第19話 崩れた灯
麦畑を抜けた。
穂が、顔を打つ。
構わず走った。
煙の匂いが、風に乗ってくる。
木が焼ける匂い。
油の匂い。
その奥に、別の匂いが混じっている。
嗅いだことのある匂いだった。
人が焼ける匂いだ。
足が、一度だけ止まった。
止まった自分に腹が立った。
また走った。
街道に出たところで、人影が転がり出てきた。
血に染まっていた。
「ハンス!」
抱き起こす。
生きている。
傷は浅い。返り血だ。
腕に一筋、切られた跡があるだけだった。
「先生……」
ハンスの目が、こちらを見ていない。
どこも見ていない。
「村は」
「せんせ」
「村はどうなった」
「みんな」
それ以上、言葉にならなかった。
歯が鳴っている。
顎が固まって、動かない。
「みんな」
同じ音だけを繰り返す。
背後の茂みが揺れた。
帝国兵が三人、出てきた。
追ってきたのだ。
一人がハンスを指した。
「そのガキだ。逃げた奴が」
レオンは、ハンスを地面に下ろした。
そして立った。
剣を抜く。
村で使っている、ただの鉄の剣だった。
「なんだ、てめえ」
レオンは、峰を返さなかった。
一歩踏み込む。
一人目の首が、胴から離れた。
二人目が悲鳴を上げる前に、顎から脳まで貫いた。
三人目が背を向ける。
逃げようとした。
追いついて、背中から刺した。
三人。
四つ数える間もなかった。
血が、手首まで流れてきた。
五年ぶりだった。
人を殺したのは。
何も感じなかった。
それが、当たり前だと思った。
「ハンス。ここにいろ。動くな」
返事はない。
ハンスは、膝を抱えて座り込んでいた。
レオンは、村へ走った。
村の入口に、門はない。
その代わりに、目印の石がある。
その石に、人がもたれていた。
酒場の主人だった。
動かない。
その先に、村長がいた。
通りに、三人。
その先の家の前に、二人。
どれも知っている顔だった。
レオンは、立ち止まらなかった。
止まったら、進めなくなる。
道場の戸が、外れていた。
中を見た。
九人いた。
全員、木刀を握ったままだった。
刃物を持っている者は、一人もいない。
壁の掛け具に、鉄の剣が三本残っている。
取りに行く時間はあったはずだ。
誰も取らなかった。
床に、帝国兵が二人倒れていた。
生きている。
どちらも意識がない。
手首が折れていた。
膝が砕かれていた。
殺されてはいない。
止められていた。
教えた通りだった。
そして、その後ろから来た兵に、九人が殺されていた。
一人が、まだ構えの姿勢のまま倒れていた。
体が小さい。
体が小さくて、力が弱くて、素振りで息が上がった少年だった。
百回の型を、毎日続けた少年だった。
木刀が、喉元に届く位置で止まっていた。
止めた相手が、その後に彼を斬った。
レオンは、戸口に立ったまま動かなかった。
止めろと教えた。
殺すなではない、殺さずに止めろと教えた。
それが一番いいと言った。
止めた時点で、もう勝っていると言った。
九人が、それを守った。
守って、死んだ。
レオンは、九人に背を向けた。
背を向けるしかなかった。
診療所は焼け落ちていた。
薬草の匂いが、焦げた匂いに変わっている。
その横を、走って抜けた。
自宅の戸口に、男が倒れていた。
うつ伏せだった。
剣を握ったまま、戸を塞ぐ形で倒れている。
その手前に、帝国兵が二つ。
どちらも死んでいた。
倒したのだ。
レオンは膝をついた。
肩を掴んで、仰向けにする。
ヨナスだった。
背中から腹まで、貫かれていた。
前から受けた傷ではない。
戸口に立って、退かなかったのだ。
退かないまま、後ろから来た者に刺された。
「ヨナス」
呼んだ。
返事はない。
首に指を当てた。
アルブレヒトに教わった場所だった。
五年前、診療所で教わった。ここに指を当てれば、生きているかどうかが分かる、と。
動いていない。
ヨナスの上着が、少し開いていた。
折り目のついた紙が、見えている。
抜き取った。
畑の絵だった。
麦が、線でざっくり描かれている。
