幕間 玉手箱の話
“帰す方法”を考え始めた時点で、
きっと私はもう、
後戻りできないところまで来ていたのだと思う。
恋は、引き止めたい気持ちと、送り出したい気持ちを、
同時に胸へ住まわせるらしい。
だから私は、妹と一緒に、
少しずるくて、少し優しい箱を作ることにした。
玉依は、だいたい海藻みたいな格好をして現れる。
その日も、私の部屋の床から、
ひょこっと顔だけ出した。
「お姉さま、また面白いこと考えてますね」
「……人の部屋に入るのに、
普通はノックをするものよ」
「しましたよ。“海流ノック”」
玉依は、すいっと全身を持ち上げる。
水の中からそのまま抜け出してきたみたいに、
長い髪の先から雫が落ちた。
「ちゃんと分かりましたよね?
さっきからずっと、潮の流れいじってましたもん」
「それは、
あなたが勝手に私の気分を覗いてるからでしょう」
「だって、お姉さまの潮はすぐ分かるんですもん」
玉依は、くすっと笑った。
「今日は、“楽しいけど、ちょっと困ってる”味」
「味で表現しないで」
玉依は勝手に私の対面へ座り込んだ。
豊玉姫と玉依姫。
名前は似ているけれど、性格はだいぶ違う。
私は、
場を仕切ったり、潮を動かしたり、
退屈を壊したりするのが得意。
玉依は、
誰かの気持ちや流れに、
するりと寄り添うのが得意だ。
「で」
玉依は、にこにこしながら首を傾げた。
「“玉の相談”って、どの玉です?」
開口一番、それだった。
「聞いていたのね」
「“玉”って言った時点で、だいたい分かりますよ」
玉依は、私の胸元を指差す。
「お姉さま、玉と人と運命を結びたがる癖ありますし」
「ひどい言い方ね」
「ほめてます」
「本当に?」
「半分くらい」
私はため息をついた。
潮満珠と、
潮干珠を外し、
掌へ乗せる。
青と白。二つの珠が、妹の前でも淡く光っていた。
「地上で、私のかわいい亀を助けた男がいてね」
「ミドリの?」
「そう。それで、ちょっと気まぐれを起こして、
逆ナンして連れてきたの」
「逆ナン」
玉依は、嬉しそうに目を細めた。
「お姉さまらしいです」
「でしょう?」
私も、少しだけ笑う。
「連れてきてみたら、思った以上に、
ちゃんと“私の退屈”と戦ってくれる人で」
「戦ってくれる?」
「そう」
私は言葉を選ぶ。
「ここがただの“夢みたいな場所”じゃないって、
ちゃんと感じてる」
太郎の顔が浮かぶ。
宴で笑う顔。魚人たちに囲まれて困る顔。
海を見つめる横顔。
今日の、あの眩しい槍舞の姿。
「目をきらきらさせて楽しんでくれる。でも同時に、
“このままでいいのか”って、ちゃんと悩んでる」
玉依は、静かに頷いた。
「上の世界のことも、忘れてない人なんですね」
「忘れない」
私は、掌の珠を見つめた。
「そこが一番、厄介で」
潮干珠が、ちくりと揺れる。
「一番、好きなところかもしれない」
玉依が、少しだけ目を丸くした。
「お姉さま」
「なに」
「今、さらっと認めましたね」
「聞かなかったことにしなさい」
「無理です」
玉依は楽しそうに笑う。
でもすぐ、少しだけ真面目な顔になった。
「それで?」
「もし」
私は、ゆっくり口を開いた。
「その人が“帰りたい”って言ったら、
どうするのが正しいと思う?」
玉依は、少しだけ首を傾げた。
「“正しい”のは、きっと簡単ですよ」
「そう?」
「うん。上の世界に、ちゃんと帰してあげること」
「やっぱり、そう言うわよね」
私は天井を仰いだ。
「海の神としては、それが正しい」
けれど。胸の奥が、少しだけ軋む。
「でも、女としては、ちょっと面白くない」
「“女としては”って言いましたね、今」
玉依がにこっと笑う。
「じゃあ、“お姉さま”としてはどうです?」
「お姉さま?」
「豊玉姫としてじゃなくて」
玉依は、いたずらっぽく目を細める。
