第29話 反撃の采配
翌朝、辞令が回った。
レオン。代行将軍位。全軍の指揮権を暫定的に付与する。
理由の欄には一行だけ書かれていた。
橋梁防衛における不世出の戦功による。
それだけだった。
出身も、前職も、前の階級も書かれていない。
書けなかったのだろう。
その紙が回ってから半日で、副王都の軍は二つに分かれた。
半分はあの橋の話を知っていた。
半分は知らなかった。
軍議は税務館の一階で開かれた。
机の上に、副王都周辺の図が広げられている。
集まったのは十一人。
将軍位が一人。
あとは佐官と、隊を持っている尉官。
将官が足りず、本来ならこの卓にいない者が三人混じっていた。
「代行将軍殿」
最初に口を開いたのは、白髪の大佐だった。
「一つ伺いたい」
「どうぞ」
「あなたは、どこの家の出だ」
「家はありません」
「では、どこの軍学校を出た」
「出ていません」
卓がざわついた。
「ならば、なぜここに座っている」
「殿下が座らせました」
「答えになっていない」
「それ以上の答えを、私は持っていません」
大佐は椅子に背を戻した。
「結構だ。ならば采配で示していただこう」
「そうします」
ゴードウィンは卓の端にいた。
一言も発していなかった。
状況は単純だった。
副王都の北、二日の距離に帝国の一軍がいる。
王都を落とした本隊ではない。追撃に出た別の軍だった。
数は四千と見られていた。
こちらは二千五百。
そのうち六百は、装備の揃っていない新兵と、隊を失った兵の寄せ集めだった。
背後には副王都がある。
住民が五万近く入っている。
負ければ、そこまで届く。
「籠城しかありません」
若い中佐が言った。
「城壁は低いが、二千五百で守れば十日はもつ。その間に、南の部隊が」
「南の部隊は来ない」
大佐が遮った。
「国境の東が崩れている。動かせる兵はない」
「では十日で何が変わる」
「……」
卓が静かになった。
籠城しても、援軍が来ない。
それが分かっていて、他に案がない。
レオンは図を見ていた。
副王都の前面。
緩い傾斜の野。
左に川。
右に林。
「野で迎えます」
そう言った。
卓の全員が顔を上げた。
「二千五百で四千を、野で迎えると」
「はい」
「正気か」
「布陣を申し上げます」
レオンは図の上に指を置いた。
「中央に、六百を横一列で置きます」
「六百」
「六百です。装備の揃っていない者を、そこに置きます」
大佐の声が低くなった。
「一番弱い者を、一番前に置くと」
「はい」
「殿、それは」
「そして、後退させます」
言い切った。
「敵が当たったら、下がります。押されて下がるのではなく、下がらせます」
「崩れるぞ」
「崩れて見せます」
「違いが分からん」
「敵にも分かりません。それが要点です」
レオンは指を左右へ動かした。
「左の川沿いに七百。右の林に七百を伏せます」
「伏せる」
「見えないように入れます。前夜のうちに」
「残りは」
「五百を後方に。中央が下がってきたら、そこで受け止めます」
「それだけか」
「それだけです」
大佐が卓に手をついた。
「中央が本当に崩れたら、どうする」
「崩れません」
「なぜ言い切れる」
「六百に、戦えとは命じないからです」
レオンはそこで初めて顔を上げた。
「下がれ、とだけ命じます。順序を教えて、下がる練習を一晩やらせます」
「……」
「戦わせようとすると、崩れます。下がれと言えば、下がれます」
卓が静まった。
「敵が追わなかったら、どうする」
別の佐官が聞いた。
「追います」
「なぜだ」
「補給が遅れています」
レオンは図の北を指した。
「三日、追撃してきました。糧は持って三日分です。四日目には、現地で取るしかない」
「だから短期決戦を望む」
「はい。眼の前で敵が崩れたら、乗ります」
「それは推測だ」
「推測です」
レオンは認めた。
「ただし、帝国の指揮官はもう一つ持っています」
「何を」
「教本です」
卓の何人かが眉を寄せた。
「帝国の軍学は、崩れた敵を必ず追えと教えます。追わずに逃がすのは失態とされます」
「そんなことを、なぜ知っている」
その問いは避けられないものだった。
レオンは答えを用意していなかった。
「――知っていて、当然だろう」
声が卓の端から来た。
ゴードウィンだった。
初めて口を開いた。
「帝国の軍学書は、三十年前から王国にも入っている。私も読んだ」
大佐がゴードウィンを見た。
「閣下は、この布陣を」
「見たことがある」
ゴードウィンは図に目を落とした。
「王国の教本にはない。帝国の教本にある」
「では、帝国の戦法を使うと」
「使って勝てるなら、使えばいい」
ゴードウィンは椅子から立った。
「私は、この案に賛成する」
それで、卓が決まった。
出ていくとき、ゴードウィンはレオンの横で足を止めた。
そして、小さな声で言った。
「読んだのか、書いたのか」
レオンは答えなかった。
ゴードウィンも、答えを待たなかった。
その夜、中央に置く六百を集めた。
新兵と、隊を失った兵。
不安の色がはっきり出ていた。
レオンはその前に立った。
「明日、お前たちは一番前に立つ」
ざわめいた。
「戦うな」
ざわめきが止まった。
「一合だけ受けろ。受けたら下がれ」
「……下がる、んですか」
