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乙姫は恋を知らない  作者: HANABI


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第6話 潮の奉槍

潮のまつりが近づくにつれ、

竜宮は少しずつ熱を帯びていった。


その中心で太郎は、気づかないうちに、

海の民たちの輪へ溶け込み始めている。


そして私は、そんな姿から目を離せなくなっていた。

祭りの日。


竜宮城は、朝から祝いの熱気に包まれていた。

珊瑚布が回廊を鮮やかに彩り、真珠の灯りが幾重にも揺れる。


魚人たちは大声を上げて酒樽を運び回り、

侍女たちは山のような豪華な料理を並べていた。


巨大な鯛の姿焼きに、海老の艶焼き。

透き通る烏賊の薄造りと、甘い香りの貝蒸し。


地上から捧げられた極上の酒や果物まで、

広間の机へ所狭しと並べられている。


「うわぁ……」


太郎が、完全に圧倒された顔で辺りを見回した。


「昨日より、確実に増えてません?」


「ええ、増えてるわ。

今日は“潮のまつり”の本番だもの」


乙姫が誇らしげに微笑んだ、その時だった。


「浦島殿!」


若い魚人たちが、勢いよく太郎へ駆け寄る。


「時間です!」


「えっ?」


「衣装合わせです!」


「衣装……?」


太郎が、嫌な予感を察した顔になった。次の瞬間。


「うわっ、ちょ、待っ――」


ずるずるずるっ。

魚人たちが、一斉に太郎の身体を引っ張っていく。


「乙姫さん助けてください!?」


「頑張りなさい」


「他人事だ!?」


乙姫は、吹き出しながらその背中を見送った。



しばらくして。

祭礼の控え間から、魚人たちの騒ぐ声が響いてくる。


「腕を通してください!」


「どこ!?」


「そこは袖です!」


「これ紐多すぎません!?」


「帯を、締めますよ!息を吐いて〜。はい!止める」


「ぐえっ!」


乙姫は、つい愛おしさに口元を押さえた。


「……なにあれ」


隣で玉依が、肩を小刻みに震わせている。


「完全に捕獲された魚ね」


「否定できないわね……」


その時。ばたんっ!と勢いよく襖が開いた。


「乙姫さん!これ絶対おかしいですって!」


不満げに飛び出してきた太郎を見て――

乙姫は、一瞬だけ言葉を失った。


深縹こきはなだの舞装束。


海の夜の闇をそのまま溶かしたみたいな、深い青。

そこへ銀糸で波紋と魚鱗の紋様が美しく刺繍されている。


肩から背へ流れる、銀糸を編み込んだ細長い飾り布。

それは太郎が舞うたびに、潮の流れみたいに揺れる仕様だ。


槍を振るたび、水流みたいにふわりと尾を引いた。

でも。

乙姫の目を一番引きつけたのは、その衣装じゃない。


浅黒い肌。逞しく広い肩。

しっかりした体幹に支えられた、真っすぐな姿勢。


慣れない豪華な衣装を着ているはずなのに、

彼の立ち姿は驚くほど端正で、きれいだった。


“着せられてる”のではない。

ちゃんと自分の鍛え上げた身体で、着こなしている。


太郎が、困ったみたいにガシガシと頭を掻いた。


「こんなの、着たことないんですけど……」


乙姫は、しばらく答えを返すことができなかった。


「乙姫さん?」


「……」


「あの……似合ってません?」


その不安げな声で、ようやく我へ返る。


「……似合いすぎて腹が立つわ」


「えぇ!?」


玉依が、横で堪えきれずに吹き出した。


「姉様、今ちょっと見惚れてたわ」


「黙りなさい」


「耳、真っ赤ですよ」


「もう…ほんと黙って…」