「“太郎くんをナンパしてきた乙姫”としては」
言い方の癖がすごい。
私は、つい吹き出してしまった。
「……そうね〜」
少し考える。
「乙姫としては、
“ちょっとくらい引き止めたい”かしら」
「どれくらい?」
「あともう一杯飲んでから、とか。
もう一晩だけ、とか。その程度」
玉依は、頬に指を当てて考えるふりをした。
「じゃあ、どっちもやればいいんじゃないですか?」
「どっちも?」
「海の神として、ちゃんと帰す」
玉依は、白い潮干珠を指差す。
「乙姫としては、ちょっとだけ引き止める」
今度は、青い潮満珠を指差した。
「そんな器用なこと、できる?」
「できますよ」
玉依は、私の掌の中の珠を見る。
「お姉さまの得意なやつじゃないですか」
「なに?」
「時間を、少しだけずらす」
潮満珠と潮干珠が、ぴくりと反応した。
「時間を、ずらす……」
「ここと上の世界の時間、今も少し違いますよね?」
「違うわね」
こっちでの数日が、上では数百年だったり。
「その“ずれ”を、
もっと意図的に作ってあげればいいんです」
玉依の声が、少し低くなる。
「太郎くんが帰るときに、箱を一つ持たせるんです」
「箱?」
「はい」
玉依は、まっすぐ私を見た。
「その箱を開けるか、開けないかで」
部屋の中の潮が、静かに揺れる。
「上の世界の時間を受け入れるのか。
それとも、ここの夢を少しだけ長く見るのか」
私は、無意識に息を止めていた。
「それ」
「はい」
「すごく、ずるくない?」
玉依は、にこにこ笑った。
「お姉さまのやること、だいたいずるいですよ?」
「慰めになってないわ」
「でも」
玉依は、少しだけ声を柔らかくした。
「優しくもあります」
「優しい?」
「だって、お姉さまは“どっちも”
ちゃんと考えてあげたいんですよね」
「どっちも?」
「太郎くんが、ここで笑っていた時間も」
玉依は、青い珠を見る。
「上に戻ってからの人生も」
潮干珠が、掌の中でじん、と熱くなった。
「……全部を選ばせるのは、残酷じゃない?」
「全部は選べませんよ」
玉依は首を振る。
「どっちかは、必ず諦めないといけない」
それから、静かに続ける。
「物理的な時間は戻せなくても、
選ぶ権利くらいは、渡してあげられる」
選ぶ権利……その言葉が、胸の奥へ沈んでいく。
私はしばらく黙っていた。
潮満珠と潮干珠の間で、何度も指を滑らせる。
自分の中の潮の高さを、測るみたいに。
「……箱、ね」
「箱です」
「きれいな方がいいかしら」
「見た目は、きれいな方がいいと思います」
玉依は即答した。
「中身のことを、つい忘れたくなるくらいに」
「忘れたら困るんじゃない?」
「忘れたら、開けちゃいますよね?」
玉依は、けろっと言う。
「それも、ひとつの選択です」
私は、小さく息を吐いた。
「開けたら、どうなるの?」
「それは、お姉さまが決めていいんですよ」
玉依は、にこっと笑う。
「ただ、ひとつだけ条件があります」
「条件?」
「お姉さまが、自分で後悔しないものにすること」
私は、はっとした。
「……私が?」
「うん」
玉依は軽く頷く。
「太郎くんがどう選んでも。それなら、そうなるだろうなって、ちゃんと自分で思えるもの」
潮干珠が、静かに明滅する。
「難しいわね」
「難しいですよ。だから相談に乗ってるんです」
玉依は、少しだけ声を落とした。
「ねえ、お姉さま」
「なに?」
「太郎くんが、
ここにいた時間を忘れないようにしたいですか?」
「もちろん」
答えるのに、一瞬もかからなかった。
玉依は、満足そうに頷いた。
「じゃあ、その気持ちだけ、
箱に入れてあげればいいと思います」
「気持ちだけ?」
「うん」
玉依は、指をくるりと回す。
「ここで笑っていたお姉さまとか。
