第5話 潮のまつり
竜宮へ来てから、太郎は少しずつ、
海の民たちの輪へ溶け込み始めていた。
笑い声の増えた竜宮を見ながら、私は初めて、
“誰かが居着く”という意味を知っていく。
そしてその頃から、太郎の胸にも、
少しずつ“帰る理由”が浮かび始めていた。
竜宮に秋が来ることはない。
少なくとも、地上みたいに葉が色づいたり、冷たい風が吹いたりはしない。けれど。
海の流れは、確かに季節を運んでくる。
「今年は、北の港の鰯が豊漁だったみたいね」
私は供物の札を見ながら呟いた。
巨大な広間には、山のような荷が積まれている。
酒樽。干魚。果物。織物。塩。米。
地上の港町や漁村から、
海神への感謝として捧げられたものたちだ。
竜宮では、この時期を“潮のまつり”と呼ぶ。
海へ祈りを捧げた人々へ、一年分の加護を返すための季節。
つまり、今の私はかなり忙しい。
「姫様、こちらは西国から届いた献上品です」
侍女が、木箱を開ける。
中には、黄金色の柑橘が詰まっていた。
「へえ……綺麗ね」
その時だった。
「うわっ、重っ……!」
後ろから、聞き慣れた声が響く。
振り返と、太郎が米俵を抱えたままふらついていた。
「ちょ、ちょっと!それ、一人で持つ量じゃ――」
どさぁっ!派手な音を立てて俵が崩れるていく。
米袋が転がり、魚人たちが慌てて飛び退いた。
一瞬、広間が静まる。
そして。
「ぶはっ!」
魚人隊長が、盛大に吹き出した。
「太郎殿!それ三人分ですぞ!」
「えー!それ、先に言ってくださいよ!?」
「言う前に持ちましたよね!?」
周囲が笑い声に包まれる。
私は思わず、額へ手を当てた。
「……なにしてるのよ」
太郎が、床へ座り込んだまま顔を上げる。
「いや、皆忙しそうだったんで……」
「だからって、力任せに抱えるからでしょう」
「漁だと、だいたい力で解決するんですよ」
「雑ねぇ……」
呆れながらも、口元が緩む。
最近、本当にこういうことが増えた。
誰かが失敗しても、笑いになる。
空気が軽い。昔の竜宮は、もっと静かだった。
もっと綺麗で、もっと退屈だった。
「太郎さん、こっちもお願いします!」
侍女たちが、すっかり自然に太郎へ声をかける。
「はいはい!今度は軽そうなやつ持ちます!」
「それ酒樽です!」
「また重いやつ!?」
広間がまた笑いに包まれた。
私は、その中心にいる男を見る。
日に焼けた肌。笑うと大きく崩れる顔。
働くために鍛えられた腕。
でも、一番目を引くのは、その空気だった。
太郎がいるだけで、皆が少し楽しそうになる。
「姉様」
隣へ、玉依が並ぶ。
「……竜宮、変わったね」
私は、少しだけ笑った。
「そうかしら」
「うん。前はもっと、静かだったわ」
玉依が、笑う魚人たちを見る。
「今、皆すごく楽しそう」
その言葉へ、私は答えなかった。
でも。胸の奥で、潮満珠が静かに揺れていた。
◇
「乙姫さん!これ見てください!」
太郎が、大きな魚を掲げる。
市場区画は、祭り前の熱気で溢れていた。
色鮮やかな珊瑚布。山積みの貝。
泳ぐみたいに行き交う海の民。
その真ん中で、太郎は完全に馴染んでいた。
「それ、どこで捕ったの?」
「そこの魚人のおっちゃんと勝負してました」
「勝負?」
「どっちが早く釣れるかって」
「太郎殿ずるいんですよ!」
隣の魚人が、悔しそうに叫ぶ。
「潮読むの上手すぎる!」
「いや、魚の癖見れば分かりますって」
「分からんわ!」
周囲が笑う。私は、少し驚いていた。
竜宮の民は、海を泳ぐ。
でも。“釣る”文化は、そこまで強くない。
魚と共に暮らす者たちにとって、太郎の技術は、
