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乙姫は恋を知らない  作者: HANABI


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第4話 潮の記録

海の底では、潮の流れと一緒に、人の心まで揺れてしまうことがある。


たぶん私は、あの熱へ触れてしまってから、少しおかしくなっていた。

「お姉様……もしかして、恋をしてるの?」


玉依姫のその言葉が静かな回廊に響いた、まさにその瞬間。私と太郎の口から、おそろしく綺麗なハモりで驚きの声が上がった。


「「え!?」」


一瞬、その場にしんと静寂が落ちる。


それから私たちは、同時に、お互いの顔を至近距離で見合わせた。まだ身体が近かった。さっきまで彼に強く抱きしめられていた生身の熱が、衣服の奥にしっかりと残っている。


太郎の耳の根元は、茹でた海老みたいに真っ赤だった。きっと、今の私も全く同じような顔をしているに違いない。


それを見た玉依姫が、じわじわと意地悪く口元を緩めていく。


「へえ……」


「な、何を馬鹿なことを考えているのよ……!」


私は心臓の動揺を隠すように、反射的に強い口調で否定した。


「違うわ。これはその……床が急に傾いたから、


私が不格好に転びそうになっただけで――」


「そうそう! 乙姫さんが急にふらついたから、

俺はただ、倒れないように横から支えただけで……!」


太郎まで慌てて私の言葉に言葉を重ねる。

けれど、焦れば焦るほど、お互いの言い訳がどんどん怪しくなっていく。


玉依姫は完全に主導権を握ったとばかりに、面白がって二人を覗き込んできた。


「ふぅん。ただの“支えただけ”なのに、

なんで二人とも、そんなに顔を真っ赤にしてるのかしら?」


「お酒のせいよ!」

「ただの酒です!」


またしても息ぴったりに声が揃った。

玉依姫が、ついに耐えきれずにぶふっと吹き出す。


「あはは! 息ぴったりじゃない、二人とも」


「うるさいわね……!」


戸惑いながら、私の声がだんだんと小さくなっていく。鼓動がどんどん速くなる。私の胸元の潮満珠が、びりびりと怒ったように震えた。


その感情の揺れに呼応して、回廊の外を泳いでいた魚の群れが一斉に怯えて散っていく。


「あっ、ほら! お姉様、また感情で潮を大きく揺らした!」


「……っ!」


私はぐっと言葉に詰まって顔をしかめた。

玉依姫が、にやにやと勝ち誇った笑顔でさらに顔を覗き込んでくる。


「お姉様、いくらなんでも分かりやすすぎ――」


「玉依」


私はそれ以上喋らせないように、妹の手首をガシッと力強く掴んだ。


「ちょ、お姉様……っ?」


「ちょっと、こっちに来なさい」


「えっ、まさか今から逃げるの!?」


「逃げてないわよ、絶対に」


私は彼女の手首を掴んだまま、ずんずんと足早に回廊の向こうへと歩き出す。背後で、完全に置いてけぼりにされた太郎が慌てた声を上げた。


「お、乙姫さん……っ!?」


私は振り返りもせず、太郎に向かって鋭く指を差して声を張り上げた。


「太郎は、絶対にそこで一歩も動かずに待ってなさい! 分かったわね!?