太郎が、状況が分からずきょとんとしている。

その後ろでは、衣装係の魚人たちが満足げだった。


「やはり筋肉が良い」


「舞装束は肩幅があると映えますなぁ」


「足腰もガッシリしていて強い」


「え〜。品評会やめてください!?」


太郎が赤くなって抗議する。

その瞬間。


「まだ終わってませんぞ」


魚人たちが、にやりと不敵に笑った。


「え?」


「下です」


「下?」


さっと衣装の裾が捲り上げられた。


「うわっ!?」


一瞬の早業で、今まで履いていた下衣が剥ぎ取られる。


「ちょっ……!?」


太郎が、慌てて手で裾を押さえた。


「なんで脱がすんですか!?」


「祭礼用の下帯へ替えます」


「下帯!?」


「動きやすさ重視です」


「ほぼ褌じゃないですかこれ!」


魚人たちが大笑いする。

乙姫は、もう耐えきれずに破顔した。


「っ、ふふ……っ」


太郎が、顔を真っ赤にしてこちらを睨む。


「笑わないでくださいよ!」


「だって……」


乙姫は、太郎の顔を覗き込むようにして笑った。


「そんな情けない顔してるのに、格好いいんだもの」


悪びれもせず、心からの本音を真っ直ぐに伝える。

太郎が、一瞬だけ言葉を詰まらせた。

それから。彼の耳が、みるみるうちに爆発しそうなほど赤くなる。


玉依が、完全に面白がって二人を囃し立てた。


「うわぁ……姉様それ、かなり女の顔だよね?」


「玉依」


「はい?」


「あとで海の底に沈めるわよ」


「海の神こわーい」



祭礼の舞台。

潮太鼓の重低音が、五臓六腑へ低く鳴り響く。


白い広大な階段の上へ、三人の舞手が並び立った。

中央には、名家の若い魚人貴族。

色白で、繊細な顔立ちの優美な男だった。


左には、風格のある熟練の舞手。


そして。右端の舞台へ、太郎が立つ。


ざわり――。

見守る広間が、一瞬で大きく揺れた。


「人間……?」


「本当にあやつが舞うのか?」


「姫様が許可をされたと?」


懐疑的なざわめきが四方から広がる。

でも。

太郎は、凛とした表情でちゃんと前を向いていた。


深縹の装束。銀糸の波模様。

長い飾り布が、本物の潮の流れみたいに美しく揺れる。


広い肩と、真っ直ぐな背。

ただそこに立つ佇まいだけで、舞台の空気が変わった。


乙姫は、無意識に息を止めて彼を見つめていた。


潮太鼓が、ドォンと強く鳴る。

緊迫感の中で、舞が始まった。


中央の魚人貴族の舞は、確かに美しかった。

細く、流れるような芸術的な動き。

穏やかな水面を撫でる、柔らかな波みたいな舞だ。


けれど。

太郎が大きく動いた瞬間、世界の色彩が変わった。


力強い。なのに、決して荒くない。

踏み込みが驚くほど深く、確実だ。


突き出された槍が、大きな海流そのものみたいに鋭く空を裂く。同じ伝統の舞のはずなのに。


見る者の目が、どうしてもそちらへ引っ張られてしまう。


これは、本物の海を生きてきた男の舞だ。

荒波へ逆らい、冷たい風へ耐え、命を懸けて魚を追ってきた、本物の身体。

その一挙手一投足に、泥臭く生きた人間の熱があった。


その熱に当てられたように、水膜の向こうで魚たちが大きく旋回を始める。

大いなる潮が、彼の舞に呼応していた。


乙姫は、胸が激しくざわつくのを感じていた。


(――なに、これ)


こんな感情、これまでの長い人生で一度も知らない。

ただ綺麗なだけじゃない。


目が離せない。もっと、ずっと見ていたい。

私のすべてを支配していく、強烈な衝動。


最後の一閃。

三人同時に、鋭く槍を止めた。


完全なる静寂。

次の瞬間。


わぁぁぁっ――!!


