第15話 守護者としての評価
朝の訓練場はまだ冷えている。
「遅い」
レオンが言うと、クリスの顔が歪んだ。
「今、それを言うのか」
「事実です」
「兄貴と同じことを言うな」
「お兄さんは、正しかったんですね」
クリスは唸りながら木剣を構え直した。あれから、朝の稽古は一日も休まれていない。文句を言う日は多いが、来ない日はない。
半年前まで、この男はレオンを見下していた。今は、日の出前から待っている。
「もう一本」
「三十本目です」
「数えてたのか」
「数えるのが仕事です」
クリスが吹き出した。木剣が振り下ろされる。レオンは半歩で外した。
その頃、レオンのもとに副官がついた。
「エレナ・ヴォスです。本日より、指揮下に入ります」
短い髪と、感情の読めない目。年はレオンより少し下に見えた。姿勢は、教本を写したように正しい。
「よろしく頼む」
「一つ、伺ってよろしいですか」
「なんだ」
「あなたの経歴書、内容が薄すぎます」
レオンの手が止まった。
「出身地、前職、従軍歴。三行で終わっています」
「書くことがなかった」
「上級将校の経歴書が三行で通るのは、殿下のお声がかりだからです」
エレナは表情を変えない。
「私は、それを不服だとは申しません。ただ、把握しておきたいのです。自分の上官が何者なのかを」
「猟師だった」
「はい、そう書いてありました」
「それが答えだ」
「承知しました」
エレナは引いた。あっさりと引いたが、納得したようには見えなかった。
以後、彼女は何も聞かなかった。ただ、レオンが剣を握るたび、その手元を見ていた。
最初の任務は、街道を荒らしていた野盗の討伐だった。
隊は二十。相手は五十を超える。数の上では劣っている。
レオンは、夜のうちに隊を二つに割った。
正面に十。街道の両側の林に五ずつ。
「明かりを焚け。ただし、正面だけだ」
夜が明ける前、野盗が動いた。
明かりを見て、正面へ集まってくる。
「引け」
十人が退がる。
野盗が追う。
林に入る。
「囲め」
両側から五ずつ。
前は塞がれている。
後ろは退がった十人が塞いだ。
包まれた瞬間、野盗の動きが止まった。
「武器を捨てろ」
レオンの声は大きくない。
それでも、林の中を通った。
数人が捨てた。
残りが動いた。
レオンが前へ出る。
峰で手首を打つ。
柄頭で顎を跳ねる。
足を払い、地面へ伏せる。
三人が倒れるまでに、五つ数える間もなかった。
「捨てろ」
もう一度言った。
全員が捨てた。
「一人も、殺さなかったのですか」
報告を聞いたエレナが、書き取る手を止めた。
「必要がなかった」
「規定では、抵抗した賊は討ち取ってよいことになっています」
「よい、と書いてあるだけだ。しなければならないとは書いていない」
エレナは、少しの間、手を止めたまま動かなかった。
「……承知しました」
書類には、討伐、捕縛五十二名、死者なしと記された。
その報告は軍内で妙な評判を呼んだ。
殺さずに終わらせる将校がいる。そういう話になった。
好意的に受け取る者と、甘いと嘲る者に分かれた。レオンはどちらにも何も言わなかった。
ただ、任務が増えていった。
「レオンさん!」
夏の初め、そう呼びながら駆けてくる男がいた。
「本日より配属されました、ヨナス・ベルガーです!」
まだ二十歳を少し過ぎたばかりだろう。日に焼けて、声が大きい。
「よろしく頼む」
「あの、野盗の話、聞きました。五十人を一人も殺さずに捕らえたって」
「隊でやったことだ」
「でも、指揮したのはレオンさんでしょう」
ヨナスの目がまっすぐ向いていた。
「俺、そういうのが一番かっこいいと思うんです」
その言い方が、村の子供たちに似ていた。
「俺、兄弟がいなくて。だから、こう言ったら失礼かもしれないけど」
ヨナスは頭を掻いた。
「兄貴みたいだなって、思いました」
レオンは返答に困った。
数日のうちに、ヨナスは荷運びから書類の整理まで、頼まれる前に動くようになった。放っておくと、レオンの剣まで手入れしようとする。
「自分でやる」
「いいんですよ、これくらい」
「自分でやる」
「はい」
素直に引き下がる。そして翌日も来る。
エレナがそれを横目で見ていた。
「ベルガーは、あなたに懐きすぎです」
「そうだな」
「距離を取るべきだと申し上げています」
「なぜだ」
「戦場で、懐いた者を失うのは、そうでない者を失うより重いからです」
正しかった。反論はできなかった。
「ベルガー」
レオンは呼んだ。
「なんですか」
「剣の手入れは、自分でやれ。俺のではなく、お前のだ」
「はい!」
意味が伝わったかどうかは分からない。ヨナスは嬉しそうに走っていった。
その夜、ヨナスが酒を持ってきた。
「聞いてください。俺、結婚するんです」