いい、絶対よ? 一ミリも動いちゃダメだからね!!」


声が聞こえなくなる場所まで、強引に玉依姫を連れて移動する。残された太郎は、あまりの剣幕に圧倒されながら、


「は、はい……」と情けない声を漏らして返事をする。


困り果てたような、頼りない声。

振り返らなくても、彼が今、絶対に間抜けで変な顔をしているのが簡単に想像できた。


私の隣で引きずられている玉依姫が、肩を小刻みに震わせて爆笑している。


「あはは、お姉様、やっぱり絶対に恋してるわ!」


「してないって言ってるでしょう!」


「その否定の速度が、何よりも一番怪しいのよ!」


私はもう、それ以上は答えない。いや、答えることができなかった。だって。さっき彼に強く抱き寄せられた瞬間のあの心地よい熱が、未だに私の身体から消えてくれないのだ。


冷たい深い海の底にいるはずなのに。

私の胸の奥だけが、今も妙に、おそろしく熱かった。



回廊の向こうでは、魚たちの群れがゆらゆらと優雅に泳いでいる。私は自分の高鳴る鼓動を誤魔化すみたいに、じっと膜の外の青い世界を見ていた。


胸の奥のうるさい音が、一向に落ち着いてくれない。

胸元の潮満珠が、トクトクと、今も脈打っている。


「……お姉様ってば、聞いてる?」


白い美しい袖が、私の目の前でひらひらと小刻みに揺れた。


ハッと我に返って振り向く。

玉依姫が、完全に呆れ返ったような顔でこちらをじっと見つめていた。


長い黒髪。私よりも少しだけ柔らかな、優しい顔立ち。私と同じ、美しい赤い瞳。けれど、その目だけは昔から、人の本質を見抜くみたいに妙に鋭かった。


「なによ、急に」


「それ、こっちの台詞なんだけど」


玉依姫は不満そうに胸の前で腕を組む。


「さっきから、この辺りの潮がうるさいくらいに激しく揺れてるわよ」


「……そう? 気のせいじゃないかしら」


「いいえ、絶対にそうよ」


玉依姫が、じっと私の目を深く覗き込んできた。


「お姉様、自分の感情が、全部その珠へ正直に漏れ出しているわ」


「姉様、分かりやすすぎよ」


「……そんなことないわ」

「あるの」


またしても即答。

昔から、こういう恋愛沙汰のところだけ無駄に鋭い。


私は回廊の手すりへと、少し疲れたように寄りかかった。光る膜の向こう。深い海が、静かに青く揺れている。


「ただ、少しだけ珍しいだけよ」


「何が?」


「太郎がよ」


私はぽつりと、本音を零した。


「あいつ、私のことをまるで怖がらないから」


玉依が、不思議そうにパチパチと目を瞬かせる。


「今までの地上の男たちは、みんな途中から、

私のことを“恐ろしい海神”としてしか見なくなった」


畏れ。欲望。そして、醜い媚び。

私はそれらを、何百年もかけて全部見飽きていた。


時には、偉大なる海神の姫として畏れ慄かれ。

時には、この豊かな竜宮の主を手に入れようと、浅ましい欲望の目を向けられる。


永遠の命を欲しがる男。強大な力を欲しがる者。

私を、都合の良い“お飾りの人形”みたいに隣へ置きたがる者。


そして。私の機嫌を損ねないように必死に笑い、媚びへつらい、激しい潮の流れへ必死にしがみつく無様な者たち。


そんな歪んだ視線ばかりに四方を囲まれていると、

誰の言葉も、だんだんと全部同じに聞こえてくる。

だから、この海の底は死ぬほど退屈だったのだ。


――けれど。

あの浦島太郎だけは、最初から全く違った。


私を見ても、決して畏れない。欲しがらない。媚びすら売らない。ただただ困った顔をして、呆れて、笑って、真っ直ぐに私の目を見て話す。


それが、どうしようもなく――眩しかった。


「彼は良くも悪くも、本当にただの普通なの。私に変な気を使わないのよ」


私は当時の出会いを思い出して、少しだけふふっと吹き出す。


「それにさっき、宵臣に向かって“もう攫われてますけど”と言った時は、本当に笑ったわ」


それを聞いた玉依まで、楽しそうに大笑いし出した。


「何それ、あの堅物の宵臣が言い負かされたの?」