血で、半分が見えなくなっていた。
レオンは、それを自分の懐に入れた。
そして、戸を開けた。
土間に、二人いた。
アルブレヒトとマルタだった。
アルブレヒトは、うつ伏せに倒れている。
その両手は、前へ伸びていた。
伸ばした先に、帝国兵が一人転がっている。
若い兵だった。
腹に深い傷がある。
その傷の上に、布が当てられていた。
押さえた跡だった。
アルブレヒトが、押さえていたのだ。
倒れている敵の兵の、傷を。
そして、その背中を斬られた。
レオンは、その光景を長く見ていた。
医者は、敵か味方かで治療する相手を選ばない。
昔、言われた言葉だった。
この男は、それを最後まで守った。
守るとは、こういうことだった。
マルタは、その隣にいた。
アルブレヒトの手を、両手で握っている。
息はなかった。
二人の脈を、順番に取った。
どちらも、動いていない。
初めてできた父と、初めてできた母。
同じ日に、同じ部屋で、失った。
奥の部屋の戸が、半分開いていた。
レオンは、そこで一度立ち止まった。
入りたくなかった。
入らなければ、まだ何も終わっていない。
そう思った。
戸を開けた。
床に、ノアが座っていた。
座った姿勢のまま、前に崩れている。
両腕が、前で組まれていた。
その腕の中に、ミアがいた。
背中を丸めて、ミアを隠している。
膝を立てて、腹を庇う形で。
ミアと、腹の子。
両方を、同じ姿勢で守ろうとしていた。
床が、赤かった。
「ノア」
返事はない。
レオンは膝をついた。
肩に手を置く。
その肩が、わずかに動いた。
呼吸だった。
浅い。
だが、あった。
「ノア!」
背中から横腹まで、深く斬られている。
血の出方が、もう変わっていた。
失いすぎている。
触れただけで分かった。
五年前、同じことを自分の体でやられた。
だから、分かる。
「ノア、俺だ」
瞼が動いた。
ゆっくり開く。
焦点が、合っていない。
レオンの顔の辺りを、探すように動いた。
そして、止まった。
「……おかえり」
声だった。
息と、ほとんど区別がつかないほど細い。
だが、言葉だった。
「おかえり」
もう一度、そう言った。
二日前、行ってくると言った。
待ってると言われた。
レオンは、何も言えなかった。
「傷を、押さえる」
「……いいの」
「押さえる」
「レオン」
ノアの手が、動いた。
上げようとして、上がらない。
「けがは」
「なんだ」
「けがは、ないの」
レオンの喉が、詰まった。
自分の傷を聞かれている。
この血の中で、人の怪我を聞いている。
医者の娘だった。
最後まで、そうだった。
「ない」
「よかった」
ノアの口の端が、動いた。
笑ったのだと、少し遅れて分かった。
「ミアを」
抱えた腕を、ほどこうとしている。
上がらない腕で、それをやろうとしている。
「見ないで」
「ノア」
「みないで、いいから」
レオンは、ミアの手を見た。
小さな手が、ノアの服を握っている。
握ったまま、力が入っていない。
外そうとした。
外せなかった。
指が、開かない。
「……そのままで、いい」
ノアが言った。
「いっしょに、いるから」
レオンは、手を引いた。
そのままにした。
それから、ノアの腹に手を置いた。
二日前、同じ場所に手を当てた。
動くかと聞いた。
夜はよく動くと言われた。
今は寝てると言われた。
手のひらの下に、何もなかった。
音もない。
熱も、もう残っていない。
レオンは、その手を置いたまま言った。
「リン」
ノアの瞼が、震えた。
「リン」
もう一度、呼んだ。
「……よんだ」
ノアの声が、かすかに揺れた。
「うん」
その一言で、こらえていたものが切れた。
レオンは、ノアを抱きしめた。
力を入れないように。
それでも、腕が震えた。
「ノア」
声が、割れた。
「行くな」
「……」
「俺を、一人にしないでくれ」
言ってしまってから、最悪の言葉だと分かった。
この体で、この血の中で、行くなと言われて、どうしろというのか。
分かっていても、止まらなかった。
「一人にしないでくれ」
「頼む」