耳を劈くような歓声が爆発した。

魚人たちが、一斉に立ち上がって手を叩く。


「すげぇ!」


「人間なのに、なんて舞だ!?」


「潮が、あやつに合わせて動いたぞ!」


太郎が、きょとんと目を丸くした。

それから。自分の成功を確信して、子どもみたいに大きく口を開けて笑った。


「うわっ……すげえ!」


その純粋な笑顔を見た瞬間。

胸の奥が、どくん、と大きく跳ねた。

衣の奥の潮満珠が、かつてないほど強く光り輝く。


――ああ。

私は。この男が、ただ嬉しそうに笑うところを見るのが好きなんだ。


今まで決して感じたことのない、甘い感情だった。

胸が苦しくて、熱くて……でも、少しも嫌じゃない。

むしろ。もっとこの熱が欲しいと、深く欲してしまう。


太郎が、舞台の上からこちらへ大きく手を振った。


「乙姫さん!見てくれましたか!?」


乙姫は、少しだけ遅れて、愛おしさに胸を詰まらせながら笑った。


「ええ」


胸の奥のざわめきは、まだ収まらない。


「ちゃんと、見てたわ」


太郎が、弾けたように嬉しそうに笑う。

その姿を視界に収めるたび、潮満珠がまたカッと熱を帯びた。


魚人たちの止まらない歓声。

潮太鼓の心地よい余韻。祭りの華やかな灯り。

その全部が混ざり合って、彼女の胸の奥を激しく揺さぶり続ける。


――地上に、大切な帰る場所がある男。


なのに。どうしてこんなに、この冷たい海へ馴染んでしまうのだろう。


乙姫は、槍を抱えて無邪気に笑う太郎から、しばらくの間、どうしても目を離すことができなかった。



その夜。


祭りの熱気が、ようやく竜宮から静かに引き始めていた。遠くの回廊からは、まだ楽しげな笑い声が風に乗って聞こえる。


酒に酔った魚人たちが、どこかの広間でまだ騒いでいるのだろう。


でも。乙姫の私室だけは、不思議なくらい静まり返っていた。

彼女は、長い艶やかな黒髪をそっとほどきながら、

ゆっくりと鏡台の前へ腰を下ろす。


耳の奥には、まだ昼間の潮太鼓の音が残っていた。

そして。目を閉じれば脳裏へ鮮明に浮かぶのは、舞台の上の太郎の姿だ。


深縹の装束を纏い、槍を堂々と振るう姿。

世界の魚たちを揺らした、あの力強い舞。


そして、最後に見せた、あの屈託のない愛らしい笑顔。


(――乙姫さん!)


