第17話 許された幸せ
ミアが寝入ったのは、夜も更けてからだった。
一日じゅう父の後をついて回っていたせいで、寝床に入っても興奮が抜けない。三度起き上がり、四度目でようやく眠った。
「疲れたでしょう」
ノアが小声で言う。
「王都の任務より疲れた」
「嘘ばっかり」
「本当だ」
ノアが笑って、灯りの芯を短くした。部屋が少し暗くなる。
レオンは、ミアの寝顔を見ていた。口を半分開けて、掛布を蹴っている。掛け直すと、また蹴った。
「ノア」
「うん」
「少し、話したいことがある」
ノアの手が止まった。
「うん」
それだけ言って、レオンの隣に座った。
「王都で、一人の剣士に会った」
「うん」
「クリス・ヴァルハイトという。王国で一番強いと言われている男だ」
「強いの、あなたより」
「まだ若い。伸びる」
「そう」
「その男が、酒場で兄の話をした」
レオンは、膝の上で手を組んだ。
「兄の名前は、エルンスト・ヴァルハイト。六年前、帝国との戦いで死んだ」
ノアは黙っている。
「一騎打ちだった。両軍が見ている前で、指揮官同士が向き合った」
「……うん」
「相手の指揮官は、その男の右腕を斬り落とした」
声が、自分の耳に遠く聞こえた。
「次に、左腕を落とした」
「そのあと、両足を」
「順番に落とした」
「一度に殺せば済むことを、そうしなかった」
「両軍に見せるためだ」
「最強の騎士がこうなる、と見せれば、次の戦が楽になる」
「そういう計算だった」
ノアの呼吸が、一度止まったのが分かった。
「最後に、首を刎ねた」
「そのとき、俺は」
言葉が途切れた。
言わなければ終わらない。
「笑っていた」
灯りが、じじ、と鳴った。
「理由はない。ただ、笑っていた。そのことを、俺は六年間忘れていた」
ノアは何も言わなかった。
「クリスに話を聞かされて、思い出した。全部だ。順番も、笑ったことも」
レオンは、組んだ手を見つめた。
「それから、酒場の外で吐いた。そうしたら、あの男が背中をさすってくれた」
「……」
「兄を殺した男に、水をくれた」
「そして、鍛えてくれと言った」
「俺は、引き受けた」
「名前も言わず、正体も言わず、引き受けた」
顔を上げられなかった。
「五年前、お前に話したときは、何百人も殺したと言った。数でしか言えなかった。だが、数じゃない。一人ずつ、こういうことをしてきたんだ」
「その一人の弟が、今、俺を先生と呼んでいる」
部屋が、静かだった。
ミアの寝息だけが続いている。
ノアは、長い間、何も言わなかった。
責められる、と思った。
それでいい、とも思った。
やがて、ノアが動いた。
レオンの組んだ手に、自分の手を重ねてくる。
「その人の弟さんは」
ノアの声は、掠れていた。
「あなたを、慕っているのね」
「……ああ」
「残酷な話ね」
「そうだ」
「あなたにとっても、その人にとっても」
ノアの手が、少し強くなった。
「でもね、レオン」
「やめないで」
レオンは、顔を上げた。
「何を」
「その人に剣を教えるの、やめないで」
ノアの目は濡れていた。それでも、逃げていない。
「……やめるべきだと思っていた」
「駄目」
「なぜだ」
「あなたが逃げたら、あの人は一人で強くなろうとする」
ノアは、はっきり言った。
「そして、いつか死ぬ。無理をして、届かない相手に挑んで」
レオンは黙った。
「あなたが奪ったものは、返せない。もう戻らない。私だって、それは許せない」
「許せないのか」
「許せない」
ノアは頷いた。
「あなたが殺した人の家族のことを考えたら、許せるわけがない」
胸の奥が、冷たくなった。
それでも、ノアは手を離さなかった。
「でも、それはその人たちの許しであって、私の許しじゃない。私が許すかどうかは、別の話なの」
「……」
「返せないものの代わりに、できることが一つだけある」
ノアは、レオンの手を握り直した。
「その弟さんを、死なせないこと」
「それだけ」
「それだけは、あなたにしかできない」
レオンは、動けなかった。
「お前は」
声が震えた。
「俺を、怖くないのか」
「怖い」
即答だった。
「今の話を聞いて、怖くないわけがない」
「なら」
「でも、もっと怖いことがある」
ノアが、こちらを見た。
「あなたが、自分を許さないまま生きること」
「俺は、許される人間じゃない」
「知ってる」
ノアの目から、涙がこぼれた。
「知ってるわよ。何度も聞いた」
「なら」
「でもね、あなた、六歳のときに何をしてた」
「……何を」
「剣を持たされてたんでしょう。友達を作るなって教えられて。隣の寝床の子が消えても、聞いてはいけないって」
五年前、離脱症状の底で話したことだった。覚えているのか、と思った。
「あなたが選んだの、それ」
「選んでいない」
「そうでしょう」
ノアは、涙を拭わなかった。
「選ばなかったことの責任は、あなたにある。ちゃんとある。でも、選べなかったことの責任は、あなたにはない」
「そんな線は、引けない」
「引けるわよ」
ノアは言い切った。
「私が引く」
「お前が」
「私が引く。あなたは自分で引けないから、私が引く」
そこで、ノアの声が崩れた。
「あなたも、被害者なの」
「違う」
「両方なの」
「ノア」
「両方なのよ」
ノアが、レオンの胸に額を押しつけた。
肩が震えている。
「あなたを育てた国が、あなたを殺そうとして、あなたは逃げてきて、うちの前で死にかけてた」
「……」
「あんなにやせて、あんなに震えて、ありがとうも言えなかった人が、被害者じゃないなんて、誰が決めたの」
レオンの喉が、詰まった。
「私が決めた。あなたは、両方だって」