「でしょう? あの完璧な宵臣がね」


しばらく、二人で声を合わせて笑い合った。

心地よい波の音が、静かに回廊を揺らしていく。

やがて。玉依が、ふっと真面目な顔になった。


「でも、お姉様」


「なあに」


「本当に、気をつけてね」


その声だけ、少しだけ低く響いた。


私は玉依を見る。

妹は、真剣な赤い瞳で真っ直ぐに私を見返していた。


「人間は、この深い海のものじゃないわ」


胸の奥が、ちくりと静かに痛む。

分かっている。そんなこと……最初から。


「……分かっているわよ」


「本当に?」


「ええ」


私は無理に笑ってみせた。いつもの我が儘な乙姫みたいに、綺麗に口元に弧を描かせた。


「だから、“今だけ”の退屈しのぎとして楽しんでいるの」


でも。その嘘の言葉を口にした瞬間。

私の胸の奥で、何かが静かに悲しく軋んだ。

玉依は、とっくに気づいている。

私が、もう“今だけ”じゃ済まなくなり始めていることを。


「お姉様」


「なによ、しつこいわね」


「たぶん……もう手遅れよ」


私は思わず、おかしそうに吹き出した。


「失礼ね、私を誰だと思っているの」


「だって、お姉様の潮満珠、さっきからずっと光りっぱなしだもの」


玉依は、悪戯っぽくニヤニヤと笑う。


「恋をすると、お姉様ってこんなに分かりやすいんだ」


「恋じゃないわよ、絶対に」


反射的に、強く言葉で否定する。


けれど。太郎にさっき抱きしめられた瞬間の熱を思い出した瞬間。私の両腕の奥が、じわりと心地よい熱を持った。

玉依が、完全に勝ち誇った顔でニヤニヤしている。


「……ほら、図星ね」


「違うって言ってるじゃない、うるさいわね」


「はいはい。そういうことにしておくわ」


――ああ。まずい。

これは本当に、まずいわ。私は静かに目を細めた。


「……本当に、ちっとも退屈しないわね、あの男」


玉依が、最後に小さく呆れたように笑う。


「お姉様、それ……人間の言葉で、もう『好き』って意味よ」


玉依が、呆れたみたいに私の顔を覗き込んでくる。

私はもう、何も答えることができなかった。


さっき、彼に強く抱き寄せられた熱が、未だに腕へと残っている。

海の民の冷たい体温とは違う、生きた男の確かな熱。

力強い二本の腕。よく日に焼けた健康的な肌。

耳元で聞こえた、あの少し掠れた低い声。


【……傍にいると、地上へ帰りたく、なくなりそうだ】


思い出した瞬間、また私の潮満珠がドクンと激しく脈打った。


「あ、また顔が真っ赤よ、お姉様」


「ただの気のせいよ、お酒のせい」


「ふぅん、そういうことにしてあげる」


絶対に一ミリも信じていない顔だった。

私はため息をついて、無理やり玉依の白い袖を掴む。


「ほら、もう戻るわよ」


「えっ、もう?」


「太郎をあそこに放置しすぎると、また変な魚に絡まれるわ」


「お姉様、それ心配してるの、魚じゃなくて絶対に太郎の方よね?」


「黙りなさい」


玉依が、また楽しそうにぶふっと吹き出した。



静かな回廊の角まで戻り、私はピタリと足を止めた。


「ちょっと、静かにして」


「え? どうしたの?」


乙姫がゆっくりと、不格好に角から顔を覗かせる。


それを見た玉依が、クスクスと小声で茶化してきた。


「お姉様、その隠れ方、かなり恋する乙女だわ」


「……次に喋ったら本気で殺すわよ」


「怖い怖い」


そう言いながらも、玉依も楽しそうに壁へと身を寄せた。そっと、角の向こうを二人で覗き込む。

大広間の入口の近く。

太郎が、一人でぽつんと立派な柱へと寄りかかっていた。


さっきまでのあの熱い抱擁を思い出しているのだろうか。彼は片手で自分の顔を覆い、じっとしている。

その耳の根元が、林檎みたいに真っ赤だった。


「……うわぁ」


玉依が、隣で感心したように小声で呟く。


太郎は天井を仰いで、長く重い息を吐き出した。


「なんなんだよ、あの人……本当に……」


ぽつりと、静かに漏れ出た本音。

