第30話 国境の戦火
副王都の前面での一戦から、王都を奪い返すまでに、四ヶ月かかった。
その四ヶ月を、細かく書く必要はない。
戦は二十三回あった。
そのうち、負けたのは三回だった。
一月目は守りだけだった。
副王都の周囲に、線を三本引いた。
内側から順に捨てていく線だった。
一本目は五日で捨てた。
二本目は十二日もった。
三本目で止めた。
止めたところに、冬が来た。
雪が降って、帝国軍の補給が止まった。
そこで、押し返し始めた。
二月目に、国境から東の街道を切った。
帝国軍の糧がその道を通っていた。
千で行って、千で戻った。
死んだのは十九人だった。
この作戦の立案は、レオンではなかった。
若い中佐が出した案を、レオンが通した。
通したときに、卓の空気が変わった。
代行の将軍が、他人の案を採るという事実に、皆が慣れていなかった。
三月目に、王都の外郭へ戻った。
帝国の守備は二千に減っていた。
本隊は北へ引き揚げていた。
理由は後で分かった。
帝国の内側で、別の戦線が開いていた。
北の小国との国境らしい。
王国の力で押し返したのではない、という事実を、レオンは軍議で言った。
「幸運です」
そう言った。
誰も、それを認めたがらなかった。
「我々が押し返したのです」
大佐が言った。
「そう思うのは構いません。ですが、記録には幸運と書いてください」
「なぜです」
「次に幸運がないときに、同じ手を使う者が出ます」
その一文は記録に残った。
四月目に、王都が戻った。
門を開けたとき、城壁の内側に人はほとんどいなかった。
市場は焼けていた。
大通りの荷車は、そのままの形で残っていた。
四ヶ月、誰も動かさなかったのだ。
住民が戻り始めたのは、それから半月後だった。
剣は十一回使った。
四ヶ月で、十一回だった。
使うたびに、報告した。
副王都の税務館に、セレスティアがいた。
摂政の職に就いていた。
国王は、意識が戻る日と戻らない日を繰り返している。
政務は彼女が見ていた。
四月目に入って、戻る日が増えたと聞いた。
「話せるのですか」
「三言か四言」
セレスティアはそう答えた。
「先日、剣の話をされました」
「剣」
「肩が上がらん、と」
レオンは何も言わなかった。
秋の訓練場で、あの肩から木刀が来た。
「治るとは思えません」
セレスティアは書類に目を戻した。
「ですが、そういうことを言うようになりました」
報告は簡単だった。
「三度使いました」
「場所は」
「東の街道、夜」
「人数は」
「十四」
セレスティアは、机の上の紙に書き入れた。
数字を書き足していく。
字は小さく、詰まっていた。
「ご苦労でした」
それだけだった。
三度目の報告のとき、レオンは聞いた。
「殿下」
「はい」
「数えて、どうなさるのですか」
セレスティアは手を止めた。
「いつか、お見せします」
「……」
「今は、ご覧にならないほうがいい」
レオンはそれ以上聞かなかった。
その紙が、机の一番上の引き出しに入るのを見ていた。
四ヶ月で、その紙は二枚になった。
橋の分を含めて、二百三十七だった。
その四ヶ月で、レオンは軍の中に居場所を得た。
得たくて得たのではない。
勝つと、そうなった。
朝、幕舎を出ると挨拶をされる。
軍議で発言すると、卓が静まる。
若い将校が、案を持ってくるようになった。
隊の異動願いが、レオンの隊に集まるようになった。
四ヶ月前、経歴を問い詰めた白髪の大佐が、ある日こう言った。
「家がないと言ったな」
「言いました」
「家などなくても、軍は回る」
それがあの男の言い方の謝罪だった。
レオンは頭を下げた。
下げながら、別のことを考えていた。
持ってしまった、と思っていた。
五年前、村でも同じことが起きた。
余所者だった男が、いつの間にか先生と呼ばれた。
酒場で席を取ってもらえるようになった。
道場に子供が集まった。
嬉しかった。
あのときは素直に嬉しかった。
今は、違う。
信頼が集まるたび、失うものが増えていく。
それが分かっていた。
十九人死んだ作戦を、レオンは通した。
十九人の名前を、後で読んだ。
読めた。
読めてしまった。
五年前なら、読めなかった。
五月目に入るころ、レオンは人を遠ざけ始めた。
意識してやった。
クリスが来たのが、最初だった。
「先生。稽古を」
「できない」
「王都も戻りました。少しは時間が」
「ない」
「一日でいいんです」
「ない」
短く切った。
クリスは少し黙った。
「……何か、しましたか、俺」
「していない」
「じゃあ、なぜです」