「一人にしないでくれ」
同じ言葉を、何度も言った。
頬に、何かが触れた。
ノアの手だった。
上がらないと言っていた腕が、上がっていた。
震えながら、レオンの頬に当たっている。
指が、濡れたところをなぞった。
「……ぬれてる」
レオンは、初めて自分が泣いていることに気づいた。
「泣いてるの」
ノアの口が、少しだけ動いた。
「あなたの、ほう」
四年前と、同じ言葉だった。
ミアが生まれた日に、同じことを言われた。
その日は、笑っていた。
「ごめんね」
ノアが言った。
「さいごまで」
息を継ぐ。
「いっしょに、いられなくて」
「ノア」
「もっと」
また、継いだ。
「しあわせに、してあげたかった」
レオンは、首を振った。
何度も振った。
「充分だった」
ようやく、それだけ言えた。
「ほんと」
「本当だ」
「よかった」
ノアの手が、頬から滑った。
落ちるのを、レオンが掴んだ。
掴んで、自分の頬に戻した。
「レオン」
「ここにいる」
「やくそく」
レオンは、ノアの顔を見た。
二日前の夜だった。
ふたつ、と言われた。
幸せになること。
守るために強くあること。
「……覚えている」
「うん」
ノアの目が、少し動いた。
レオンの後ろを見ようとしたのかもしれない。
もう、見えていなかったのかもしれない。
「まもって」
それだけ言った。
レオンは、頷いた。
頷いたことが伝わったかどうかは、分からない。
ノアの呼吸が、一度、大きくなった。
そして、次が来なかった。
来るのを待った。
待った。
来なかった。
レオンは、ノアの首に指を当てた。
アルブレヒトに教わった場所だった。
動いていない。
ミアの首に、指を当てた。
動いていない。
腹に置いた手は、外さなかった。
柱の陰で、音がした。
布が擦れる音だった。
「……レオン殿」
レオンは振り向いた。
エレナだった。
柱に背を預けて、座り込んでいる。
腹を押さえた手の下から、血が流れていた。
「生きているか」
「はい」
「動くな」
「動けません」
エレナの顔は、白かった。
それでも、目は開いていた。
「いたのか」
「ずっと」
「なぜ、声をかけなかった」
「かけられませんでした」
エレナは、壁に頭を押しつけた。
「奥様が、まだ息をしておられるのを、私は知っていました」
「……」
「知っていて、何もできませんでした」
レオンは、何も言わなかった。
「報告します」
「後でいい」
「今、します」
エレナの呼吸が、浅い。
「街道から戻ったのが、昼過ぎです。もう、始まっていました」
「帝国軍か」
「はい。部隊規模。旗は黒でした」
黒い旗。
レオンは、それについて何も言わなかった。
「ベルガーが、戸口に立ちました」
「ああ」
「私は、窓から入る者を止めました。三人までは、止めました」
「四人目で、刺されました」
「そこから、動けなくなって」
「見ていました」
「全部、見ていました」
レオンは、エレナを見た。
「ご両親が、前に出られました」
エレナが言った。
「先生は、最後まで手を上げませんでした」
「知っている」
「奥様は」
エレナの声が、一度切れた。
「兵に、言っていました」
「何と」
「この子たちだけは、と」
「……」
「何度も」
「この子たちだけは、と」
「何度も、言っていました」
エレナは、そこで目を閉じた。
「申し訳、ありません」
「何がだ」
「間に合いませんでした」
レオンは答えなかった。
答える言葉を持っていなかった。
日が落ちた。
部屋が暗くなっていく。
灯りをつける者は、もういない。
レオンは、ノアの前に座ったままだった。
ミアの手は、まだ服を握っている。
腹に置いた手は、外していない。
やがて、レオンは立ち上がった。
暗い部屋の中を、一度だけ見回した。
ノア。
ミア。
その腹の中。
土間のアルブレヒトとマルタ。
戸口のヨナス。
そして、床。
レオンは、床板を見た。
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