その声が妙に掠れて色っぽくて、私は胸の奥がまた少しくすぐったくなった。


「お姉様、あの男、完全にやられてるじゃん」


「……」


こればかりは、何一つとして言い返せない。

その時だった。


「浦島殿」


不意に、低く静かな声が響いた。宵臣だった。

群青の美しい装束を揺らしながら、太郎へとゆっくり歩み寄る。太郎が慌てて、その場で姿勢を正した。


「あ、っ、宵臣さん」


「随分とお疲れのようですね」


「いや、もう……。

宵臣さん、ぶっちゃけ乙姫さんって、色々と距離感おかしくないですか?」


「距離感、とは?」


宵臣は、本気の真顔だった。

それを見た太郎が、思わず耐えかねて吹き出す。


「いやだって! 普通、あんな急に女の子が顔を近づけてきます!?」


「……なるほど。姫様に世間一般の普通を求めるのは、多少無理があります」


「あ、やっぱりそうですよねぇ……」


太郎が本気で頭を抱える。

壁の陰で、玉依が隣で肩を激しく震わせて笑いを堪えていた。


「宵臣が、普通に人間に馴染んでる……!」


実は、私自身も少しだけ驚いていた。

いつもの冷徹な宵臣なら、人間に対してはもっと冷たく距離を取る。もっと冷酷に、獲物を観察するように見るはずなのだ。なのに、今は。


「でも、なんか分かる気がします」


太郎が、ふっと優しく笑う。


「乙姫さん、きっと退屈なのが一番嫌いなんだろうなって」


その言葉に、宵臣が、ほんの少しだけ意外そうに目を細めた。


「……ええ」


「だから、一歩もじっとしてられないんですね、あの方」


「全く、その通りです」


「本当に……まるで嵐みたいな人だ」


太郎は、困ったように眉を下げて笑う。

でも。その笑顔は、どこかとても嬉しそうだった。


「なのに……。なんでか、どうしても放っておけないんですよねぇ……あの人」


その瞬間だった。

いつも鉄面皮な宵臣が、ふっと優しく口元を緩めた。

ほんの少し。でも、確かに優しく笑ったのだ。


「というか! 俺、まだあの件は忘れてないですからね!」


太郎が急に、思い出したように大声を上げた。


「何を、ですか?」


「ミドリですよ、ミドリ!」


その瞬間、近くの物陰でこっそり聞いていたミドリが、「えっ、私!?」と驚いて丸い顔を出す。


太郎は、大真面目な真顔だった。


「普通、亀ってあんな風に喋らないじゃないですか!」


「喋りますよ? 現に私は喋っています」


「地上の亀は喋らねえですよ!!」


太郎が勢いよく立ち上がって抗議する。


「しかも最初、波打ち際から急に“たろうさーーん!”って大声で!」


太郎はその場で、当時の恐怖を再現するように両肩を大きく跳ね上げた。


「俺、その瞬間マジでこんな風になりましたからね!?」


両肩をガタガタと震わせ、顔をこれでもかと引きつらせてみせる。


「うわぁぁぁっ!? 化け物だぁぁっ!?って!」


「えぇっ!? そんなにショックだったの!?」


ミドリが、本気で傷ついたようなショックな声を出す。


「だって亀ですよ!?あんなリアルな亀が急に喋ったら、怖いでしょうが普通!」


「でも、乙姫様だって最初、

いきなり海から出てきて普通に話しかけてきましたよ?」


「それは……まあ……めちゃくちゃ綺麗な人だったから、男としてギリ耐えられたんだよ!」


「えぇっ!? じゃあ見た目の問題ですか!?」


ミドリが本気で傷ついたような声を上げる。


「でも乙姫様も、出会った最初からだいぶ怪しかったですよ?いきなり海の底に行こうなんて、普通の人間なら絶対逃げます!」


「美人は脳が納得するんですよ!!」


一瞬の沈黙。

次の瞬間。


「ぶっ、……ククッ……!!」


あの宵臣が、盛大に吹き出した。

完全に、耐えきれずに決壊していた。


口元を手で必死に押さえながら、肩を激しく震わせて笑っている。

太郎が驚いて目を丸くした。


「えっ、あ、笑った」


隣にいた玉依も、完全に固まっていた。