妙に新鮮だった。
「乙姫さん」
太郎が、釣り竿を肩へ担いだまま笑う。
「今度、一緒にやります?」
「私が?」
「はい。絶対向いてますよ」
「どうかしら」
「だって乙姫さん、待つの苦手そうだから」
私は目を細めた。
「喧嘩売ってるの?」
「事実です」
真顔で答えてくる。
その顔が、妙におかしくて。
私は、ふっと吹き出した。
「……ほんと、面白いわ」
太郎が、少し照れたみたいに笑う。
その直後。
「太郎殿!次はこっち教えてください!」
魚人たちが、我先にと太郎へ集まり始めた。
「えっ、ちょ、そんな一気に言われても!」
困ったように笑いながら、太郎が桟橋の先へ引っ張られていく。
私は少し離れた場所から、その背中を眺めていた。
そして――
「だから、そこは待つんですよ」
太郎が、魚人たちへ身振り手振りで説明している。
海へ突き出した桟橋。
その先へ、何本もの釣り糸が垂れていた。
魚人たちは、揃いも揃って落ち着きがない。
「来たっ!」
「まだですよ」
「えっ」
「今引いたら逃げる」
魚人たちが慌てて手を止める。
その横で、太郎だけが静かに海を見ていた。
潮を見る目。波を見る目。魚影を追う目。
その横顔は、宴会で笑っている時とは少し違う。
真剣で。静かで。妙に、“海の男”だった。
「……今です」
太郎が小さく呟く。
次の瞬間。魚人たちが一斉に竿を引いた。
ばしゃっ!
銀色の魚が、空中へ跳ねる。
「釣れたぁ!?」
「うおおおっ!」
「太郎殿すごい!」
市場中へ歓声が響く。太郎が、楽しそうに笑った。
「だから言ったじゃないですか」
「なんで分かるんです!?」
「潮です」
「しお?」
「流れ変わるんですよ。魚が餌食う前って」
魚人たちは、完全に感心した顔をしていた。
私は、少し離れた場所からその様子を眺める。
笑う魚人たち。騒ぐ侍女たち。
その中心にいる太郎。
最近、竜宮の者達ははよく笑うようになった。
昔はもっと静かだった。
綺麗で。整っていて。少し、退屈だった。
でも今は違う。
太郎がいるだけで、空気が柔らかくなる。
「姉様」
隣で、玉依がくすっと笑う。
「完全に馴染んでるね」
「そうね」
気づけば、魚人たちも太郎を自然に名前で呼んでいた。
最初は、“人間”だったのに。
今はもう、そこへ居るのが当たり前みたいだ。
その時だった。
太郎が、ふいに手を止めた。
釣り針を結び直していた指が、ぴたりと止まる。
さっきまで笑っていた顔が、少しだけ静かになる。
私は小さく目を細めた。
「……姉様?」
玉依が不思議そうに私を見る。
でも、私はもう歩き出していた。
桟橋へ近づく。潮風が、袖を揺らした。
「どうしたの?」
声をかけると、太郎がゆっくり顔を上げた。
それから、少し困ったみたいに笑う。
「……いや」
視線が、指先へ落ちる。
小さな釣り針。
「兄貴のこと、思い出してました」
空気が、少しだけ静かになる。
私は、その言葉へ目を瞬いた。
「お兄様?」
「はい」
太郎が、針を指先で弄ぶ。
「これ見てたら、思い出して」
その声は、いつもより少し静かだった。
「兄貴の釣り針、無くしたんですよ」
「無くした?」
「はい。だから本当は、探してたんです」
魚人たちが、きょとんと顔を見合わせる。
太郎は、苦笑した。
「結局、探してる途中で、
乙姫さんに攫われたんですけど」
私は、思わず吹き出した。
「なによそれ」
「いや〜、事実じゃないですか」
少し眉を下げながら、大げさに嘆く振りをする。
周囲が、どっと笑う。
でも。胸の奥が、少しだけ痛む。
“帰る理由”。
