第7話 海鳴り
潮は、静かに満ちていた。
祭りの熱が残る竜宮で、
私は少しずつ、“帰したくない理由”を知り始めていた。
そして太郎もまた、知らなかった景色より、
“私”を見つめるようになっていた。
祭りが終わったあとも、
竜宮の熱は、しばらく消えなかった。
市場では、いまだに魚人たちが槍舞の真似をしているし、侍女たちは、「太郎さん、あの衣装すごく似合ってましたよね」と、何度も盛り上がっている。
そして当の本人は――
「いやほんと、あれ絶対重かったですよね!?」
などと、魚人隊長へ必死に訴えていた。
「祭礼衣装とはそういうものです!」
「絶対もっと軽くできたでしょ!」
「見栄えが大事なのです!」
「理不尽だ!」
広間に心地いい笑い声が響く。
私は、少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
最近、こうして太郎を見ている時間が増えた。
皆と笑う姿。困った顔。真剣な横顔。
大きく口を開けて笑うところ。
見ているだけで、胸の奥が、ふわりと温かくなる。
――危ないわね。
私は、盃へ口をつけながら、小さく息を吐いた。
恋なんて、もっと静かに落ちるものだと思っていた。
でも実際は違う。
気づけば、足元まで潮が満ちている。
そんな感じだった。
「姉様」
隣へ、玉依が腰掛ける。
今日は、薄珊瑚色の衣だった。
でも袖の先は、相変わらず海藻みたいに揺れている。
「また見てる」
「誰を?」
「太郎くん」
即答だった。私は、ふっと視線を盃へ戻す。
「あなた、最近ほんと遠慮ないわね」
「だって分かりやすいんだもん」
玉依が、くすくす笑う。
「今のお姉様、完全に“好きな男を眺めてる顔”ですよ?」
いつもなら、ここで睨みつけるところだった。
けれど。私は小さく微笑んで、ぽつりと言った。
「……そう見えてしまうのね。気をつけなくちゃ」
「――え?」
玉依の動きが、ぴたりと止まった。
いつもの怒ったツッコミを期待していた妹が、
衝撃のあまり、私の顔を勢いよく二度見する。
赤い瞳をこれ以上ないほど丸く見開いて、
完全に固まっていた。
「う、うそ……お姉様が、素直になった……」
「なによ、失礼ね」
「だっていつもなら絶対に怒るのに!
本当に手遅れじゃないですか!」
玉依がひとりで大騒ぎし始めた、その時だった。
「乙姫さん!」
太郎が、こちらへ向かって大きく手を振る。
屈託のない、真っ直ぐな笑顔だった。
その瞬間。胸の奥で、潮満珠が、とくん、と甘く脈打った。
あまりにも分かりやすい私の動揺に、
玉依が、横でニヤニヤしながら両手を合わせる。
完全に、
尊いものを見る目で拝むようなポーズをしていた。
「あぁ……分かりやす〜い。
もうお腹いっぱいです、ごちそうさまです」
「うるさいわね」
私は、熱くなる頬を隠すように立ち上がった。
太郎が、魚人たちの輪から抜けて歩いてくる。
祭り以降、前より少しだけ距離が近かった。
前みたいに、妙に緊張したり、慌てたりしなくなった。その代わり。時々、すごく自然に触れてくる。
それが余計に困る。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと散歩しません?」
「散歩?」
「はい」
太郎が、少し照れたみたいに笑う。
「祭り終わってから、
全然二人で話してなかったなって」
胸が、少しだけ跳ねた。
背後で、玉依が「うわぁ、青春だぁ」とわざとらしく呟く。
私は、軽く妹を睨んでから太郎を見た。
「どこ行きたいの?」
すると。太郎が、少し考えてから言った。
「乙姫さんの、好きな場所とか」
その言葉に、私は少し目を瞬いた。
好きな場所……
竜宮には、綺麗な場所なんていくらでもある。
でも。
“私が好きな場所”