「下がる。並んだまま、後ろへ歩く」
レオンは、そこで一度、地面に線を引いた。
「走るな。走ると、崩れる。歩け」
「敵が来ます」
「来る。来たら、また一合受けて、また歩け」
「それだけですか」
「それだけだ。今夜は、それを練習する」
一晩、やらせた。
三十歩下がる。止まる。受ける。また三十歩下がる。
日付が変わるまで繰り返した。
最後の一回で、列が乱れなくなった。
「明日は、これだけやれ」
レオンはそう言った。
「戦うのは、他の連中だ」
朝、霧が出た。
好都合だった。
林と川沿いの伏兵が、直前まで見えない。
八時ごろ、帝国軍が現れた。
数は報告の通りだった。
四千。
横に広く展開してくる。
中央の六百がそれを見た。
動揺が後ろから見ても分かった。
レオンは後方の丘にいた。
前には出なかった。
「閣下、前に出られますか」
伝令が聞いた。
「出ない」
「ですが、中央の士気が」
「出れば、中央が戦い始める」
レオンは前を見ていた。
「今日は、戦わせない」
腰に、剣が二本ある。
どちらにも、手を置かなかった。
置かないようにしていた。
九時、敵が当たった。
中央の六百が一合受けた。
そして、下がった。
歩いて下がった。
三十歩。
止まる。
受ける。
また三十歩。
「下がっているぞ!」
帝国側から、声が上がった。
「押せ!」
追ってきた。
追ってきたのは中央だけだった。
両翼はまだ動いていない。
レオンは待った。
もう一度、六百が下がった。
敵の中央が前へ出た。
出た分だけ、左右の列から離れた。
隙間ができた。
「まだか」
近くの佐官が言った。
「まだです」
三度目。
六百がまた下がった。
敵の中央がさらに出た。
もう、左右の列より三百歩ほど前に出ている。
帝国軍の形がくさびになった。
先端が薄い。
「――今です」
レオンは旗を上げさせた。
赤の旗が二度振られた。
林の中から、七百が出た。
川沿いから、七百が出た。
両側から、くさびの根元に入った。
先端ではない。
根元だった。
出た部分と、本隊を切り離した。
「後方、前へ」
五百が正面から当たった。
下がっていた六百が、そこで止まった。
止まって、振り向いた。
「戻れ、とは言っていないぞ」
レオンが呟いた。
伝令が慌てた。
「止めますか」
「いい」
止めなかった。
六百は戻った。
一晩、下がる練習しかしていない六百が、自分から前へ出た。
囲んだ。
閉じた。
帝国軍の中央、千二百が、野の中に取り残された。
包囲は半刻で終わった。
残りの二千八百は、動けなかった。
前に出れば、同じことをされる。
十時を過ぎたころ、退き始めた。
追わなかった。
追撃の命令を、レオンは出さなかった。
「追えば取れます」
佐官が言った。
「追わない」
「なぜです」
「糧がない」
レオンは北を見ていた。
「取り返しても、養えない。それに、こちらの六百は今日が初陣だ」
「……」
「勝ったところで止める」
そう言った。
昼過ぎ、戦場の片付けが始まった。
こちらの死者は百四十。
敵の死者と捕虜は、千を超えた。
野に旗が集められ、数えられていく。
丘の上に、兵が上がってきた。
誰かがレオンの名を呼んだ。
「レオン閣下!」
一人が呼ぶと、下から重なった。
三十人、百人、それ以上。
野の中から、名前が上がってきた。
レオンは丘の上に立っていた。
聞いていた。
歓声を、確かに聞いていた。
そして、何も感じなかった。
嬉しくない。
誇らしくもない。
胸の中に、何も入ってこなかった。
代わりに、別のものがあった。
渇いていた。
朝より、はっきり渇いていた。
今日、一人も斬っていない。
一度も抜いていない。
だから、何も入ってこなかった。
千二百を囲んで潰して、自分の中には何も入っていない。
守った。
副王都の五万人を、守った。
背後の住民に、一人も届かせなかった。
それは間違いなく守ったことだった。
なのに、満たされていない。
レオンは歓声の中で、野を見ていた。
北へ退いていく列を、見ていた。
あそこに、まだ二千八百いる。
そう考えていた。
追わないと自分で決めた。
決めたのに、目が追っていた。
歓声の中で、レオンが探していたのは、敵だった。
丘を降りたところで、声がかかった。
「先生」
クリスだった。
右腕に布を巻いている。
林の七百を率いた一人だった。
「見事でした」
「お前の隊が、よく動いた」
「いえ。あの布陣です」
クリスは手に持った紙を差し出した。
自分で図を描いていた。
中央が薄く、両翼が厚い。
くさびの根元に矢印が引かれている。
「覚えておきたくて」
「……」
「王国の教本には、ありませんね」
レオンはその紙を見た。
「ありません」
「どこの教本ですか」
レオンは答えなかった。
クリスはそれ以上聞かなかった。
紙を丁寧に折って、懐に入れた。
「いつか、俺も使えるようになりたいです」
そう言って、隊へ戻っていった。
レオンはその背中を見ていた。
あの紙はいつか読み返される。
読み返した男がいつか気づく。
そう思った。
思ったが、止める言葉を持っていなかった。
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