「……嘘、あの宵臣が爆笑してる……」


私は、驚きのあまり思わず目を見開いた。

宵臣はしばらく俯いたまま肩を震わせ、

やがて諦めたみたいに、ふうっと大きく息を吐き出す。


「……浦島殿」


「は、はい」


「その理屈は……あまりにも我が姫に対して失礼極まりありません」


「でも、俺の男としての本音です!!」


またしても、大広間の入口に温かい笑いが起きた。

冷え切っていた広間の空気が、太郎を中心にやわらかく崩れていく。


私はその光景を壁の陰から見つめながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。


――ほんとうに。

この浦島太郎という男は、この冷たい竜宮の空気そのものを変えてしまう。


「……すご」


玉依が、ぽつりと隣で呟いた。


「何がよ」


「お姉様だけじゃないわ」


玉依は、楽しそうに笑う太郎の横顔を見つめていた。


「彼……この竜宮城ごと、すべての空気を変えて回っているのね」


その言葉へ、私は何も答えることができなかった。

ただ。眩しそうに笑う太郎の姿から、どうしても目が離せなかった。



それから、数日後のこと。

私は太郎を連れて、竜宮城のさらに最奥へと向かって歩いていた。

私たちの隣には、いつものように宵臣が控えている。


「なんか……ここは、やけに静かですね」


太郎が、少し緊張した様子で周囲を見回す。


たしかに、いつも宴が開かれている大広間とは、まるで空気が違っていた。

薄青い神秘的な灯り。静かに響く厳かな水音。そして、どこか古い潮の匂い。


「ここは、“記録の間”へと続く特別な区画だからよ」


私は前を向いたまま、お姫様らしく凛とした声で答える。


「記録、ですか?」


「ええ」


隣を歩く宵臣が、静かに解説を引き継いだ。


「この竜宮へと訪れた全ての者。ここで起きた歴史的な出来事。潮の全ての流れ。そのすべてを、一文字も逃さず記す場所です」


太郎が、急にプレッシャーを感じたように少し強張った顔になる。


「いや、俺、本当にそんな大層な記録に残されるような人間じゃないですよ?」


「はい、海老一皿」


私は前を向いたまま即答した。


「なんでですか!?」


太郎が声を裏返して突っ込むと、宵臣が小さく肩を揺らして笑った。


「浦島殿。そのお決まりの台詞、もうすでに海老何皿分溜まっているか、分からなくなっておりますよ」


「えぇっ!? そんなに俺、何度も言ってました!?」


「完全に無自覚ですね、あなたは」


太郎が本気で頭を抱えて困っている。

私は耐えかねて、思わずふふっと吹き出してしまった。


「ふふっ……本当に、あなたといると一秒も飽きないわね」


その私の言葉に。太郎が、少しだけ照れたみたいに、嬉しそうにへにゃりと笑った。

私の胸元の潮満珠が、彼の笑顔に応じて静かに優しく揺れていた。



「記録の間」は、竜宮城のさらに最深部に存在していた。

賑やかな祭りの音も、華やかな笑い声も、ここには一切届かない。どこまでも静寂が支配する、神聖な場所。


薄青い幻想的な光が、長い回廊をぼんやりと青く照らし出している。

壁一面には、気が遠くなるほどの無数の古い貝殻と、巨大な石板。そこへ、淡い光を放つ不思議な海の文字がゆらゆらと浮かび上がっていた。


「……すげえな、これ……」


太郎が、圧倒されたように思わず声を漏らす。


「これ、全部がこの海の記録なんですか」


「ええ、そうよ」


私はゆっくりと、誇らしく歩きながら答える。


「海で起きたすべてのこと。かつて竜宮へ来た特別な者。潮の満ち引きの周期。そして、すべての命の流れ」


宵臣が、石板の前に立ち静かに続けた。


「一度でも我が竜宮と深く関わった者は、その魂ごとここへ刻まれます」


太郎が、興味深そうに近くの石板をじっと覗き込んだ。そこには、古い青白い光の文字が波のように揺れている。


「読めるかしら?」


「いや……まったく、さっぱりです」


「当然よ、海の神の言葉だもの」