「そうか」
「ハンナっていいます。同じ村の、幼馴染で」
懐から、折り目のついた紙を出した。
「これ、ハンナが描いた絵です。うちの畑です」
下手な絵だった。
麦が線でざっくり描かれている。
「式は、来年の春に。休みが取れたら」
「取れるようにする」
「本当ですか」
「上に掛け合う」
ヨナスはその晩ずっと笑っていた。
秋になる頃、村から手紙が届いた。
ノアの字だった。腹は順調に大きくなっている。ミアは走るようになった。義父母がよく面倒を見てくれている。村は変わりない。
最後に、一枚の紙が同封されていた。
紙の真ん中に、丸が三つ。
その下に、線が二本ずつ。
「これはミアが描きました。あなただそうです」
そう書き添えられていた。
レオンはその紙を長く見ていた。
どれが自分なのか、分からない。
分からないまま、懐に入れた。
その頃から、王都近郊の家を探し始めた。
第二子が生まれて落ち着けば、家族を呼び寄せたい。そのための家だ。
「川沿いは安いですが、湿気ます」
エレナがなぜか物件を調べてきた。
「頼んでいないぞ」
「上官の生活が安定することは、隊の利益です」
「そういうものか」
「そういうものです」
丘の上の、小さな家が候補になった。庭がある。菩提樹を植える場所もある。
「悪くないな」
「値は張ります」
「なんとかする」
来年の春には手が届くはずだった。
秋の終わりに、訓練場へ老人が来た。
朝の早い時間だった。レオンは一人で素振りをしていた。クリスはまだ来ていない。
「精が出るな」
振り向くと、柵の外に男が立っていた。
年は六十を超えているだろう。背は高くない。着ているのは擦れた外套と、色の落ちた革の胴着だった。従者らしい男が二人、離れた場所に控えている。
「関係者以外は入れません」
「そう言うな。見物だ」
老人は柵を越えてきた。止める間がなかった。
「あんたが、野盗を五十人捕まえた男か」
「隊でやったことです」
「一人も殺さなかったと聞いた」
「必要がなかったので」
老人は笑った。歯が何本か欠けている。
「一本、頼めるか」
レオンは相手の手を見た。指の節が太い。爪が割れている。剣を握って生きてきた手だった。
「ご身分を伺っても」
「ただの年寄りだ」
答えになっていなかった。
それでもレオンは木刀を渡した。断る理由を探すほうが面倒だった。
構えを見て、違和感を持った。
型がない。
王国の剣術でもなく、帝国の剣術でもない。膝を深く曲げ、木刀を体の前で低く寝かせている。教本に載っていない構えだった。
「お先にどうぞ」
老人が言った。
レオンは踏み込んだ。
小手を狙う。届く距離だった。
木刀が空を切った。
老人が半歩だけ引いていた。引いたのではない。体を捻って、間合いを殺していた。
そして返しが来た。
木刀ではなかった。
肘だった。
顎の下に入ってくる。レオンは頭を引いた。掠めた。
「若いな」
老人が笑う。
次の一撃が足に来た。払いではない。膝の横を蹴っている。
レオンは体重を逃した。逃したところへ木刀が突き出された。
剣術ではなかった。
殺し方だった。
戦場で、生き残るためだけに磨かれた動きだった。
レオンは間合いを取り直した。
取り直したところで、砂が飛んできた。老人が足で蹴り上げていた。
目をつぶらなかった。つぶれば終わる。
顔を横へ振って、砂を避けた。避けた先に老人の木刀があった。
肩に当たった。
鈍い音がした。
「一本」
老人が言った。
レオンは肩を押さえた。押さえてから、少し笑った。
久しぶりだった。人に打たれたのは。
「もう一本、お願いします」
「おう」
二本目は長引いた。
同じ手は通じない。砂も、肘も、蹴りも、二度目には読めた。
だが老人は次の手を持っていた。
組み付いてきた。
木刀を捨てて、レオンの腕を掴んだ。そのまま体重をかけて倒しにくる。
レオンはそれを引き剥がさなかった。剥がせば投げられる。
代わりに一緒に倒れた。倒れながら、体の向きを入れ替えた。
背中が地面に着く前に、老人の首の横へ手を当てていた。
「……ここまでです」
老人は動かなかった。それから、息を吐いた。
「参った」
レオンは手を離し、立ち上がって老人を引き起こした。
握った手が、ひどく硬かった。
「久しぶりだな、こんなに楽しかったのは」
老人は肩を回している。
「十年は、まともにやってない」
「十年、何をしておられたのですか」
「机の前で座っとった」
そう言って、また笑った。
砂を払いながら、老人が聞いた。
「お前、どこの出だ」
レオンの手が止まった。
「……北です」
「北のどこだ」
「……」
老人はそれ以上聞かなかった。
「言わんでいい」
木刀を柵に立てかける。
「俺も、聞かれて困る時期があった」
「そうですか」
