第8話 帰る場所
竜宮で過ごす日々は、
いつの間にか太郎の居場所を増やしていた。
笑い声も、手伝いも、稽古も、
すべてが少しずつ“いつものこと”になっていく。
けれどその穏やかさの中で、
太郎はふと、地上に残してきたものを思い出す。
秋の潮のまつりが終わってから、
竜宮は少しだけ穏やかになった。
それでも。太郎の周りだけは、相変わらず騒がしい。
「太郎さん!それ、どうやって食べるんですか?」
市場区画の一角。
今日は、魚人たちと侍女たちが、
太郎の周りへ楽しそうに集まっていた。
炭火の上で、魚がじゅうじゅうと音を立てている。
美味しそうな、香ばしい匂い。
私は、少し離れた特等席からその様子を眺めていた。
「これはな、漁師めしってやつです」
太郎が、得意げに魚をひっくり返す。
「漁師は船の上で食うから、
簡単で腹に溜まるのが一番なんですよ」
「へえ……!」
侍女たちが、興味津々で身を乗り出して覗き込む。
魚の身を丁寧にほぐし、熱い飯へ混ぜる。
刻んだ新鮮な海藻。炙った香ばしい貝。豊かな潮の香り。最後に熱い出汁をかけると、白い湯気がふわりと立ち上がった。
「はい、乙姫さん」
目の前に、それが差し出される。
私は、少しだけ目を瞬いた。
「私も?」
「もちろん。最初に食べて見てください」
太郎が、真っ直ぐに笑う。
すると周囲が、「おぉ〜?」と一斉に騒ぎ始めた。
「なによ、そのニヤニヤした反応は」
「いやぁ? べつにぃ?」
魚人隊長が、あからさまに肩を揺らしている。
私は小さくため息をついてから、匙を手に取った。
一口、口へ運ぶ。
――驚いた。
素朴なのに、妙に美味しい。
魚の旨味が、優しく真っ直ぐ舌へ広がる。
「……おいしいわ」
ぽつりと呟くと。
太郎が、本当に嬉しそうに顔をほころばせた。
「よかった〜」
その顔を見るだけで、胸の奥がふわりと温かくなる。
最近、本当に自分が危険だと思う。
◇
「侍女さん!それ、俺が持ちます!」
白い回廊の向こうで、
太郎が大きな重い荷箱を持ち上げていた。
「えっ、でも……」
「慣れてるんで!任せてください」
軽々と持ち上げて歩き出す。
侍女たちが、ぱちぱちと目を瞬かせていた。
「太郎さん、すごく力持ち……」
「漁師ですから」
太郎は、当たり前みたいに爽やかに笑う。
その、飾らない自然さがずるい。
見返りなんて、これっぽっちも求めない。
偉そうにするわけでもない。
困っている相手を見ると、身体が先に動いてしまうのだ。私は、その様子を白い柱の陰から静かに眺めながら、小さく愛おしそうに息を吐いた。
「姫」
隣へ、いつの間にか宵臣が立っていた。
「また見ておられるのですか」
「……“また”ってなによ」
「最近、浦島殿を視線で追う頻度が、
劇的に増えております」
「細かいわね、あなた」
「なにせ、長い付き合いですので」
淡々とした、いつも通りの声。
でも。その美しい口元が、少しだけ楽しそうに笑っていた。私は、わざと知らん顔をして前を向く。
「あなた、最近ちょっと意地悪になった?」
「姫ほどではありません」
「はいはい」
不遜な側近にそう返しながらも、
私の口元も、少しだけ緩んでしまっていた。
◇
「見合ってぇぇぇ!!」
魚人たちの野太い叫び声が、広場へ響き渡る。
祭りの余韻なのか、
今日は即席の相撲大会が始まっていた。
私は、薄珊瑚色の衣を着た玉依と並んで、特設の観客席へ座っている。
そして。
「なんで俺まで褌なんですか!?」
太郎が、恥ずかしそうに叫んでいた。
「似合うぞー!」
「太郎殿、いけー!」
「頑張れー!」
魚人たちが、好き勝手に大盛り上がりしている。
私は、あまりの逞しさに思わず視線を逸らした。
「姉様」
隣で、玉依が案の定ニヤニヤしている。
「なに?」
「見ないんですか? せっかくのいい男なのに」
「見てるわよ、ちゃんと」
「顔、真っ赤ですよ?」
「うるさいわね」
でも。ちら、とまた視線を戻してしまう。
日に焼けた、健康的な身体。
過酷な漁で鍛え上げられた、逞しい腕。
芯のしっかりした、美しい体幹。
笑いながらも、太郎はちゃんと強かった。
人外である魚人相手に、意外なほど善戦している。
「うおおかおっ!」
どんっ!