竜宮で見た景色とか。自分がここでどう過ごしたか、とか」
潮満珠が、淡く光る。
「それが、時間に負けないように。
少しだけ、守ってあげる」
私は、ゆっくり息を吐いた。
「……たしかに、それくらいなら、
ずるくないかもしれない」
「十分ずるいですよ?」
「うるさいわね」
そう言いながら、笑ってしまう。
潮満珠と潮干珠が、掌の中で寄り添うように光った。
「分かったわ、玉依」
「はい」
「箱をひとつ用意する」
ゆっくり、言葉にする。
「太郎が帰りたいと言ったときに、渡す箱」
「うん」
「開けたら、ここでの時間が一気に戻ってきて」
少しだけ、喉が詰まる。
「上の世界の時間とも、
ちゃんと向き合わなきゃいけなくなる箱」
玉依が、目を瞬かせた。
「それ、けっこう重いですね」
「軽い箱なんて、私っぽくないでしょう?」
「たしかに」
玉依は、くすくす笑った。
「じゃあ、名前はどうします?」
「名前?」
「箱の」
私は、
少しだけ考えた。
「……玉手箱って、どうかしら」
「そのまんま」
「そのまんまよ。でも、分かりやすい方がいいわ」
玉依は頷いた。
「じゃあ、玉手箱」
そして、少しだけ優しい声で続ける。
「お姉さまと太郎くんの、
ちゃんとお別れするための箱」
「……って、言わないでくれる?」
私は、わざと不機嫌そうに顔をしかめる。
「まだ、お別れって決まったわけじゃないもの」
「そうですね」
玉依は、ふわりと笑った。
「そういうときは、こう言いましょうか」
「どう言うの?」
「また会うまでの、少しの準備」
潮干珠が、掌の中で静かに響いた。
また会う。それは、私の側の“もしも”だ。
「……いい響きね」
「でしょう?」
玉依は立ち上がる。
「じゃあ、箱の細かい仕組みは、
わたしが考えておきます」
「任せていいの?」
「もちろん」
玉依は、くるりと回る。
「お姉さまは、ちゃんと太郎くんと遊んでてください」
「人聞きの悪い言い方しないで」
「だって、そうですよね?」
玉依は、床の方へすうっと沈み始めた。
「ちゃんと遊んで、ちゃんと笑って、
ちゃんと悩んで……」
髪の先が、水面へ溶けるみたいに沈んでいく。
「それが終わった頃に、箱を渡せばいいんです」
頭の先まで沈みかけたところで、
ふいにまた顔だけ出す。
「あ、そうだ」
「なに?」
「太郎くんに、“いつ帰りたい?”って聞くときは」
玉依は、いたずらっぽく目を細めた。
「絶対に、笑いながら聞いてくださいね」
「……どうして?」
「泣きそうな顔で聞いたら、
お姉さま、絶対に本音をごまかしますから」
胸の奥を、まっすぐ刺された気がした。
「図星?」
「……うるさいわ、玉依」
「はいはーい」
玉依は手を振って、
今度こそ完全に床の下へ消えていった。
部屋に、静けさが戻る。
私は、掌の中の潮満珠と潮干珠を見つめた。
「……ねえ」
二つの珠に、そっと問いかける。
「潮の満ち引きには、
覚悟が要るって、誰かが言ってたわね」
側近である、宵臣の堅物な顔がふっと浮かぶ。
「私は、ちゃんと覚悟できるかしら」
潮満珠が、明るく光る。
潮干珠が、静かに揺れる。
それは、どちらとも言わないけれど。
今のままでは足りない。そう告げている光だった。
「だったら、もう少しだけ」
私は、ゆっくりと立ち上がる。
「もう少しだけ、
ちゃんとこの夢を見ておきましょうか」
太郎と笑って。宵臣とぶつかって。
ミドリと騒いで。玉依にからかわれて。
その全部を、玉ひとつに詰め込めるくらい、
濃くしておかないと。
潮の音が、遠くから聞こえる。
満ちて。引いて。また満ちる。
その繰り返しのどこかで、
きっと玉手箱を渡す日がやってくる。
それまでのあいだは――
私は、胸元に珠を戻した。
「ちゃんと、ナンパした責任を果たさないとね」
そう呟いて、自分で少し笑った。




