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乙姫は恋を知らない  作者: HANABI


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第9話 荒潮

荒れる海は、太郎へ“帰る場所”を思い出させた。


神である私には、止められない潮があるように。


人である彼にも、捨てられない想いがあった。

だからその夜だけは、互いに“別れ”を忘れることにした。

その日。

海は、朝からひどく荒れていた。


竜宮を包む巨大な膜の外で、

黒い凶暴な海流が唸りを上げている。


ごう、と。

まるで巨大な山が崩れるみたいな地鳴りが、

世界の遠くから何度も響いていた。


海底のはずなのに、不気味なほど暗い。


時折、白い雷光が海を真っ二つに裂き、

巨大な魚影が暴れるように泳いでいく。


そのたび、竜宮の白い柱が低く軋んだ。


「きゃっ……!」


侍女のひとりが、突然の大きな揺れに小さく悲鳴を上げる。


私は、静かに頭上へ手を掲げた。

衣服の奥で、潮満珠しおみつたまが強く光る。


瞬間。

ぐらりと激しく揺れていた広間が、少しだけ静まった。けれど。完全には止まらない。

私は、小さく額を抑えて息を吐く。


「姫様……」


隣へ、宵臣が静かな声を落とす。


「外海の流れが、こちらの予想以上に強いです」


「分かっているわ。大丈夫よ」


短く返す。けれど、額の奥が少しだけ重かった。


今日は、朝からずっと膜の維持へ全力を使っている。

海神だからといって、何でもできるわけじゃない。


海を“抑える”ことはできても、

海そのものの営みを止めることはできない。


潮は、生き物だから。


「今日は、外縁の区画をすべて閉じて」


「承知いたしました」


宵臣が静かに一礼する。その時だった。


「乙姫さん!」


振り返る。

太郎が、少し早足でこちらへ走ってきていた。


「大丈夫ですか!?」


「ええ。私は平気よ、このくらい」


そっけなくそう答える。

でも。太郎は私ではなく、膜の外の黒い海を見ていた。


その目が、妙に険しい。

私は、少しだけ不思議に思って首を傾げる。


「……どうしたの?」


太郎は、すぐには答えなかった。


ごうっ――!

また、巨大な海流が膜を激しく叩く。

竜宮全体が、ゆらりと頼りなく揺れた。


太郎の顔が、さらに青く強張る。


「……これ、かなり荒れてますよね」


「ええ。外海は今、大嵐よ」


「地上だと、漁師が絶対に船を出せないレベルです」


私は、静かに深く頷く。


「今日は自分の部屋へ居なさい、太郎」


太郎が、私を見る。


「膜の内側にいても、多少は揺れるわ。

でも、外へ出るよりは、ここがずっと安全よ」


「乙姫さんは?」


「私は、この膜を維持しないといけないもの」


私は、少しだけ安心させるように笑ってみせる。


「神様は忙しいのよ」


でも。太郎は、どうしても笑わなかった。

ただ、じっと窓の外の黒い海を見つめている。

その強張った横顔へ、私は小さく眉を寄せた。


「……太郎?」


太郎が、低く絞り出すように呟く。


「こんな海……地上じゃ、絶対に死人が出ます」


その重い声が、静かに私の胸へ落ちた。


「海は、時々荒れるものよ。」


「分かってます」


太郎は、すぐ答える。


「でも、分かってても、絶対に被害は出るんです」


ごうっ――!