大柄な魚人を豪快に投げ飛ばし、太郎が叫んだ。
割れんばかりの歓声が上がる。
本人も、めちゃくちゃ嬉しそうだ。
「やったぁ!!」
大きく、無邪気に笑う。
その顔が、まるで子供みたいで。
私は、堪えきれずに思わず吹き出した。
「……ほんと、楽しそうね」
けれど。最後。
魚人隊長が満を持して出てきた瞬間、空気が変わった。
「いや、これ絶対に勝てないやつじゃないですか!?」
「当然です!」
勝負は一瞬だった。
どぉん!!
豪快に投げ飛ばされ、太郎が床へ派手に転がる。
広場全体が、大きな爆笑に包まれた。
「いててて……!」
悔しそうに腰をさすりながら、起き上がる。
その負けた顔すら、妙に可愛く見えてしまって。
私は、とうとう声を上げて笑ってしまった。
◇
「あぁ〜、そこですそこですぅ〜……」
ミドリが、完全にとろけた声を上げていた。
太郎が、巨大な甲羅をタワシで熱心に磨いている。
どうやら、相撲で負けた罰ゲームらしい。
「太郎さん、めちゃくちゃ上手ですぅ……」
「船の底を磨くの、慣れてるんで」
丁寧な手つき。力加減も、本当に優しい。
ミドリが、うっとりと目を閉じている。
私は、その様子を遠目に見ながら、
なんだか不思議な気持ちになっていた。
この男は。本当に、どこへ行っても。
自然に、誰かの輪へ溶け込んでしまう。
魚人も。侍女たちも。ミドリも。
そして――きっと、私も。
◇
槍舞の稽古場。
太郎は、祭りが終わったあとも、
毎日のように槍を振るっていた。
「好きになったの?」
私が尋ねると、太郎は少し照れたみたいに笑う。
「なんか、気持ちいいんですよね。これ」
槍が、滑らかに回る。
まだ粗い。けれど。
その軌道は、確かに海の流れる感覚へ馴染み始めていた。
「そこ、少し力みすぎです」
背後から、宵臣が静かに指摘した。
「うわっ」
太郎の槍の先端が、大きくぶれる。
「難しいなぁ、これ……」
「考えすぎです」
宵臣が歩み寄り、太郎の槍へそっと白皙の手を添えた。
「流れへ、ただ身を預けるように」
するり、と槍が回る。
それに合わせて、周囲の魚たちが大きく旋回した。
私は、欄干へ頬杖をつきながら、
その美しい様子をただ眺めていた。
最近。この、二人が並ぶ光景を見るのが、
たまらなく好きだった。
◇
その帰り道だった。
「母が、足を怪我をしたらしくて……」
通りすがりの侍女たちが、小さな声で話していた。
「早くお医者様を――」
そこまで聞いた、その瞬間。
隣を静かに歩いていた太郎が、ふっと立ち止まった。
私は、小さく目を瞬く。
太郎は、少しだけ遠くを見るような、
どこか切ない顔をしていた。
「……太郎?」
呼ぶと、太郎ははっと我に返った。
「あ、すみません。なんでもないです」
でも。その笑顔は、どこか少しだけ弱かった。
「どうしたの?」
私が覗き込むと、しばらく迷ってから、太郎が小さく笑った。
「いや……。母親は、元気かなって、ちょっと」
胸の奥が、ツンと小さく痛んだ。
「兄貴も、釣り針のことで、絶対怒ってるだろうし」
困ったみたいに笑う。
でも。その黒い瞳は、
ここではなく、ちゃんと地上を見ていた。
温かい村。懐かしい浜辺。大好きな家族。
彼が本当に帰るべき場所。
私は、何も言えなかった。
ただ、私の胸元で、潮満珠が静かに悲しく揺れていた。
◇
その夜。
祭りのきらびやかな余韻も、市場の賑やかな喧騒も、