「傭兵だったんだ」
レオンは顔を上げた。
「名も家もない。銭で人を殺す仕事だ」
老人は柵にもたれた。
「三十年やった。国を七つ渡った。仲間は全部死んだ」
「……」
「それで気づいた。俺は、守るために戦ったことが一度もなかった」
風が吹いて、訓練場の砂が流れた。
「それから、この国に来た」
「なぜです」
「金のいい仕事があったからだ。深い理由はない」
老人は肩をすくめた。
「だが、ここで初めて、守れと言われた。壁の内側に人がいるから、通すなと」
「……」
「そのときに初めて、剣を握るのが楽しくなかった」
レオンは、その言葉を聞いた。
聞いて、動けなかった。
「楽しくないほうが、正しいんだと思ったよ」
老人はそう言って、こちらを見た。
「お前、さっき肩をやられて笑ったな」
「……はい」
「ああいう顔をする奴は、たいてい戦場で人を殺しすぎてる」
レオンは答えなかった。
「責めてはおらん」
老人は柵を越えて外へ出た。
「この国はな、出自をやたら聞く。それなのに、出自で決めん」
「……」
「決めるのは、何をしたかだ。俺はそれで拾われた」
一歩行って、振り向いた。
「お前も、そうなるだろう」
「私は」
「お前が何をしてきたかは知らん。だが、五十人を生かして帰らせた男だ」
そう言って、手を上げた。
「また来る」
老人が去ってしばらく、レオンは立っていた。
肩が痛い。痛みがあることが、なぜか嬉しかった。
「レオン殿」
背後でエレナの声がした。振り向くと、顔が白かった。
「見ていたのか」
「途中から」
「珍しい客だった。傭兵上がりだと言っていた」
エレナは答えなかった。
「ヴォス」
「……はい」
「あの人は、誰だ」
エレナは一度、唾を飲んだ。
「陛下です」
レオンは、その言葉の意味を理解するのに少しかかった。
「……陛下」
「ローレンス王国国王。セレスティア殿下の、父君です」
訓練場の砂が、また風に流れた。
「木刀を、渡した」
「はい」
「肩を、打たれた」
「打たれました」
「首に、手を当てた」
「当てました」
エレナは目を伏せた。
「……不問だと思います」
「なぜだ」
「笑っておられました。帰り際に、従者へこう言われたそうです」
「なんと」
「面白い男がいた、と」
レオンは肩を押さえたまま、門のほうを見た。
もう、人影はなかった。
その一方で、国境からの報告が増えていた。
帝国側の巡回が、以前より内側まで入ってくる。村が焼かれる。荷が奪われる。どれも小さな事件だった。
だが、数が多い。
レオンは、報告書を全部集めた。日付と場所を、地図に落としていく。
三晩かかった。
点が並んだとき、手が止まった。
「エレナ」
「はい」
「これを見てくれ」
エレナが覗き込む。
「国境沿いに、点が散っています」
「散っていない」
レオンは指で線を引いた。
「三つの束になっている。どれも、街道に近い」
「……偶然では」
「偶然で街道を選ぶ盗賊はいない」
レオンは、地図の上に指を置いたまま言った。
「これは荒らしているんじゃない。測っているんだ」
「測る」
「軍を通せるかどうかを、確かめている」
エレナが黙った。
顔から、いつもの無表情が少しだけ剥がれていた。
「なぜ、そう分かるのですか」
レオンは答えなかった。
答えは一つしかない。
かつて、同じことを自分がやったからだ。
報告書はゴードウィンに上げた。
「根拠は」
「点の並び方です」
「それだけか」
「それだけです」
ゴードウィンは、地図をしばらく見ていた。
やがて、顔を上げた。
「お前は、これをどこで習った」
レオンの喉が一度乾いた。
「……勘です」
「そうか」
ゴードウィンは、それ以上聞かなかった。
「預かる」
地図を巻いて、脇に抱える。
「他の者には話すな。騒ぎになるだけだ」
「はい」
「レオン殿」
去る前に、ゴードウィンは一度だけ振り返った。
「勘というものは、経験の別の名だ」
それだけ言って、部屋を出ていった。
その夜、レオンは一人で地図の写しを開いた。
国境。街道。三つの束。
指でなぞっていく。
そして、止まった。
国境から内側へ、指を三日分だけ動かしたところ。
そこに、小さな文字がある。
カルム村。
レオンはその一点を見つめた。
村が国境に近いことは、知っていた。
だが、それがどれほど近いのかを、地図の上で確かめたのは、この夜が初めてだった。
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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
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