それが、初めて形になった気がした。
太郎は、釣り針を見つめたまま続ける。
「兄貴、怒ると怖ぇんですよ」
「そうなの?」
「はい。喧嘩するとすぐ殴るし」
「最低ね」
「でも、道具だけはめちゃくちゃ大事にする人で」
太郎が、少しだけ笑った。
「だから、ちゃんと返したかったんです」
その横顔を、私は静かに見つめる。
今まで、“ここに居る太郎”しか見ていなかった。
でも。この男には、地上の時間がある。
家族がいる。帰る場所がある。
その事実が、胸へ小さく刺さった。
その時だった。
「太郎殿ーっ!」
魚人のひとりが、大声を上げる。
「また釣れました!」
「えっ、マジで!?」
太郎が、ぱっと顔を上げる。
「今行きます!」
楽しそうに走っていく背中。
魚人たちの笑い声。市場の喧騒。
でも。私は少しだけ、その場から動けなかった。
潮満珠が、胸元で小さく揺れる。
「姫」
後ろから、静かな声が落ちる。
宵臣だった。私は振り返らないまま、小さく呟く。
「……宵臣」
「はい」
少しだけ、間を置く。
それから。
「地上の釣り針って、探せるかしら」
宵臣が、一瞬だけ黙った。意味を理解したのだ。
“帰す準備”。
金色の瞳が、静かに伏せられる。
けれど。宵臣は何も言わなかった。
ただ、深く一礼する。
「承知いたしました」
私は、小さく息を吐いた。
視線の先では、太郎が魚人たちと笑っている。
その笑顔が、少しだけ遠く感じた。
◇
釣りを終え、市場をゆっくりと歩いている時だった。
背後から、静かな声が落ちた。
「姫」
振り返ると、それは宵臣だった。
深い藍鼠の装束を揺らしながら、静かにこちらへ歩いてくる。
「祭礼用の槍舞ですが、今年は奉納役が足りません」
「また?」
「はい」
宵臣が、小さく息を吐く。
「今年は、若い世代が少ないので」
私は少し目を細めた。
「ああ……あの年代は、
海が荒れていた時期だったわね」
大時化が続いた年。
海の民も、ずいぶん数を減らした。
特に、太郎くらいの年頃は少ない。
「ちょうど浦島殿と近い年代です」
宵臣が、視線を太郎へ向ける。
「あなたなら、
短期間でも良い動きをなさるかもしれません」
私は少し驚いて、宵臣を見た。
「あなたが、そんなこと言うなんて珍しいわね」
「事実を申し上げているだけです」
淡々とした声。
でも。その目は、ちゃんと太郎を見ていた。
その言葉へ、私は目を瞬いた。
太郎も固まる。
「えっ、俺ですか?」
「漁で銛を扱うのでしょう」
「まあ、一応……」
宵臣は静かに頷く。
「槍は、突くより、流れを読む武器です」
金色の瞳が、まっすぐ太郎を見る。
「あなたには、素質があると思います」
市場が、少し静まった。魚人たちが、驚いた顔をしている。宵臣が、こんな風に誰かを認めるのは、かなり珍しい。
太郎が、困ったみたいに頭を掻く。
「いやぁ……そんな大した――」
「海老三皿ですね」
「増えてる!?」
私は耐えきれず、吹き出した。
その横で。宵臣も、ほんの少しだけ笑っていた。
◇
槍舞の稽古場は、竜宮城の外縁近くにあった。
半円状の広い舞台。
床には、潮の流れを模した白い紋様が描かれている。
膜の向こうでは、巨大な魚たちがゆったり泳いでいた。
「へぇ……こんな場所あったんですね」
太郎が、辺りを見回しながら呟く。
私は、少し離れた欄干へ腰掛けた。
「祭礼の舞は、基本ここで練習するの」
「舞っていうか……完全に武術ですよね?」
太郎が、手渡された長槍を持ち上げる。
銀色の穂先。深い群青の柄。海流みたいな装飾。
かなり重い。
普通の人間なら、振るだけでも苦労するだろう。
