第14話 仇の面影
「黒い甲冑」
レオンは、その言葉を口の中で繰り返した。
声が出ていたことに、自分でも気づかなかった。
「知ってるのか」
クリスが顔を上げる。
「いえ」
「まあ、帝国の兵なんてどれも似たようなもんだろうけどな」
クリスは酒杯を傾けた。
「でも、そいつは違ったらしい。兜から足先まで、全部黒い。夜みたいだったって」
レオンは、自分の指先を見た。
震えていない。
それが不思議だった。
「兄の名前は、エルンストだ」
クリスが言った。
「エルンスト・ヴァルハイト。王国軍で一番強い騎士だった。誇張じゃない。本当に、一番だった」
「……そうですか」
「六年前だ。国境の砦を取り返す戦いだった」
クリスは、テーブルの木目を指でなぞった。
「兄貴は先陣にいた。そこへ、帝国の部隊が突っ込んできた」
黒い牙。
その名を、クリスは言わなかった。知らないのかもしれない。
「兄貴は、指揮官同士の一騎打ちを申し込んだ。そうすれば、両軍の兵を無駄に死なせずに済む。そういう男だったんだ」
レオンは、酒杯を置いた。
置いた手を、そのまま膝に下ろす。
「相手は、受けたんですね」
「受けた」
クリスは頷いた。
「そこまでは、立派な話だ。両軍が武器を下ろして、二人が真ん中で向き合った」
一度、言葉が止まった。
「ここからは、生き残った従者に聞いた話だ」
「……」
「聞くか」
レオンは、しばらく答えなかった。
聞かないという選択が、この場にはない。
「聞きます」
「そうか」
最初の一合で、兄貴の剣が折れたらしい。
クリスの声が、少し低くなった。
「折れた剣で、それでも兄貴は構え直した。相手は待っていた。待って、兄貴が踏み込むのを見てから、右腕を斬り落とした」
レオンは動かない。
「次に、左腕」
「次に、両足」
「順番に、だ」
「ひとつずつ、間を置いて」
「両軍が見てる前で」
クリスの指が、テーブルの木目から離れた。
「殺すつもりなら、最初の一合で殺せたはずだって、従者は言ってた」
「そうでしょうね」
答えた声が、自分のものに聞こえなかった。
「兄貴は、それでも何か言おうとしたらしい。声は出なかったって」
「……」
「そこで、そいつは笑ったんだ」
思い出した。
砦の前。
六年前。
折れた剣を構え直した男。
無駄なことを、と思った。
無駄だから、少し長く遊んだ。
右腕。
左腕。
膝。
もう一方の膝。
順番に落とした。
なぜそうしたのか、理由はある。
両軍が見ていた。
見せるためだった。
王国軍最強が、こうなる。
それを見せれば、次の戦は半分楽になる。
合理的な判断だった。
だから、そうした。
そして最後に。
倒れた男の顔を、兜の奥から見下ろした。
何か言おうとしていた。
口だけが動いていた。
聞こえなかった。
聞く気もなかった。
そのとき、自分は。
笑っていた。
理由はない。
ただ、笑っていた。
首を刎ねたのは、その後だ。
「レオン?」
呼ばれて、視界が戻った。
「顔が、真っ白だぞ」
クリスが、身を乗り出している。
「悪い、話しすぎたな。こんな話、聞かせるもんじゃなかった」
「いえ」
立ち上がろうとして、テーブルに手をついた。
「少し、外へ」
「おい」
レオンは、店の戸を押した。
路地の空気は冷たかった。
数歩歩いて、壁に手をつく。
胃の奥から、一気に押し上がってきた。
石畳の上に吐いた。
二度。
三度。
腹の中が空になっても、まだ止まらない。
酒のせいではない。
自分の中から出ている。
六年前の自分が、出てきている。
そう思った。
拭えない。
吐き出せば消えるものではない。
それが分かっているのに、体が勝手に繰り返す。
「先生、大丈夫か」
背中に手が当たった。
温かい。
大きな手が、上下にさすっている。
クリスだった。
「ほら、水」
竹筒を差し出される。
「飲め。無理に飲まなくていい。口をすすぐだけでもいい」
レオンは受け取った。
受け取ってしまった。
「悪いな。俺の酒が強すぎたか」
違う。
「兄貴の話が、きつかったか」
違う。
「お前、そういう顔してるもんな」
クリスが笑う。
「見た目は怖いのに、中身は優しいんだろ」
その一言が、一番こたえた。
背中をさすってくれているのは、自分が殺した男の弟だ。
自分が笑いながら首を刎ねた男の、弟だ。
そして今、心配されている。
