第28話 過去を明かす日
副王都は南へ三日の距離にあった。
城壁は王都の半分もない。もともと避難先として作られた街ではなく、税の集積地として置かれた城下町だった。
そこに、王都から逃れた者が流れ込んだ。
三日で、街の人口が三倍になった。
宿はない。倉に人を入れ、教会に人を入れ、それでも足りずに道端で寝ている者がいた。
レオンは、その街の外で二日を過ごした。
橋の番をしていた。
後から来る者がまだいたからだ。
三日目までに、四百人ほどが渡った。
橋を落とさなかった理由は、それで足りた。
軍の状況は三日目に伝わってきた。
国王は生きている。
ただし重傷で、意識が戻らない日が続いている。
将軍位の者が七人いた。
二人が戦死。三人が重傷。一人は行方が分からない。
残った一人がゴードウィンだった。
その下の将官も、半分以上が欠けていた。
命令がどこからも出ていない。
各隊がそれぞれの判断で動いていた。
動いていない隊もあった。
四日目の夕方、レオンは呼び出された。
伝令が持ってきた紙には、名前と時刻だけが書かれていた。
差出人の欄が王家の印だった。
通されたのは税務館の二階だった。
もとは書類を置く部屋だったのだろう。壁一面に空の棚が並んでいる。
その中央に、椅子が二つ置かれていた。
セレスティアが立っていた。
護衛が四人、壁際にいる。
「下がりなさい」
「殿下」
「下がりなさい。扉の外で構いません」
一人がレオンを見た。
その目に、はっきり警戒があった。
橋の上から見ていた者かもしれない。
四人が出ていった。
扉が閉まった。
「まず、礼を申します」
セレスティアが頭を下げた。
深く下げた。
「あなたが来なければ、私はあの土手で死んでいました」
「頭を上げてください」
「上げません」
「殿下」
「上げません。私は、あなたに救われました。二度も」
上げたときには目が赤かった。
泣いてはいなかった。
寝ていないのだろうと、レオンは思った。
「座ってください」
「立っています」
「では、私も立ちます」
そう言われて、レオンは座った。
セレスティアも、座った。
「四日前の続きを、伺います」
セレスティアは、両手を膝に置いていた。
指が少し固くなっている。
「あの剣は、何ですか」
「呪具です」
レオンはそう答えた。
隠す言葉を探すのを、やめた。
「斬った相手の生命を吸います。吸ったものは、私に入ります」
「……」
「だから、斬れば斬るほど強くなります。傷が塞がり、疲れが消えます」
「代償は」
早い問いだった。
レオンは少し驚いた。
「あります」
「何ですか」
「精神です」
「精神」
「殺すことが、楽になっていきます」
セレスティアは、そこで一度だけ息を吸った。
「もう一つ、伺います」
「はい」
「あなたは、何者ですか」
レオンは答える前に少し待った。
五年前、診療所で同じことをした。
あのときは追い詰められて吐いた。
ノアに聞かれて、逃げ場がなくなって、言った。
今は、違う。
誰も追い詰めていない。
黙っていることもできる。
「元帝国軍です」
そう言った。
「暗黒騎士。帝国最強の部隊『黒い牙』を率いていました」
「……」
「二つ名は」
言う前に、一度息を置いた。
「ダークナイトです」
部屋が静かになった。
窓の外で、人の声がしていた。
副王都の通りの声だった。
セレスティアは動かなかった。
膝の上の指が、少しずつ白くなっていった。
「……ダークナイト」
繰り返した。
「その名を、私は十二のときに聞きました」
「……」
「父が、夜中に将軍を呼びました。私は廊下にいました」
セレスティアの声は、平坦だった。
「あの名が出たとき、将軍が立ったまま何も言えなくなりました」
「……」
「大人が、ああなるのを初めて見ました」
レオンは何も言わなかった。
「六年前にも聞きました」
「……はい」
「エルンスト・ヴァルハイトが死んだときです」
そこで、セレスティアの声が初めて揺れた。
「あの人を、私は知っています。子供の頃、剣を教わりました」
「……」
「九つの私に、木剣を渡して、遅いとだけ言う人でした」
レオンは目を伏せた。
「弟がいます」
セレスティアが言った。