また、大きく竜宮が揺れた。

太郎が、痛いくらいに拳を握りしめる。


「船が戻れなかったり。家が波に流されたり。

漁師が海へ出たまま、二度と帰ってこなかったり」


低い、切ない声。


「俺、地上の村で、それを何回も見てきました」


私は、言葉を失って黙る。

太郎は、激しい海から目を離さない。


「こんな時、村じゃ皆、必死で船を押さえてる」


「……」


「兄貴が怒鳴って、俺が走り回って。

お袋は怯えながら、家の戸を必死に閉めて……」


その言葉のひとつひとつが。

ちゃんと、彼が帰るべき“現実”を持っていた。


私は、胸の奥が少しだけ苦しくなる。


「太郎……」


「俺だけ、こんな安全な場所にいていいのかなって。

……どうしても、最近そう思うんです」


その瞬間。私は、初めて残酷な現実に気づく。

この男は。

ずっと、“地上へ帰る側の人間”だったのだと。


竜宮での暮らしを心から楽しんで。

私と笑って。ここを大好きになって。

それでも。

地上の泥臭い生活を捨てたことは、一度もなかった。


私は、静かに息を吐く。


「……あなたは、本当に優しいのね」


太郎が、少し困ったように、自嘲気味に笑う。


「普通ですよ。漁師なら誰でも」


「普通じゃないわ」


私は、小さく寂しそうに首を振る。


「海は、時々容赦なく命を奪うものよ」


太郎が、こちらを見る。

私は、神としての冷徹な真実を静かに続けた。


「でも、それを誰も止められない。たとえ海神でも」


胸元で、潮満珠が淡く、冷たく揺れる。


「命が生まれて、消えて、また巡る。

海って、本来そういう、残酷で美しい場所だから」


太郎は、黙って聞いていた。

でも。その黒い瞳は、少しだけ苦しそうだった。


「……乙姫さんは、そうやって割り切れるんですね」


その言葉に。私は、胸をナイフで刺されたみたいに少しだけ傷ついた。

でも。きっと、太郎も同じだったのだ。


人間と神は、見ている世界の高さが違う。

守りたいものも、背負っている時間も、何もかも違う。


だから。こんなふうに、同じ荒れた景色を見ても、

互いにまったく別の痛みを抱える。


「割り切っているわけじゃないわ」


私は、静かに真っ直ぐ彼を見つめた。


「ただ、全部の命を抱え込んだら、

海神なんて、一日だってやっていけないだけよ」


太郎が、ゆっくりと悲しそうに目を伏せる。

長い、重い沈黙。

ただ、荒れる海の底冷えする音だけが響く。


やがて。太郎が、消え入りそうな声で小さく呟いた。


「……俺、やっぱり帰らなきゃいけないです」


その言葉は。今まで聞いたどんな言葉よりも、私の胸へ深く、重く沈んだ。


私は、何も返せなかった。

太郎が、泣き出しそうな顔で苦しそうに笑う。


「ここ、本当に大好きです」


その声が、少しだけ震えていた。


「乙姫さんも。宵臣さんも、玉依も、ミドリも。

皆、俺なんかにすげえ優しいし」


竜宮が、また大きく揺れる。


「でも」


太郎が、指が白くなるほど拳を握る。


「俺には……地上で、ちゃんと帰ってやらなきゃいけねえ人がいる」


私は、ゆっくりと静かに目を閉じた。


胸の奥で。

潮満珠しおみつたま潮干珠しおふるたまが、激しく、静かにぶつかり合う。


帰したくない。

私のそばに、ずっと閉じ込めておきたい。


でも。帰さなければならない。

彼の人生を、私が奪うわけにはいかない。


その二つの想いが、胸の中で激しく渦巻いていた。


だから……気がつくと。私は、神としての仮面を脱ぎ捨てて、こんなことを言っていた。


「……なら」


太郎が、はっとして顔を上げる。

私は、真っ直ぐに彼を見つめた。


神としてじゃない。偉そうな海神としてでもない。

ただの、ひとりの女として。


「帰る前に、一度だけ」


声が、少しだけ掠れて震える。


「今夜、私と一緒にいて」


太郎が、大きく息を止めた。

荒れる深い海の音だけが、遠くで響いていた。



言葉にした、その瞬間。

胸の奥で、二つの珠が、熱く強く揺れる。


この男を、二度と地上へ失いたくないと思ってしまった、どうしようもない、ひとりの恋する女として。


「今夜、私と一緒にいて」


太郎の喉が、ごくりと小さく鳴った。

揺れる青白い灯りの中で、彼がゆっくりと目を伏せる。


「……それ、ずるいです」


掠れた、低い声。

でも。そこには拒絶の響きは、これっぽっちもなかった。私は、少しだけ泣きそうになりながら笑った。


「海の神様だもの」


「便利ですね、それ……」


太郎が、困ったみたいに愛おしそうに笑う。

でも。その瞳は、もうどこからも逃げていなかった。


私は、そっと一歩、彼へ近づく。


激しく揺れる竜宮。

遠くの闇で暴れ狂う、黒い海流。


その恐ろしい全部から、二人だけが切り離されたみたいな、不思議に静かな空間。


「太郎……」


呼ぶ。彼が、ゆっくりと顔を上げた。


「嫌なら、今すぐ断ってもいいのよ?」


太郎は、しばらく黙って私を見つめていた。

やがて。低い声で、ぽつりと言った。


「……嫌じゃないです」


その瞬間。

胸の奥で、潮満珠がどくんと大きな熱を持った。


太郎が、困り果てたように苦しく笑う。


「むしろ、めちゃくちゃ困ってます」


「困る?」


「帰らなきゃって思ってるのに……。