レオンは答えを持っていなかった。
正しい答えを言えば、正体を明かすことになる。
嘘を言えば、この男はまた食い下がる。
「俺みたいになる必要はない」
そう言った。
それだけ言った。
クリスの顔が、分からないという形になった。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
「俺は、あなたみたいな剣士に」
「なるな」
初めて、強く言った。
クリスは口を閉じた。
そして、頭を下げて帰っていった。
背中を見送りながら、レオンは思った。
今のは突き放したのではない。
守ったつもりだった。
だが、あの男には伝わらない。
伝わらないように言ったのだから、当然だった。
エレナが気づくのは、早かった。
「距離を置かれていますね」
報告の帰りに、そう言った。
「何の話だ」
「私にも、他の者にも」
「……」
「三日前、ヴァルハイト殿が私に聞いてきました。先生に嫌われたのかと」
「そうか」
「否定しました」
「余計なことを」
「余計です」
エレナはあっさり認めた。
「私の役目は、見ていることです。口を出すことではありません」
「なら、口を出すな」
「はい」
一度、頭を下げた。
それから、下げたまま言った。
「ですが、一つだけ申し上げます」
「言え」
「人を遠ざけても、減りません」
レオンはその言葉の意味を考えた。
「何が」
「失うものです」
エレナは顔を上げた。
「近くに置かなくても、失えば同じだけ痛みます。私は、そう思います」
「……」
「以上です」
そう言って、去っていった。
レオンはその場に立っていた。
正しいことを言われた、と思った。
思ったが、やり方を変えるつもりはなかった。
王都が戻って半月後、療養していた将軍が復帰した。
四ヶ月前に重傷を負い、動けなかった一人だった。
歩けるようになるまでに、それだけかかったらしい。
復帰の翌日、レオンは書類を出した。
代行将軍位の返上願だった。
セレスティアは、それを一読して、顔を上げた。
「早いですね」
「条件でした」
「そうでした」
「返上します」
「引き止めるべきだと、半分は思っています」
セレスティアは書類を机に置いた。
「軍の中には、あなたに残ってほしい者が多い」
「知っています」
「それでも、返すのですね」
「はい」
「理由を伺っても」
レオンは少し考えた。
「位があっても、届かない相手がいます」
「……」
「位のない者のほうが、動けます」
セレスティアは書類に印を押した。
「元の階級に戻します。どの隊に」
「隊は、持ちません」
「一人で動くと」
「そうさせてください」
「許します」
印を押した書類を、こちらへ回した。
「ただし、剣の報告は続けてください」
「はい」
「それは、位とは関係のない約束です」
レオンは頭を下げた。
その頃から、噂が回り始めた。
最初に耳に入れたのは、エレナだった。
「王都防衛の記録に、穴があるそうです」
夜、書類の束を持ってきた。
「どこだ」
「北西の第三です」
レオンは顔を上げた。
「四ヶ月前、命令が二時間来なかったという話がありました」
「覚えている」
「その二時間の記録が、ありません」
エレナは紙を広げた。
「他の防衛線は、半刻ごとに記録があります。第三だけ、二時間分が抜けています」
「指揮官は」
「ゴードウィン閣下です」
レオンはその紙を見た。
時刻が並んでいる。
そして、空白がある。
「もう一つあります」
エレナが別の紙を出した。
「当時、閣下の直属から二個小隊が外れていました」
「どこへ行った」
「記録がありません」
「作戦名は」
「ありません。命令書の写しもありません」
エレナは紙を重ねた。
「二百人が、二時間、どこにいたのか分からない状態です」
レオンはしばらく黙っていた。
四ヶ月前、あの男は言った。
詫びはしない。詫びて済む話ではないからだ。
お前が上げてきた地図は、正しかった。三度通した。動かなかった。
そして、三度聞かれた。
どこで習った。
読んだのか、書いたのか。
お前は何を知っている。
「レオン殿」
エレナが言った。
「調べますか」
レオンは紙の空白を見ていた。
「調べる」
「誰を」
答えるのに、少し時間がかかった。
四ヶ月、この名前を出さないようにしていた。
出せば、戻れなくなると分かっていた。
「ゴードウィン将軍を」
口に出した。
出してしまうと、簡単だった。
そして、腰の剣が温かくなった。
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