少しずつ竜宮の深い奥へと沈み始めていた。
白い回廊には、静かな潮騒だけが残っている。
私は、長い欄干へ身体を寄りかかりながら、
ぼんやりと水の膜の向こうを眺めていた。
青白い魚群が、夜の深い海をゆっくりと横切っていく。
「乙姫さん」
後ろから、聞き慣れた愛しい声がした。
振り返る。太郎だった。
昼間の賑やかさとは違う、少しだけ静かな顔。
でも。その瞳は、どこか迷っているようだった。
「なに?」
私が尋ねると、太郎は少し困ったように笑った。
「……ちょっと、ふたりで話したくて」
胸の奥で、潮満珠が小さく、切なく脈を打つ。
私は、なんとなく察してしまった。
でも。気づかないふりをして、
欄干の近くにある長椅子へ、ゆっくりと腰を下ろす。
「じゃあ、ちゃんと座って聞いてあげるわ」
「なんですか、その偉そうな言い方」
「乙姫様は忙しいのよ」
「絶対、今めちゃくちゃ暇だったでしょ」
「あら、ばれた?」
太郎が、少しだけ緊張を解いたように笑う。
その笑顔を見て、私の胸の奥も少しだけ安心した。
太郎も、私のすぐ隣へ腰を下ろした。
少しだけ、身体の距離が近い。
でも、今の私たちには、もうそれがとても自然だった。
しばらく、二人とも黙っていた。
膜の向こうを、光る魚たちがさらさらと流れていく。
遠くの遠くで、まだ祭り帰りの楽しげな笑い声が聞こえた。
「……楽しかったです」
ぽつりと、太郎が夜の海を見つめたまま言った。
「なにが?」
「ここに来てから、あったこと全部」
その声は、ひどく静かだった。
「最初は、ただの夢かと思いました」
太郎が、少し懐かしそうに笑う。
「変な魚は喋るし、海の底にでかい城はあるし、
乙姫さんはやたら距離近いし」
「ちょっと、最後に悪口が入ったわね?」
「事実です」
大真面目な顔だった。
私は、たまらずふふっと吹き出す。
でも。太郎は、また少し真面目な顔へ戻った。
「でも、本当に楽しかったです」
ゆっくりと、自分の本音の言葉を選ぶように続ける。
「槍舞も。祭りも。魚人たちと騒ぐのも。
ミドリの甲羅を磨くのも」
「磨くのは、ただの罰ゲームだったでしょうに」
「途中から、普通に楽しくなっちゃいました」
「ミドリ、異常に気持ちよさそうだったものね」
太郎が、声を上げて笑う。
そのあと。ふっと、その表情が静かになった。
「……だからこそ、最近ちょっと考えるんです」
私は、何も言わずに次の言葉を待った。
「今頃、上の家はどうなってるかなって」
胸の奥が、きゅっと音を立てて痛む。
「母親は、俺がいなくなって心配してるだろうな、とか」
太郎が、自分の膝へ視線を落とした。
「兄貴だって、絶対に怒ってるし」
「……釣り針のこと?」
「はい」
苦笑する。でも。
その愛おしい笑顔の奥で、彼はちゃんと地上を見ている。私は、ゆっくりと静かに息を吐いた。
「……帰りたい?」
その言葉を口にした瞬間。
私の胸元で、潮干珠が冷たく静かに震えた。
太郎は、少しだけ驚いたような顔をする。
それから。長く、長く黙って。
やがて、小さく、けれど確かに頷いた。
「いつかは」
その言葉が、重く静かに私の胸へ沈んでいく。
「今すぐってわけじゃないです」
太郎が、私を気遣うように慌てて言った。
「ここ、本当に楽しいし。
……乙姫さんといるの、すごく好きだし」
心臓が、どくん、と大きく鳴った。