名前を呼ばれた瞬間を思い出しただけで、

胸が、またどくんと甘く鳴った。


「……困ったわね」


鏡に映る自分の顔を見て、小さく呟く。

いつも余裕を崩さないはずの女主人の顔が、

今は酷く熱を帯び、見たこともないほど潤んでいた。


乙姫は、自身の胸元へゆっくりと手を伸ばした。

潮満珠しおみつたま潮干珠しおふるたま

青と白、二つの大切な秘宝をそっと取り外す。


白皙の掌へ乗せると、二つの珠はトクトクと淡く脈打っていた。まるで、持ち主の制御できない恋心を鏡のように映しているみたいに。


「そんなに騒がなくても、分かってるわよ」


満ち潮を呼ぶ潮満珠が、諭すようにふわりと強く光る。今日は特に、太郎への高鳴る感情の波に合わせた反応が激しかった。


太郎が笑うたび。目が合うたび。

胸が引き裂かれそうに熱くなるたび。

引き寄せられる心に呼応して、大いなる満ち潮が揺れていた。


昔の自分なら、こんなことは絶対に有り得なかった。


誰かを「珍しい」「面白い」と思うことはあった。

気に入って、退屈しのぎに竜宮へ招き、もてなした男も数知れない。


長すぎた退屈。

でも。こんなふうに、心まで深く引きずり込まれることは一度もなかった。


乙姫は、愛おしさと切なさに目を細め、そっと珠を撫でる。


「……どうしてかしらね」


太郎は、特別に目を見張るほど美しい男というわけじゃない。偉大な神でもなければ、海の民ですらない。


ただの人間。泥臭く生きる、素朴な漁師の男。

なのに。あの男が笑うと、この広い竜宮城までが釣られて笑う。


魚人たちも、侍女たちも。いつも不機嫌な宵臣でさえ、太郎の影響で少しずつ変わっていく。


今日の舞だって、そうだった。

本来なら、卑しい人間が立っていい場所ではない。

海神へ命を捧げる、神聖なる神事の舞台。


それなのに。太郎は、まるで最初からその場所に居るべき存在だったみたいに、満ちていく潮へ、あまりにも自然に馴染んでしまった。


乙姫は、ゆっくりと深い赤の瞳を閉じる。

鮮明に思い出すのは、やはり彼の姿だ。


槍を縦横無尽に振るう姿。

広い確かな肩。ぶれない肉体の軸。

潮を力強く裂くみたいな、深い踏み込み。


(――乙姫さん! 見てくれましたか!?)


舞い終わったあと、私を見つけて子どもみたいに笑ったあの顔。

胸が、また痛いほどに熱くなる。


「……ほんとうに、困った子」


今までの長い生の中で。私は、誰かに惹かれ、恋に溺れる側の人間ではなかった。

皆、私を崇め、私を見る。


その瞳にあるのは、畏れ、欲望、あるいは醜い媚び。

すべてが退屈で、ひたすらに退屈だった。


でも、太郎だけは決定的に違う。


彼は愛おしそうに私を見つめながら。

ちゃんと、“ここじゃない地上の場所”のことも、その胸に抱いている。


待っている老いた母。

自分を育んだ小さな漁村。

兄から無くしてしまった大切な釣り針。

肌を撫でる地上の優しい風と、波の音。


彼はそれらを、何一つとして忘れていない。

だからこそ、分かってしまう。


この優しくあたたかい夢は、いつか必ず終わるのだと。いつか必ず、引き潮の時間がやってくる。


その厳然たる事実が。今、恋を知った乙姫の胸の奥へ、小さな鋭い棘みたいに深く刺さっていた。


カタ、と手の上の潮干珠しおふるたまが静かに揺れる。引き潮を呼び、縁を穏やかに解く珠。

別れの痛みを穏やかに薄める、冷たい理性。

まるで、これを使って楽になりなさいと、彼女の気持ちへ応えるみたいに。


「……帰したくない、なんて」


心の奥底に眠る傲慢な本音を口にすると、息が詰まるほど苦しくなった。


私は海の神だ。

潮の満ち引きを統べ、この広大な海を守る絶対の者。

なら。いつか必ずやってくる、彼との別れという“引き潮”も、綺麗に、毅然と受け入れなければいけない。


頭では、分かりきっている。

分かっているのに。


今日の、あの輝かしい太郎の舞を見てしまったら。

あんなふうに、この海の底で愛おしげに笑う姿を知ってしまったら。


(――もう少しだけ。あと少しだけ、私の傍に)


引き潮を拒むように、そう強く願ってしまう。


「……ずるいわね」


その呟きが、太郎へ向けたものか、自分自身の弱さへ向けたものか、もう境界すら分からなかった。


珠が、主の葛藤を表すように静かに明滅する。

その時だった。

部屋の床を満たす浅い潮が、ふわりと不自然に揺れた。乙姫は、感傷を消し去るようにため息交じりに振り返る。


「……人の部屋に入るなら、普通はノックくらいするものよ」


水面から、ひょこっと悪戯っぽい顔が出た。


「しましたよ。耳を澄ませば聞こえる“海流ノック”」


妹の玉依が、すべてを見透かしたような顔で、にこっと笑っていた。


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