私は少しだけ意地悪く笑う。


「でも、竜宮へ長く暮らしていると、少しずつその意味が、頭じゃなくて魂で分かってくるようになるわ」


「へえ……不思議だなぁ……」


太郎は、まるで純粋な子どもみたいな顔で辺りを見回していた。その無防備な横顔を見るたび、私の胸の奥が、また愛おしさで少しくすくぐったくなる。



「記録の間」の中央には、透き通った大きな円卓が鎮座していた。まるで水鏡みずかがみみたいに、静かに不思議な光を放っている。


私はその円卓の前へと、厳かに立つ。

私の胸元の潮満珠と潮干珠が、主の意思に呼応して淡く美しく揺れた。


すると。円卓の表面へと、ゆっくりと光の紋様が浮かび上がってくる。

太郎が、隣で小さく息を呑むのが分かった。


「綺麗だ……」


私は人差し指の指先で、そっと水面みたいなその光へと触れる。


豊玉姫とよたまひめ一行、地上より客人を迎える――」


私の紡いだ言葉が、そのまま光の文字へと滑らかに変形していく。

光の青い波紋が、円卓全体へと美しく広がった。


「地上の人間、浦島太郎、一名。案内役、海亀ミドリ。総護衛官、潮守宵臣しおもりよいおみ


その文字が刻まれた隣で、宵臣が静かに深く一礼する。

当の太郎は、自分の名前が刻まれて、妙にそわそわと落ち着かない様子だった。


「なんか……本当にこうやって歴史に記録されちゃうと、急に俺、すげえ大層なことしちゃった気分になりますね」


「実際、おそろしく凄いことよ」


私は、光る円卓の前で振り返る。


「地上の人間が、この海の最深部まで生きて辿り着くことなんて、滅多にないもの」


「いやいや、だから俺みたいな、ただのしがない漁師がそんな――」


「はい、海老二皿に増量よ」


「一気に増えた!?」


隣にいた宵臣が、今度はくすりと声を上げて笑う。


「浦島殿。少しは学習なさってください」


「これでも、してるつもりなんですけどねぇ……おっかしいな……」


太郎が情けなく頭をボリボリと掻く。

その、いつもと変わらないマヌケなやり取りの、その時だった。


円卓の青い光が、ふっと不穏に強く揺れ動いた。


ざあぁぁ……と、どこかおそろしく遠い深海で、大きな潮が鳴り響く。

太郎が驚いて目を瞬かせた。


「……あれ? なんか今、ここ揺れました?」


私は、何も言わずに少しだけ黙り込む。

私の胸元の潮満珠が、激しくドクンドクンと脈打っていた。強く、熱く。


まるで、私のこの、太郎への行き場のない恋心に過剰に反応するかのように。

宵臣の鋭い金色の視線が、静かにこちらへと向く。


「……姫」


「分かっているわよ、静かにしなさい」


私は短く、拒絶するように返す。

けれど。その本当の理由だけは、誰にも、絶対に言いたくなかった。


太郎が私の近くにいると、最近、本当によく海が勝手に揺れるのだ。この偉大なる海の潮の流れが、私の個人的な感情へと、強く引っ張られてしまう。


何百年もの人生で、こんな異常なこと、今までは一度だってなかったのに。


「乙姫さん?」


太郎が、心配そうに不思議そうな顔でこちらを覗き込んでくる。

私はすぐに、いつもの我が儘な笑顔を貼り付けた。


「なんでもないわよ、ただの気のせい」


「でも、今あきらかに――」


「気にしないでって言ってるの。ほら、記録はもう終わりよ」


そう言って、私は強引に円卓から両手を離す。

青い光が静まる。けれど。私の左胸の鼓動の音だけは、妙におそろしく速いままだった。



すべての記録を終えたあと。私たちは、自分たちの部屋へと戻るために、再び静かな回廊を歩いていた。


途中で、宵臣は他の事務官に急用で呼ばれ、「一足先に戻ります」と部屋を出ていった。


この広大な龍宮城は本当におそろしく広く、地上の太郎一人では、きっと一瞬で迷子になってしまうだろう。


本来なら、道案内なんて別の下級の護衛官にでも任せてしまえばいいのだが。なぜだか私は、この男と、もう少しだけ二人きりで話していたいと思ってしまい、並んで二人きりで回廊を歩いていた。