ノアが顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「だから、幸せになって」
「……」
「うんと、幸せになって」
その一言で、こらえていたものが切れた。
声を上げないようにした。
ミアが寝ている。
それだけは守りたかった。
だから、二人とも声を殺して泣いた。
肩を震わせながら、互いの背に手を回して、長いあいだそうしていた。
「罰じゃないのか」
やっと、そう聞けた。
「何が」
「幸せになることが」
「違う」
ノアは、首を振った。
「あなたが不幸なままでいたら、あなたに関わった全部が無駄になる。私も、ミアも、父さんも、この村も」
「無駄には」
「無駄よ。だから、幸せになって。ちゃんと、堂々と」
レオンは、ノアの髪に顔を埋めた。
「分かった」
「約束」
「約束する」
その約束を、レオンは生涯で最も真剣に交わした。
翌朝は、よく晴れた。
庭で、ミアが菩提樹の幹を叩いていた。
「おとうさん、これ、のぼれる?」
「まだ無理だ」
「なんで」
「細いからな。折れる」
ミアは不満そうに幹を見上げた。
「おおきくなったら、のぼれる?」
「登れる」
「いつ」
「お前が、この木より大きくなったら」
ミアは背伸びをして、幹の先に手を伸ばした。届かない。
「まだ、木のほうが大きいな」
「くやしい」
レオンは笑った。
「ミア」
「なに」
「次に帰ってきたら、一緒に登ろう」
「やくそく?」
「約束だ」
小さな手が、指を一本立てた。
レオンは、その指に自分の指を絡めた。
昼、診療所に顔を出した。
アルブレヒトは、薬草を刻んでいた。手つきは、五年前と変わらない。
「お産は、あと十日ほどだろう」
「立ち会えますか」
「視察が半月なら、間に合う」
「間に合わせます」
「間に合わせろ」
アルブレヒトは、手を止めなかった。
「ミアのときは、私が取り上げた。今度は、お前が最初に抱け」
「……はい」
「マルタが、明日から泊まり込む。お前が村を離れている間も、ずっとそうしていた」
「お世話になっています」
「孫の世話だ。世話ではない」
刻む音が続いた。
「レオン」
「はい」
「お前は、もう大丈夫だ」
手が止まった。
「五年前、この部屋で暴れていた男とは、別人だ」
アルブレヒトが、初めて顔を上げた。
「よくやった」
レオンは、何も返せなかった。
この男から、その言葉をもらう日が来るとは思っていなかった。
午後、道場へ行った。
ハンスが、年下の生徒たちを教えていた。声の出し方が、いつの間にか自分に似ている。
「先生!」
「続けてくれ」
「見ててください」
組み手が始まった。
一人が倒される。木刀が、喉元で止まる。
ぴたりと、寸前で。
「よし」
レオンは頷いた。
「教えは、守ってるだろ」
ハンスが胸を張った。
「全員、止められるようになりました」
「上出来だ」
「先生」
ハンスが、真面目な顔になった。
「俺、道場を続けていいですか。先生が王都にいる間も、ずっと」
「任せる」
「いいんですか」
「お前に任せると、昔から決めていた」
ハンスの顔が赤くなった。
「……頑張ります」
その日、レオンは生徒たち全員と一本ずつ打ち合った。
全員が、最後に手を止めた。
止めることを、誰一人忘れていなかった。
夕方、ヨナスが走ってきた。
「レオンさん! 村の人に、酒を飲ませてもらいました!」
「顔が赤いぞ」
「すみません」
「エレナはどうした」
「街道の先まで見に行くって、朝から」
律儀な男だ、と思った。
「あの、レオンさん」
ヨナスが、改まった顔をした。
「春の式、来てくれますか」
「行く」
「本当ですか」
「上に掛け合うと言っただろう」
「はい!」
ヨナスが、深く頭を下げた。
「ハンナに、話してるんです。すごい人の下についたって」
「大袈裟だ」
「大袈裟じゃないです」
顔を上げたヨナスは、笑っていた。
「俺、レオンさんと働けて、本当によかったです」
その夜、ノアと縁側に座った。
腹が、今日はよく動いているという。
「王都の近くに、家を見つけた」
「本当?」
「丘の上だ。庭がある」
「じゃあ、木を植えられるね」
「同じ木を植える。この木から、種を持っていく」
ノアが笑った。
「じゃあ、この子が歩けるようになったら、みんなで行こう」
「四人でな」
「四人で」
言葉にすると、実感があった。
ノア、ミア、リン、自分。
四人。
その数を、レオンは口の中で何度か繰り返した。
「ねえ」
ノアが、肩に頭を預けてきた。
「なんだ」
「あなたの強さね」
「ああ」
「誰かを守るためのものであってほしい」
レオンは、夜の庭を見ていた。
「……そうする」
「約束して」
「約束する」
「よかった」
ノアの声が、だんだん眠そうになっていく。
「これで、ふたつ」
「ふたつ?」
「今夜の約束。幸せになるって、守るために強くあるって」
「そうだな」
「守ってね」
「守る」
ノアは、それを聞いてから眠った。
レオンは、しばらく動かなかった。
肩の重みを、そのままにしておきたかった。
庭の菩提樹が、風に揺れている。
家の中で、ミアが寝返りを打つ音がした。
義父と義母が、隣の家にいる。
道場には、教えを守った弟子たちがいる。
王都には、慕ってくる部下と、剣を預けてくれる男がいる。
十日後には、娘が生まれる。
春には、丘の上の家に行ける。
これ以上、望むものはなかった。
本当に、何もなかった。
その夜が、レオンの人生で最後の、何ひとつ失っていない夜だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