を聞かれたのは、生まれて初めてかもしれなかった。
私は、ふっと嬉しくなって笑う。
「……いいわ。連れて行ってあげる」
◇
「ミドリ」
呼ぶと海流が、大きく揺れた。
次の瞬間。巨大な影が、ぬうっと浮かび上がる。
「お呼びですか、姫さまー!」
「うわぁっ!?!?」
太郎が、素っ頓狂な声を上げた。
巨大海亀姿のミドリが、嬉しそうに首を伸ばしている。
「でっっか!?」
「失礼ですねぇ!これでも成体ですよ!」
「いや、いつものサイズ感で来ると思うじゃん!?」
私は、思わず吹き出した。
「ふふ……あなた、今更そこ驚くのね」
「だって!普段ちっちゃいじゃないですか!」
ミドリが、少し得意げに胸を張る。
「長距離移動用フォームです!」
「フォームって言うんだ……」
太郎は、まだちょっと引いていた。
◇
ミドリの背へ乗り、私たちは竜宮の外へ出た。
夜の海は、昼とはまるで違う。
青白い珊瑚が、海底でぼんやり光っている。
魚の群れが、星屑みたいに流れていく。
遠くでは、巨大な影がゆっくり泳いでいた。
太郎が、静かに辺りを見回す。
「……すげえ。龍宮城がもうあんなに小さくなって」
·その声は、いつもより小さかった。
「夜の海って、こんな綺麗なんですね」
「地上の人間は、あまり深く潜れないものね」
「はい。ここまでは潜ったこと無いですね」
太郎が、しばらく海を眺める。
でも。気づけば、視線はこちらへ向いていた。
「……乙姫さん、こういう場所よく来るんですか」
「時々ね」
私は、揺れる海流を見つめた。
「一人になりたい時とか」
「神様も、一人になりたいんだ」
「神様だからよ」
私は少し笑う。
「ずっと誰かに見られてるもの」
太郎が、少し黙る。
それから。
「じゃあ今日、邪魔でした?」
その声が、少しだけ不安そうだった。
私は、目を瞬いた。それから、小さく笑う。
「まさか」
ちゃんと、彼を見る。
「今日は、あなたに見せたかったの」
太郎が、少し息を止める。
その反応が、妙に愛しかった。
◇
やがて。ミドリが、巨大な岩壁の前で止まった。
「到着です!」
そこには、細い海蝕洞が口を開けていた。
太郎が、目を丸くする。
「ここ通るんですか?」
「ええ」
私は先へ進む。
狭い洞窟。青白い水。静かな潮の音。
その先で。ふっと、世界が開けた。
「……うわ」
太郎が、言葉を失う。
月夜だった。崖に囲まれた、小さな入り江。
波打ち際が、青白く光っている。
夜光虫だ。波が揺れるたび、星みたいな光が滲む。
空の月が、静かな海面へ落ちていた。
「綺麗だ……」
太郎が、ぽつりと呟く。
その声を聞いて、私は少しだけ嬉しくなる。
「ここ、私のお気に入りなの」
浅瀬へ降りる。裸足へ、冷たい波が触れた。
裾が、ゆらりと揺れる。
「あなたなら、
ちゃんと綺麗って言ってくれる気がしたの」
振り返る。その瞬間。
太郎が、じっとこちらを見ていた。
景色じゃない。私を、見ていた。
胸の奥で、潮満珠が強く脈打つ。
「……太郎?」
呼ぶと。太郎が、少し困ったみたいに笑った。
「いや……なんか」
視線が、逸れないまま。
「俺、乙姫さんに会わなかったら」
波の音。静かな夜。
太郎が、ゆっくり言葉を探す。
「たぶん、ずっと同じ海で、同じ魚追って、
同じ景色見て生きてたと思います」
私は、黙って聞いていた。
「嫌じゃなかったんです。それで十分だったし」
太郎が、少し笑う。
「……でも」
その目が、また私を見る。
「今はもう、前と同じ景色に戻れる気がしない」
呼吸が、止まりそうになった。
胸が、苦しいくらい鳴る。
私は、誤魔化すみたいに浅瀬へ目を落とした。
その時。足元の石が滑る。
「あっ――」
身体が傾く。でも。すぐ、強い腕が支えた。
近い。太郎の胸へ、軽く身体がぶつかる。