太郎が、隣でぽつりと静かに呟く。


「なんか……本当に、不思議ですね」


「何が不思議なの?」


「俺みたいな人間の名前が、あの歴史の場所に、ずっと残るんだなって」


私は、彼の横顔を見る。

太郎は、膜の外を優雅に泳ぐ色とりどりの魚たちを見つめていた。


「地上じゃ、ただの貧乏な漁師なのに」


「あなた、またそれ言ったわね」


「え?」


「“ただの”って言葉よ。もうそろそろ、その情けない口癖を直しなさい。

あなたはあなたよ。他の誰でもないわ」


太郎が、参ったなというように苦笑する。


「善処します……努力します……」


私はそのマヌケな顔を見て、小さく愛おしそうに笑った。


「あなたがそこまで言うなら、少しくらいは直るのを待ってあげるわ」


太郎が、少しだけ驚いたように黒い目を丸くする。


「待つ、……んですか?」


「そうよ。あなた、自分の価値を勝手に軽く扱う癖が強すぎるもの」


私は、太郎から逃げるように、膜の外を泳ぐ魚たちへと視線を向けた。


「でも、この私が直々に気に入った男が、自分で自分のことを“ただの漁師”なんて卑下しているのは、私としてはあまり愉快じゃないわ。私の見る目が無いみたいじゃない」


太郎が、困ったように、でもとても嬉しそうに照れ笑いを浮かべる。


「……乙姫さんって、そういう凄く嬉しいこと、さらっと真顔で言いますよね」


「本当のことだもの。何が恥ずかしいのよ」


その、私の言葉が響いた、まさにその瞬間だった。

ぐらり、と。世界が反転するような、本日一番の激しい大揺れが回廊を襲った。


「っ!?」


足元の頑丈な床が、一気に斜めへと大きく傾く。


それと同時に、壁際に飾られていた、あの私の背丈を遥かに超える巨大な珊瑚細工の芸術品が、みりみりっと激しい音を立てて、私の真上へと完全に倒れ込んできた。


危ない――!

そう身を硬くした次の瞬間。


地上の荒波で鍛え上げられた、太郎の逞しい腕が、おそろしく強い力で私の身体を強引に引き寄せた。


「危ない……っ!!」


ぐい、と。

そのままの勢いで、私は太郎によって壁際へと強く押し込まれていた。


ドンッ!! と、すぐ背後で、巨大な珊瑚が激しい音を立てて砕け散る。


太郎が、背後からのすべての衝撃から私を命がけで庇うように、私の両肩のすぐ横の壁へと、力強く両手をついていた。


いわゆる、壁ドンという体勢だった。

頭上から、砕けた珊瑚の白い破片が、パラパラと二人の髪へと静かに落ちてくる。


――近い。

あまりの距離の近さに、一瞬で息が止まった。


まるで、彼の大きな腕の中に、完全に閉じ込められてしまっているかのようだった。

太郎の広い胸へと、私の頬が、ぴったりと隙間なく触れている。


熱い。

この冷たい海の底に生きる民とは、まるで、一ミリも違う。これが、地上を必死に生きている“本物の人間の男の熱”なのだ。


どくん、どくん、と、おそろしく早い鼓動の音が、耳の奥へとダイレクトに響いてくる。


それが、恐怖に怯える私のものなのか、それとも私を抱きすくめる太郎のものなのか……。

もう、自分でも全く分からなかった。


私を危険から守るためだけに、反射だけで動いた彼の身体。海神の姫として畏れられるのではなく、ただの一人の無力な“女”として腕の中に強く抱き込まれているその極上の感覚に、私の胸の奥が、ひどく甘く揺れ動く。


