第12話 背中を押す言葉
朝、レオンが目を覚ますと、隣に人影がなかった。
台所から、包丁の音が聞こえてくる。いつもより、少しだけ硬い音だった。
身支度を整え、居間に顔を出す。ノアは、こちらに背を向けたまま、まな板に向かっていた。
「やらなかった後悔の方が、大きいと思うの」
振り返らずに、ノアがそう言った。
レオンは、その言葉に、しばらく何も返せなかった。
「見抜いていたのか」
「毎晩、寝返りばかり打ってるじゃない」
ノアが、ようやくこちらを向く。
「断ったはずなのに、ちっとも晴れやかな顔をしていない」
図星だった。取り繕う言葉も、見つからなかった。隠しているつもりが、案外筒抜けだったらしい。
「行きたいなら、行けばいい」
「この村を離れたくないと言ったのは、俺だ」
「本音は、違うんでしょう」
ノアの目に、責める色はなかった。ただ、静かに見透かすような光があるだけだ。
炉の火が、パチリと爆ぜる。その音だけが、しばらく部屋に響いていた。
「あの日、あなたが助けに走った姿を、私は見ていない。でも、あなたの目を見れば分かる。今も、あの時のことを思い出してるって」
レオンは、答えられなかった。
「怖いなら、それでもいい。でも、行きたいのに行かないのは、違うと思う」
窓の外で、風が枝を揺らしている。長い沈黙の後、レオンは口を開いた。
過去のことを一切問わず、ただ寄り添い続けてくれたこの女。どれだけ助けられてきたことか。改めて、その温かさが身に染みた。
「もし、行けば」
「うん」
「お前と、ミアと、離れることになる」
「知ってる」
「それでも、いいのか」
ノアは、少し考えるように黙り込んだ。窓辺の灯りが、瞬きの合間に揺れている。
「寂しいに決まってる。でも、あなたが後悔したまま生きるほうが、もっと嫌」
その言葉に、迷いが溶けていくのが分かった。
「行こう」
短く、そう答えた。長く胸につかえていたものが、ようやく形を得た気がした。
ノアが、微笑んで頷く。その顔に、迷いも後悔も見当たらない。
翌朝、レオンは村長を通じて、王国軍への返答を訂正した。招聘を、謹んでお受けする旨だ。
村中が、その知らせで沸いた。誰もが、我が事のように喜んでくれる。
「先生、村の誇りだよ」
酒場の主人が、わざわざ道場まで祝いの酒を届けに来たほどだった。噂を聞きつけた隣村からも、激励の言葉が届く。
道場では、そうはいかなかった。レオンが伝えると、子供たちは黙り込んだ。
「行かないって、言ったのに」
あの少年だった。木刀を握ったまま、俯いている。
レオンは、その前に膝をついた。
「嘘をついた。悪かった」
「……」
「俺が間違えた。だから、謝る」
少年が、顔を上げる。
「間違えたら謝れって、先生が言ったやつですか」
「そうだ」
「じゃあ、次は守れるようになれって言うんですか」
レオンは、少しだけ笑った。
「よく覚えてるな」
「先生が、何回も言うから」
少年は、袖で目を擦った。それから、木刀を構え直した。
「稽古、お願いします」
その日の稽古は、いつもより長引いた。木刀を打ち合う音も、名残惜しげに響いていた。
「道場は、一番弟子に任せる。腕は、俺の目から見ても確かだ」
「戻ってくるんですよね」
「必ず戻る」
その約束に、嘘はなかった。子供たちの顔を、一人ひとり見渡す。この笑顔を守るためにも、必ず生きて帰らねばならない。改めて、胸に刻んだ。
引っ越しの支度を進める中、ある朝、ノアが青ざめた顔で切り出した。
「座って。大事な話なの」
改まった様子に、嫌な予感が過った。荷造りの手を止め、レオンはノアに向き直る。
「どうした」
「やっぱり、いけない」
「何がだ」
「一緒に、行けない」
一瞬、頭が真っ白になった。
「なぜだ。何かあったのか」
「二人目が、できたみたい」
言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。
「本当か」
「本当」
歓喜が、体の底からせり上がってくる。抑えようとしても、頬が緩むのを止められない。
「そうか。そうか!」
思わず、ノアを抱き上げていた。