「クリス・ヴァルハイトです」
「知っています」
「知っている」
「王都で、剣を教えています」
セレスティアの手が、膝から離れた。
立ち上がっていた。
レオンは座ったままだった。
「兄を殺した男が」
「はい」
「弟に、剣を」
「はい」
「あの人は、知っているのですか」
「知りません」
「なぜ言わないのですか」
「言えば、あの男は俺を殺そうとします」
レオンは初めて顔を上げた。
「そして、殺せません」
「……」
「殺せないまま、死にます。教えたのは俺だからです」
セレスティアは窓の方を向いた。
背を向けたまま、しばらく動かなかった。
「……失礼します」
そう言って、部屋を出ていった。
レオンは一人になった。
一刻、待たされた。
棚には何も入っていなかった。
窓から、通りが見えた。
道端に座った人が、三人並んでいる。
その前を、荷を担いだ兵が通っていく。
日が落ちた。
誰も灯りを持ってこなかった。
暗くなっていく部屋で、レオンは座っていた。
立って出ていけばよかった。
そうしなかった。
処刑されるなら、それでいいと思っていた。
思っていたが、一つだけ気になることがあった。
指揮系統が壊れている。
この状態で、あと十日もつとは思えない。
誰が村を売ったのかは、まだ分からない。
分からないまま国が落ちれば、それも分からなくなる。
そこまで考えて、レオンは自分を止めた。
そういう計算を、こういうときにする男だった。
五年、忘れていただけだ。
扉が開いた。
灯りが入ってきた。
セレスティアが、自分で燭台を持っていた。
椅子に戻って、それを机に置いた。
「お待たせしました」
「……」
「一つ、決めました」
レオンは待った。
「あなたに、王国軍の指揮を預けます」
言われたことが、すぐには入ってこなかった。
「……何と」
「代行の将軍位です。全軍の指揮を、暫定であなたに」
「殿下」
「聞いてください」
セレスティアは手を上げた。
「私は一刻、考えました。何を考えたか、申します」
「……はい」
「一つ。あなたは、私の国の騎士を何人も殺しました。エルンスト・ヴァルハイトを含めて」
「はい」
「それは、変わりません。許すとも言いません」
「はい」
「二つ。あなたはその剣で、七十人を斬りました。数えました」
レオンは少し目を上げた。
「私が数えました。夜のあいだに、橋の上から」
「……」
「それも、忘れません」
セレスティアは燭台の火を見ていた。
「三つ」
「……」
「あなたは、橋を落としませんでした」
火が揺れた。
「兵が落とすと言ったとき、あなたは止めました。後から来る者がいるからと」
「……はい」
「それが、決め手です」
セレスティアは顔を上げた。
「私は、人を、誰だったかでは見ません。何をしたかで見ます」
「……」
「あなたが何者だったかは、聞きました。聞いた上で、あなたが四日前に何をしたかを見ています」
そこで一度、言葉を切った。
「父の話をします」
レオンは顔を上げた。
「グスタフ・ローレンス。私の父です。ですが、生まれたときの名は、ただのグスタフでした」
「……」
「家名がありません。傭兵だったからです」
レオンの中で、秋の訓練場が戻ってきた。
「三十年、七つの国を渡ったと言っていました。仲間は全員死んだと」
「……はい」
「祖父が、その男に軍を預けました。二十年前です。反対しなかった者は一人もいなかったそうです」
セレスティアは、机の木目を見ていた。
「そして父は、王都を守りました。三度」
「……」
「三度目のあと、祖父は母を嫁がせました。血も家もない男に、王女を」
顔を上げる。
「私は、その血です」
レオンは、何も言えなかった。
「ですから、私には、あなたを出自で断る資格がありません」
「殿下」
「父も、同じことを言われました。帝国の犬だったのではないか、どこで誰を殺してきたのか、と」
セレスティアの目が、少しだけ細くなった。
「その父が、秋にあなたと立ち合ったそうですね」
レオンの息が止まった。
「……ご存じでしたか」
「聞きました。面白い男がいた、と」
「……」
「父が人を面白いと言うのは、二十年ぶりでした」
レオンはその言葉を聞いた。