太郎は、耳の先を真っ赤に染めながら真っ直ぐに続けた。
「でも……。たぶん、このまま帰らなかったら、
俺、一生後悔する気がするんです」
私は、何も言えなかった。
太郎は、ゆっくりと言葉を繋いでいく。
「母親とか、兄貴とか、村の連中とか。
俺が、ちゃんと帰るって信じて待ってる人が、いるから」
胸の奥で、潮満珠と潮干珠が、同時に激しく揺れた。
私は、少しだけ目を伏せる。
それから。わざと、いつもの軽い声を作って言った。
「ちゃんと、帰してあげるわよ」
太郎が、意外そうに目を瞬いた。
「怒らねえんですか」
「怒るわよ?」
私は、いたずらっぽくにやりと笑ってみせた。
「“もうちょっと居なさいよ”って、
嫌になるくらい面倒に引き止めてやるわ」
太郎が、たまらず吹き出した。
「それは……ちょっと嬉しいです」
「でしょうね。光栄に思いなさい」
私は、わざとらしく肩を竦めてみせる。
「でも、あなたを永遠に閉じ込めるつもりはないわ」
太郎が、静かにこちらを見つめる。
その真っ直ぐな瞳が、少しだけ切なくて、愛しくて。
私は、とうとう観念したみたいに優しく息を吐いた。
「ねえ、太郎」
「はい」
「私、ひとつの【箱】を作ろうと思ってるの」
「箱?」
「ええ」
私は、自分の胸元へそっと触れた。
衣服の奥で、潮満珠と潮干珠が、淡く神秘的に光る。
「少しだけ、ずるくて……少しだけ、優しい箱よ」
太郎が、不思議そうに首を傾げた。
「なんですか、それ」
私は、ふっと悪戯に笑ってみせる。
「まだ、秘密」
「気になるんですけど、すごく」
「完成したら、一番に教えてあげるわ」
太郎は、少しだけ納得がいかなそうな顔をしたあと、
降参したみたいに困って笑った。
「乙姫さん、そういう意味深なの本当に好きですよね」
「海の神様ですもの。これくらいお安い御用よ」
「便利な言葉だなぁ、それ」
私は、くすくすと声を立てて笑った。
それから。少しだけ、真剣な声音に変えて言った。
「でもね」
太郎が、私を見る。
「あなたが、自分の口で“帰りたい”って、
ちゃんと本音を言ってくれて、嬉しかったわ」
「……え?」
「本音を胸に飲み込んだまま、
いつの間にかここを嫌いになってほしくないもの」
太郎が、静かにその黒い目を見開いた。
私は、優しく小さく笑いかける。
「だから、私の前でちゃんと悩み。
帰ることも。ここで私と過ごした時間も。全部よ」
潮の音が、世界の遠くで静かに響いていた。
太郎は、しばらく黙って私を見つめていた。
やがて。小さく、力強く頷いた。
「……はい」
その健気な返事が、妙に愛しかった。
だから私は、少しだけ照れ隠しに、誤魔化すように笑う。
「その代わり」
「?」
「帰るって決めるその瞬間までは、
ちゃんと私の我が儘に付き合いなさいよ?」
太郎が、少しだけ目を丸くした。
「……それ、結構長そうですね」
「当然でしょう?」
私は、最高に得意げに笑ってみせた。
「自分からナンパした男を、
簡単に手放すほど、私はお人好しじゃないのよ」
太郎が、今度は声を上げて快活に笑った。
その心地いい笑い声を聞きながら。
私は、胸元の二つの珠へ、そっと愛おしそうに触れた。
――帰すわ。ちゃんと、あなたの場所へ。
でも。
その寂しい日が来てしまうまでは、もう少しだけ。
この優しくて、温かい夢を。
あなたと一緒に、見ていたかった。