レオンは、口をすすいだ。
石畳に水を吐く。
何も言えなかった。
酒場には戻らなかった。
二人並んで、王都の壁沿いを歩いた。
夜警の松明が、遠くで揺れている。
「兄貴を殺した男だけどな」
クリスが、前を見たまま言った。
「呼び名は伝わってる。ダークナイトだ」
レオンは歩き続けた。
足を止めたら、気づかれる。
「帝国じゃ、そう呼ばれてたらしい。本当の名前は、誰も知らない。顔を見た者もいない」
「……そうですか」
「探したんだ。六年、ずっと」
クリスの声が、少しだけ硬くなった。
「でも、去年、噂が流れてきた」
「噂」
「ダークナイトは、帝国に処刑されたって」
レオンの足が、わずかに乱れた。
気づかれてはいない。
「叛逆罪だそうだ。皇帝に逆らって、殺されたと」
クリスは立ち止まった。
「悔しかった」
振り返る。
「俺が殺すはずだったのに。こっちが六年かけて強くなってる間に、あいつは自分の国に殺された。それも、叛逆罪で」
「……」
「兄貴のことなんて、関係ないところで死んだんだ」
クリスは、拳を壁に当てた。
強く打ちつけるのではない。ただ、当てただけだった。
「どこにも、ぶつける先がない」
レオンは、そこにいた。
ぶつける先は、目の前にいた。
言えばいい。
俺だ、と。
一言でいい。
そうすれば、この男は剣を抜く。
そして、死ぬ。
自分に勝てるはずがない。
六年鍛えたところで、届かない。
真実を渡すことは、この男を殺すことだった。
だから、言えない。
黙っていることが優しさだなどと、思ってはいけない。
これは、ただの保身だ。
レオンは、そう自分に確認した。
「だから、決めたんだ」
クリスが、顔を上げた。
「あいつはもういない。仇討ちはできない。なら、次だ」
「次」
「帝国は、また来る。国境の報告を見てれば分かる。次に来たとき、今度は俺が止める」
その目に、闘志が戻っていた。
「兄貴ができなかったことを、俺がやる」
クリスは、レオンの正面に立った。
「頼みがある」
「……」
「俺を、鍛えてくれ」
レオンは答えなかった。
「今日、はっきり分かった。俺はまだ全然足りてない。木の棒で三回転がされる程度だ」
「あれは……」
「言い訳するな」
クリスが遮った。
「負けたのは俺だ。そして、お前は強い。理由は聞かない。昔必要だった、それだけでいい」
一歩、詰めてくる。
「お前みたいな剣士になりたい」
その言葉が、胸の内側を裂いた。
なってはいけない。
絶対に、なってはいけない。
「……向いていませんよ、私は」
「教えるのが、か」
「人に教える資格が、ありません」
「資格なんて知らん」
クリスは笑った。
聞いたことのある台詞だった。
誰の言葉だったかを思い出して、レオンは目を伏せた。
「頼む。頭を下げる」
クリスが、実際に頭を下げた。
王国随一の剣士が、路地で、猟師と呼ばれている男に。
レオンは、その頭を見下ろしていた。
断るべきだ。
関われば、いつか知られる。
知られれば、この男は自分を殺そうとする。
そして殺されるのは、この男の方だ。
断れ。
そう思った。
「……分かりました」
口が、勝手に動いた。
クリスが顔を上げる。
「いいのか」
「ええ」
引き受けた理由を、レオンは自分の中で探した。
疑われたくないから、ではない。
断る言葉が思いつかなかったから、でもない。
これは罰だ。
そう思おうとした。
思ってから、それも嘘だと気づいた。
罰を自分で選べる立場に、自分がいるはずもない。
ただ、この男の前から逃げてはいけない。
それだけだった。
「ありがとう。師匠」
クリスが、屈託なく笑った。
その呼び名に、レオンの喉が詰まる。
「やめてください」
「なんでだ」
「……先生で、いいです」
村で呼ばれている名だった。
ノアが笑う声と、子供たちの声が、同じ響きで戻ってくる。
それを、この男の口から聞くことになる。
「じゃあ、先生だ」
クリスは頷いた。
「明日から頼む。朝が早くても文句は言うなよ」
軽い足取りで、クリスは歩き出した。
レオンは、その背中を見送った。
見送りながら、思った。
いつか、この男に真実を告げる日が来るのだろうか。
来るとしたら、その日は。
自分が死ぬ日だ。
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