聞いて、胸の中に来たものは、感謝ではなかった。
別のものだった。
「……殿下」
「はい」
「一つ、申し上げなければならないことがあります」
「どうぞ」
「俺に、指揮を預けるべきではありません」
セレスティアが少し眉を上げた。
「理由を」
レオンは両手を膝に置いた。
「あの晩、橋で」
「はい」
「途中から、守っていませんでした」
「……」
「渡り終えたと、後ろから声がかかりました。聞こえていました」
「……」
「聞こえていて、逃げる敵を追いました。三人斬りました」
セレスティアは黙っていた。
「戦いが終わってから、思い出しました」
レオンはそこで一度、言葉を切った。
言いたくなかった。
言わなければ、嘘になった。
「あの晩のどこかで、俺は」
「……」
「楽しいと思っていました」
燭台の火が音を立てた。
「あの剣を使うと、そうなります。使うほど、そうなります」
「……」
「今は正気です。だが、次も正気だとは言えません」
レオンは頭を下げた。
「だから、預けるべきではありません」
セレスティアは長く黙っていた。
やがて、聞いた。
「それを、なぜ言うのですか」
「……」
「黙っていれば、位が手に入りました」
「……」
「調べたいものがあるのでしょう。位があれば、調べられます」
図星だった。
一刻前、この部屋で自分が考えたことだった。
「なぜ、言ったのですか」
レオンは答えを探した。
探して、見つかったものは、一つだけだった。
「……妻に、言われたことがあります」
「……」
「隠したまま、いい顔だけしている人より、話した人のほうが信じられる、と」
セレスティアは、レオンの顔を見ていた。
「奥様は」
「二十日前に」
「……」
「村を焼かれました」
言ってから、レオンは口を閉じた。
言うつもりのないことだった。
セレスティアは立ち上がらなかった。
ただ、膝の上で手を組んだ。
「決めました」
さっきと同じ言葉だった。
「変えません。あなたに預けます」
「殿下」
「今のあなたの話を聞いて、決めました」
「……なぜです」
「二つ理由があります」
セレスティアは指を立てなかった。
数えなくても、覚えているという顔だった。
「一つ。楽しいと思った、と自分から言う人間は、まだ戻れる場所にいます」
「……」
「本当に戻れない人間は、それを言いません。言う必要を感じません」
レオンは何も返せなかった。
「二つ。あなたは、預けるべきではないと言いました」
「はい」
「今の王国軍で、その言葉を口にできる者が、あなた以外にいません」
セレスティアはそこで少し笑った。
疲れた笑い方だった。
「みな、自分に任せろと言います。この四日、何人に言われたか分かりません」
「……」
「任せてはいけないと言った人に、任せます」
それから、条件を出した。
「三つ、条件があります」
「はい」
「一つ。あなたの過去を知るのは、私だけにします」
「……ヴォス副官が、知っています」
「では、二人だけに。他の将兵には、不世出の戦功による特例の代行、とだけ伝えます」
「はい」
「二つ。あの剣を使うときは、私に報告してください」
レオンは少し驚いた。
「止めてくださいとは言いません。止められる状況ではありません」
セレスティアはまっすぐに言った。
「ですが、何回使ったかを、数える人間が要ります」
「……」
「私が数えます」
レオンは頭を下げた。
「三つ」
「はい」
「本来の将軍が戻ったら、返上してください」
「そのつもりです」
「そうしてください」
セレスティアは燭台を持ち上げた。
「では、レオン殿」
初めて、その呼び方をした。
「王国軍の指揮を執りなさい」
その言葉を聞いた瞬間だった。
レオンの右手が動いた。
腰の、左側へ。
黒い柄のある場所へ。
握ろうとしていた。
指が、柄に触れる前に、レオンは気づいた。
気づいて、止めた。
止めた手を、膝に戻した。
指揮を執れと言われて、探したのは剣だった。
セレスティアはそれを見ていた。
何も言わなかった。
ただ、燭台を持つ手が、少し下がった。
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