でも。太郎は、二、三度握り直しただけで、
すぐ重心を掴んでいた。
それを見て、宵臣が静かに目を細める。
「やはり、慣れておられますね」
「まあ……漁で銛は使いますから」
太郎が、少し照れくさそうに笑う。
「魚突く時、こういう長物扱うんですよ」
「なるほど」
宵臣は、静かに槍を構えた。
空気が変わる。
背筋が自然と伸びるような、鋭い静けさ。
宵臣は、普段の群青ではなく、
水浅葱の狩衣をまとっていた。
海を溶かしたみたいな淡い青が、槍を構えるたび、
ゆらりと揺れる。
静かな男なのに、今だけは、
潮そのものみたいだった。
「槍舞は、力任せでは成立しません」
よく通る低い声。
「潮を読む」
槍が動く。
驚くほどに滑らかだった。
突きの鋭さが、そのまま流れるような払いへと繋がり、淀みない返しへと変幻する。
そこには、一切の無駄がない。
まるで水そのものが形を得て、空間を縦横無尽に泳いでいるかのようだった。
太郎が、思わず息を呑む。
「……すげえ」
私は少し笑った。
分かる。初めて見ると、だいたいそういう顔になる。
「敵を倒すためだけではありません」
宵臣の槍が、静かに回る。
「流れを整え、海を鎮めるための舞でもあります」
最後の一閃。
ぴたり、と止まる。
魚たちが、膜の向こうで大きく旋回した。
まるで、槍へ応えるみたいに。
太郎が、目を丸くする。
「魚……動きました?」
「潮へ合わせたからです」
宵臣は槍を下ろした。
「海は、力だけでは従いません」
静かな目が、太郎を見る。
「浦島殿。やってみますか」
「えっ、いや、俺は見るだけで――」
「海老五皿」
「横暴!」
私は吹き出した。
太郎が、観念したみたいに槍を構える。
ぎこちない。でも。妙に様になっていた。
働く男の身体だ。軸がぶれない。
宵臣が、ほんの少し驚いた顔をする。
「……腰が強いですね」
「漁師なんで」
「それだけではありません」
宵臣が、ゆっくり太郎の周囲を回る。
「足運びが、潮を踏んでいない」
「潮を踏む?」
「流れに逆らっている、という意味です」
太郎が、難しい顔をする。
「ええと……つまり?」
「海に嫌われます」
「急に怖い」
私はまた笑ってしまった。
太郎は、困ったように頭を掻く。
「感覚でやってるんで、
言葉にされると難しいですね」
「なら、感覚で結構です」
宵臣が、太郎の槍へ手を添えた。
「力を抜いて。流れへ預けるように」
その瞬間。太郎の動きが変わる。
槍が、するり、と回った。
魚たちが、また大きく揺れる。
私は、思わず目を瞬いた。
「……うそ」
宵臣も、静かに目を細めている。
太郎本人だけが、きょとんとしていた。
「え、今なんかしました?」
「しました」
宵臣が即答する。
「かなり」
太郎が、さらに困る。
「いや、全然分かんねえ……」
「感覚型ですね」
「悪い意味です?」
「いえ」
そこで。宵臣が、ほんの少し笑った。
「少々、腹立たしいだけです」
「なんで!?」
私は耐えきれず、欄干へ突っ伏した。
「っ、ふふ……宵臣、それ嫉妬?」
「違います」
即答する。でも。耳が少し赤い。
太郎が、声を上げて笑った。
「ははっ!宵臣さん、そういう顔するんですね!」
「浦島殿」
「はい?」
「槍、もう百回振ってください」
「増えた!?」
魚人たちが、どっと笑う。
その笑い声の中で。
私は、静かに太郎を見つめていた。
太郎は、まだ自分で気づいていない。
この男は、竜宮へ少しずつ、“馴染んで”きている。
海が、彼を拒まなくなっている。
そして。
宵臣もまた、少しずつ太郎を受け入れ始めていた。




