前で、笑っていた。
そして五年前、皇都で砕かれた。
砕かれて、村に流れ着いた。
ノアが言った。
二つ、誓ってほしい。
一つ。二度とあの剣を抜かないこと。
もう一つ。二度とあの鎧を纏わないこと。
同じにしたら、片方だけ破ったときに、あなたは自分を許してしまう。
そう言われた。
言った意味が、今になって分かった。
半年前、剣だけを取った。
甲冑は壊れていたから、纏わなかった。
纏えなかったから、纏わなかった。
それで、半分は守ったことにしていた。
その半分が、目の前にある。
レオンは手を伸ばした。
伸ばす前に、一度止まった。
止まった時間は、長くなかった。
胸当てを取った。
体に当てた。
留め具を締めた。
肩を乗せた。
籠手をつけた。
脛当てをつけた。
最後に、兜を被った。
音がした。
金属が、噛み合う音だった。
馴染んだ。
一瞬だった。
五年離れていた鉄が、体の形を覚えていた。
肩の重さが、正しい位置に収まる。
胸の圧迫が、呼吸の深さに合う。
兜の中の視界が、昔と同じ幅になった。
そして、感覚が消えた。
炉の熱が、遠くなった。
石床の冷たさが、足から消えた。
腕から取られた血の痛みが、なくなった。
五年前と同じだった。
甲冑を纏っている間は、暑さも寒さも遠い。
雨に打たれても、濡れている実感がない。
そういうものだと思っていた。
強くなるには、それくらいの代わりが要るのだと。
レオンは、そこで動けなくなった。
心地よかった。
それが、心地よかった。
痛みが消えたことが、嬉しかった。
肩の重さが、懐かしかった。
帰ってきた、と思った。
思った自分に気づいて、レオンは兜の中で目を閉じた。
半年前、剣を抜いたときも同じだった。
渇きが消えて、嬉しいと思った。
あのときは、怒りの中だった。言い訳ができた。
今は違う。
三月かけた。
三日耐えた。
血を取られ、幻を見て、歯を噛んで、自分の意志で立ち上がった。
全部、自分で選んだ。
選んで、嬉しかった。
レオンは、一つの考えが頭に浮かぶのを止められなかった。
俺は、家族のためにこれを纏ったのか。
それとも、纏いたいから、家族を理由にしたのか。
答えは出なかった。
出そうとして、やめた。
やめたことを、自分でも分かっていた。
「鏡はあるか」
声が、兜の中で響いた。
「ねえよ」
オズワルドが答えた。
「そんなもん、何に使う」
「……」
老人は炉の横から、何かを持ってきた。
打ち終えた鋼の板だった。磨いてある。
それを、レオンの前に立てた。
映った。
黒い甲冑。
兜の奥に、光のない目。
五年前、天幕の中で剣の腹に映った顔とは違っていた。
あのときは、疲れた男の顔だった。
今そこにいるのは、男の顔ではない。
ヴァルクシア帝国最強の暗黒騎士が、こちらを見ていた。
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