熱い。波の音が、やけに遠かった。
「大丈夫ですか」
低い声。私は、なぜかすぐ離れられなかった。
太郎も、離さない。
月光が、黒い瞳へ落ちる。
その目を見ていたら。ふっと、言葉が漏れた。
「……帰したくないわね」
言った瞬間。自分で、息を止めた。
太郎が、目を見開く。
私も、何を言ったのか理解して、急に顔が熱くなった。でも…もう、遅い。
太郎が、少しだけ嬉しそうに笑った。
困ったみたいに。でも。どうしようもなく、嬉しそうに。
潮満珠が、胸元で強く光った。
ざぁっ――
夜の海が、大きく揺れる。
まるで、私の心臓の音に合わせるみたいに。
◇
しばらく、誰も喋らなかった。
波の音だけが、静かな入り江へ満ちている。
太郎の腕は、まだ私を支えたままだった。
近い。
胸の奥が、どうしても落ち着かない。
けれど。嫌じゃなかった。
むしろ、離れたくないとすら思ってしまう。
「……乙姫さん」
太郎が、少し掠れた声で呼んだ。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
月明かりの下で見る太郎は、
いつもより少し大人びて見えた。
黒い瞳。日に焼けた肌。
熱を帯びた、真っ直ぐな視線。
その全部が、私の胸を激しくざわつかせる。
でも。このまま見つめ合っていたら。
本当に……
この男を地上へ帰せなくなってしまいそうで。
私は、誤魔化すみたいに綺麗に笑った。
「そろそろ、戻りましょうか」
太郎が、少しだけ残念そうな顔をする。
その顔を見て、胸の奥がまた愛おしさに揺れた。
「……はい」
名残惜しそうな、小さな返事だった。
◇
帰り道。
ミドリの広い背中へ、二人で並んで座る。
夜の海は、来た時よりもずっと静かだった。
巨大な魚影が、遠くの闇をゆっくりと横切っていく。
青白い珊瑚の光が、海底でぼんやりと揺れていた。
私は、隣にいる男の気配を感じながら、
ただ前を向いていた。
太郎も、珍しく静かだった。
さっきの言葉を、互いにまだ胸に抱えたまま。
冷たい海流だけが、
二人の間をすり抜けていく。
その時。ふいに、手の甲へ熱が触れた。
ぴくりと、私の肩が揺れる。
太郎の手だった。ほんの少し。指先が、触れるだけ。
でも。離れようとはしなかった。
私は、そっと横を見る。
太郎は、前を向いたままだった。
けれど。耳の先だけが、真っ赤に染まっている。
「……なに?」
小さく聞くと。
太郎が、困ったみたいに照れくさそうに笑った。
「いや」
それから、少しだけ視線を逸らす。
「今、離したら、なんか後悔しそうだなって」
胸の奥で、潮満珠が強く脈打った。
私は、何も言えなかった。
代わりに。そっと、自分の指先を絡め返す。
太郎が、小さく息を呑む気配がした。
その初々しい反応が、妙に愛しくて、嬉しい。
ミドリが、前方でにやにやとこちらを覗いていた。
「ミドリ」
「はい?」
「あとで、甲羅磨き一ヶ月ね」
「理不尽すぎます!?」
太郎が,たまらず吹き出した。
その心地いい笑い声を聞きながら、
私は少しだけ目を閉じた。
――だめね。本当に。
どんどん、あなたを帰したくなくなっていく。
◇
竜宮へ戻る頃には、祭りの灯りもだいぶ落ち着いていた。白い回廊には、静かな潮騒だけが残っている。
ミドリが、ゆっくりと身体を下ろした。
「到着ですー」
太郎が、名残惜しそうに遠い海を振り返る。
「……すげえ場所だったな」
「気に入った?」
「はい。とっても……」
太郎が、少し笑う。
「でも」
その黒い目が、まっすぐ私を見た。
「一番きれいなのは、乙姫さんでした」
呼吸が、止まりそうになる。
私は、一瞬だけ言葉を失ってしまった。
太郎は、言ってから急に恥ずかしくなったのか、
慌てて視線を逸らした。
「いや違っ……!