乙姫さんといると、俺の中で全部がぐらぐらになる」


その素直な声が、妙に愛しかった。

私は、そっと指を伸ばす。

太郎の、日に焼けた少し熱い頬へ触れた。


「それでも……いつか、帰るの?」


太郎が、切なそうに目を閉じた。


「……帰ります」


「そう……」


「でも」


ふいに、彼の手が、私の手を優しく包み込んだ。

大きくて、無骨で、本当に温かい手。


「今夜だけ……帰ること、全部忘れてもいいですか」


呼吸が、本当に止まりそうになる。

私は、静かに優しく笑った。


「……許してあげるわ」


次の瞬間。

太郎が、ゆっくりと私をその腕へ抱き寄せた。


逞しい、強い腕。でも。

最初に出会った時みたいな、勢い任せの力じゃない。


壊れやすい、一番大事なものへ触れるみたいな、

本当に優しい、いたわるような力だった。


私は、自然に彼の広い胸へ額を預ける。


どくん。どくん。

男らしい、確かな心臓の音が聞こえる。

それは外で荒れる海よりも、ずっと大きく、私の胸に響いた。



その夜。

竜宮は、一晩中ずっと揺れていた。


ごう、と。

遠くの深い闇で、海流が凶暴に暴れる音。

時折、膜のすぐ外を白い鋭い雷光が走る。


それでも。

私の寝所だけは、不思議なくらいに静かだった。


薄青い、神秘的な灯り。壁に揺れる、二人の影。

どこか懐かしい、潮の匂い。


太郎が、少しだけ居心地悪そうに床の傍で立っている。


「……なんか、急に緊張してきたんですけど」


私は、その初々しさに思わずふふっと吹き出した。


「なによそれ、今更」


「いや、乙姫さんの部屋、綺麗すぎて落ち着かなくて」


「一応、褒めてるのかしら?」


「半分くらい、ですかね」


太郎が、困ったように頭を掻いて笑う。

でも。その耳の先は、熟れた林檎みたいに真っ赤だった。

私は、そっと彼へ歩み寄る。

指先で、彼の白い衣の胸元へ優しく触れた。


濡れた心地いい潮の匂い。

地上で生きてきた、働く男の匂い。


もう、何度も近くで感じてきたはずなのに。

今夜は、その全部が特別に違って感じられた。


太郎が、静かに甘く息を呑む。


「乙姫さん……」


呼ばれる。

その掠れた声だけで、胸の奥がカッと熱くなる。

私は、愛おしそうに彼を見上げた。


「……帰したくないわ」


初めて。

自分の本当の我が儘を、ちゃんと言葉にして告げた。


太郎の黒い目が、激しく揺れる。

私は、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。


「困るでしょう?」


「……めちゃくちゃ困ります」


「でも、これが私の本音よ」


太郎が、愛おしさに耐えかねたように苦しく笑う。

それから。ゆっくりと、私の長い髪へ愛おしそうに触れた。


「俺も……」


低い声。


「帰りたくなく、なる」


胸の奥で、潮満珠が強く、激しく脈を打った。

私は、そっと優しく目を閉じる。


次の瞬間。

優しく触れ合った。

重なる、互いの唇。蕩けるような、優しい熱。


外で荒れる海の冷たい音が、一瞬で遠くなっていく。


指先が固く絡み合う。

互いの熱い呼吸が混ざり合う。

強く、折れそうなほど抱き締められる。


離れたくない。離したくないと、身体が勝手に求めてしまう。

神として生きてきて、こんな感情は初めてだった。


海神としてでも、崇められる姫としてでもなく。

ただの、乙姫というひとりの女として、今、激しく求められている。


それが、どうしようもなく愛しくて、嬉しい。


「……太郎」


「はい」


「もう少し、こっちへ来て……」


太郎が、少しだけからかうように笑った。


「それ、神様としての命令ですか?」


「ううん。……私からのお願いよ」


その可愛い答えに。太郎は、この世の何よりも優しい顔で笑って、私を受け入れた。



嵐の激しい音が、

一晩中、世界の遠くでずっと鳴り響いていた。


太郎の心地いい体温が、すぐ隣にある。


呼吸が重なるたび、衣服の奥で、

潮満珠と潮干珠が静かに、満足そうに脈を打つ。


私は、彼の逞しい胸へ額を寄せながら、静かに目を閉じた。

こんなふうに、誰かの体温に触れたまま眠る夜が来るなんて、孤独だった昔の私は、思いもしなかった。


太郎の大きな指が、ゆっくりと私の髪を優しく撫でる。本当に心地いい、温かい手。

眠そうな、幸せそうな声が、すぐ近くの耳元で響いた。


「……乙姫さん」


「なに?」


「俺、今……すげえ幸せです」


その真っ直ぐな言葉に、胸の奥が少しだけ苦しくなる。私は、目を閉じたまま、愛おしそうに笑った。


「そう……」


「はい」


太郎が、小さく満足そうに息を吐く。


「だから……ちゃんと、地上へ帰らないと駄目なんだろうな」


その切ない言葉に。

私は、どうしても何も返せなかった。

ただ。彼の服の胸元を、少しだけ強く握りしめる。


帰したくない。

でも、ちゃんと帰さなければならない。


その二つの感情が、寄せては返す波みたいに、

私の胸の中で何度も、何度も激しく揺れていた。


外では、まだ冷たい海が荒れている。

でも。私の心の中の方が、きっとずっと、激しく嵐みたいに揺れていた。


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