「待って、揺らさないで」
慌てるノアの声に、レオンはようやく我に返った。
「すまない。だが、嬉しくて」
「私だって嬉しいわよ。でも、この体で長旅は無理」
その一言で、レオンはようやく状況を飲み込んだ。喜びの熱が引くと同時に、当たり前の事実が重くのしかかってくる。身重の体で、長旅をさせるわけにはいかない。
「王都への同行は、諦める。お前とミアは、ここに残れ」
「一人で、大丈夫なの」
「お前とミアが待っていてくれるなら、大丈夫だ」
言いながら、自分自身に言い聞かせているようでもあった。単身赴任という言葉の重みが、今さらのように肩にのしかかる。
ノアは、少し寂しげに笑った。
「父さんと母さんに、頼んでみる。きっと、快く預かってくれるはず」
その晩、二人で診療所を訪ね、事情を話した。義父母は、二つ返事で引き受けてくれた。
「娘と孫の面倒くらい、任せておけ」
アルブレヒトの言葉には、いつもの厳しさの奥に確かな温かさがあった。
マルタも、涙ぐみながらノアの手を握る。
「体を大事にね。何かあれば、すぐに知らせを出しますからね」
その言葉に、レオンは深く頭を下げた。
出立の前夜、トーレスが顔を出した。手には、道中用にと干し肉の包みを提げている。
「一人で行くことになったんだってな」
「ああ。予定が変わった」
「そうか。まあ、それも悪くない」
トーレスは、包みをレオンの手に押し付けると、いつもの飄々とした調子で続けた。
「達者でな」
「お前もな」
「留守の間、村のことは気にするな。おかしな輩が来たら、俺が追い払ってやる」
軽口の奥に、確かな信頼が滲んでいた。
「ノアとミアのことも、頼む」
「言われなくても、様子は見に行くさ」
その言葉に、レオンは安堵の息をついた。
出立の日。村はずれの街道に、家族が立っていた。晴れた朝で、風がわずかに冷たい。
「必ず、手紙を書く」
「待ってる。ミアにも、ちゃんと父様の話をするから」
ミアが、ノアの足元から見上げてくる。まだ事情の分からない顔だった。
「おとうさん、どこいくの」
「少し、遠くだ」
「いつ、かえる」
答えに詰まった。
「……できるだけ、早く」
ミアは、それで納得したらしい。小さな手を振り始めた。その仕草に、胸が締め付けられた。
「体を、大事にしろよ」
「あなたこそ。無理はしないで」
ノアの声に、微かな震えが混じる。それでも、気丈に笑顔を浮かべていた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
一歩、また一歩と村を離れていく。足取りは重い。それでいて、確かな決意に支えられている。
一度だけ、振り返った。ノアが、大きく手を振っている。ミアも、真似をして両手を振っていた。
その光景を、レオンは目に焼き付ける。忘れることなど、決してないと思えた。
王都までの道のりは、思いのほか長い。馬に揺られながら、レオンは自分に問いかけていた。
これで、良かったのか。
答えは、まだ出ない。それでも、前に進む以外の道は、もう選べなかった。
道中、幾つかの村や町を通り過ぎた。カルム村とは比べ物にならないほど賑やかな市場。行き交う商人たちの活気。見るもの全てが、新鮮だった。
同時に、こうした賑わいの裏で、かつて自分が何を踏みにじってきたのか。帝国の兵だった日々を、思い出さずにはいられない。
過去を清算するためではない。それでも、今度は守る側でありたい。その想いだけは、確かだった。
やがて、遠くに王都の城壁が見えてくる。これまで見たどの砦よりも高く、堅牢な壁だった。その威容に、レオンは思わず息を呑んだ。
かつて、こうした壁を打ち破る側にいたことがある。今は、その内側で働くことになる。皮肉な巡り合わせを、噛み締めずにはいられなかった。
この壁の向こうに、どんな日々が待っているのか。
想像もつかないまま、レオンは馬を進めた。
壁の内側に、自分が殺した男の弟が待っていることを、レオンはまだ知らない。
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