そういう意味じゃなくてですね!?」
「どういう意味?」
わざと、少しだけ顔を近づける。
太郎が、激しく目を泳がせた。
「えっと……その……」
「ふふ」
私は、耐えきれず笑ってしまう。
「あなた、ほんと面白いわね」
「絶対いじってますよね、今」
「もちろん」
そう答えると。
太郎が、悔しそうに、でも嬉そうに笑った。
その時だった。
「……お帰りなさいませ、姫」
静かな声が、回廊へ落ちてくる。
振り返る。
宵臣だった。
深い群青の装束。長い、美しい銀髪。
いつもの、冷静で静かな目。
その視線は、一瞬だけ。
私たちのまだ繋がったままの手へ、静かに落ちた。
私は、少しだけ気まずくなって手を離す。
だが。宵臣は何も言わなかった。
ただ、いつも通り静かに一礼する。
「随分遅くまで、
お出かけを楽しまれていたようですね」
「ええ。楽しかったわ」
私は、わざとさらりと答えてみせた。
すると。
宵臣の金色の瞳が、ほんの少しだけ細くなる。
「それは何よりです」
静かな声。
でも。長く仕えさせてきた私には、すぐに分かった。
少しだけ。本当に、子供のように少しだけ。
この生真面目な側近は、拗ねている。
私は、口元が緩みそうになるのを必死で堪えた。
「宵臣」
「はい」
「あなたも今度、来る?」
宵臣が、わずかに驚いたように目を瞬かせた。
「……私も、ですか?」
「ええ。本当に綺麗な場所だったもの」
すると。
宵臣は、静かに、どこか寂しそうに微笑んだ。
「姫は、昔から。
“お気に入り”を増やすのがお上手ですね」
「あら。嫌味かしら?」
「まさか」
でも。その声は、少しだけ苦かった。
太郎が、気まずそうに自分の頭を掻く。
「えっと……なんか、すみません」
「なぜ、浦島殿が謝るのですか」
「いやなんか、俺だけ連れてってもらった感じで……」
すると。宵臣が、ふっと小さく笑った。
「姫が“誰かを連れ回したい”と思われるのは、
決して珍しいことではありません」
そこで、ほんの少しだけ間を置く。
金色の瞳が、静かに、深く、太郎を見つめた。
「ですが。同じ場所へ、“二度”行かれるのは珍しい」
空気が、一瞬でシンと静まり返る。
私は、思わず宵臣の顔を見つめた。
宵臣は、穏やかに微笑んでいる。
でも。あまりにも長い付き合いだから、分かる。
その完璧な微笑みの奥で。
この男は、ちゃんと、全部気づいているのだ。
私が、どれくらい。
一線を超えて、太郎へ心を傾け始めているか。
そのうえで。
何も言わず、ただ見守ろうとしてくれている。
胸の奥で、潮干珠が静かに冷たく揺れた。
「……宵臣」
「はい」
私は、少しだけ困ったように笑ってみせる。
「あなた、ほんとずるいわね」
すると。宵臣が、わずかに肩を竦めてみせた。
「姫ほどではありません」