「……乙姫さん」


頭上から、低くて、少し掠れた声が落ちてきた。


それだけで、私の耳の奥が一気に熱くなる。

私はなぜだか、彼の手を振りほどいて、ここから離れることがどうしてもできなかった。


太郎の大きな指先が、私の衣服の肩をギュッと強く掴んでいる。その生身の熱が、布地を通して、じわじわと私の肌へと移ってくるのが分かる。


「今のこの激しい揺れは……また、乙姫さんのその珠のせいですか」


少しだけ困ったような、でも、どこまでも優しい声音。


私は顔を伏せたまま、消え入りそうな声で答えた。


「……そうかも、ね」


「それって、……もしかして、俺のせいですか?」


「どうかしらね」


私は、彼の胸に顔を埋めたまま、かすかに妖艶に笑ってみせる。


「そうとも言えるし、そうじゃないかもしれないわ。……あなた、どう思う?」


太郎が、頭上で少しだけ、深くため息を吐いた。

困ったみたいに。最高に照れたみたいに。それから。


ふっと、かつてないほどに大真面目な男の顔になった。


「……もし、俺のことが嫌なら、今すぐ俺を突き飛ばして逃げてください」


頭の上から、鼓膜へと響く、低くて重い声。

心臓が、ドクンと激しく跳ねた。

壁についていた太郎の腕の力が、私を拒絶しないように、ほんの少しだけ緩められる。


私は、そっと勇気を出して顔を上げた。

真っ直ぐに、目が合った。


少しだけ熱っぽく潤んだ彼の黒い瞳が、迷いなく真っ直ぐに、こちらを見つめていた。


「……どういう、意味?」


「……」


太郎は何も答えず、ゆっくりと、私の唇へとその顔を近づけてきた。壁へとつかれた彼の両腕。

逃げられないわけじゃない。私が彼の胸を強く押せば、きっと彼はすぐに離れてくれる。


でも。

なぜだか私は、彼の瞳から視線を逸らすことが、どうしてもできなかった。

やがて、私の唇へと、驚くほど軽く触れるだけの、静かな口づけが落とされた。


熱が、一瞬で私の全身へと伝わっていく。

柔らかくて。思ったよりも、ずっと、ずっと優しかった。


ほんの一瞬で離れてしまったのに、触れ合っていたそこだけに、消えない熱が残っている。


「……こんな風にずっと傍にいると、本当に」


太郎が、少しだけ顔を離しながら、切なそうにぽつりと呟いた。


「俺は、地上へ帰りたくなくなりそうだ……」


その瞬間、息が完全に止まった。

私の胸元の潮満珠が、今日一番の、引きちぎれんばかりの強さで激しく脈打った。


ざぁぁぁっ――!!


膜の外のすべての海流が、私の歓喜に応じるように大きく激しく揺れ動く。


私は、赤くなった顔をうつむかせたまま、そっと自分から太郎の腰へと両腕を回した。離れたくなかった。


彼のこの身体が、おそろしく温かかった。

生まれて初めて、誰かの生身の熱へと、このまま一生縋りつきたいと心から思った。


今までの何百年の人生で、そんな情熱的な言葉、誰からも言われたことがない。

偉大なる海神としてでもなく。我が儘な竜宮の姫としてでもなく。


ただの、“私という一人の女”に向けて、彼はその言葉をくれたのだ。


胸が、苦しいくらいにトントンと鳴り響く。

まさにその時だった。

遠くの回廊の向こうから、ぱたぱたと呑気な足音が大きく響いてきた。


「姫様〜〜! 太郎さーーん! どこにいらっしゃいますか〜〜?」


空気を全く読まない、ミドリの大きな声だった。


急激に激しく揺れ動いた海流を感じて、心配して様子を見に来たのだろう。


太郎が、はっと我に返ったように、慌てて私の身体から離れた。それから、顔を真っ赤にしながら、私へとそっと大きな手を差し出してきた。


「……あ、その、……大丈夫、ですか?」


私の安否を、おそるおそる確認するような、少し震えた声。

私は小さく、コクンと頷いてみせた。


太郎は、私の無事を見てホッと安心したように息を吐いてから、照れ隠しのように、床に倒れてしまった巨大な珊瑚細工を、大急ぎで起こし始めた。


彼の耳の根元から首筋までが、茹でた海老みたいに真っ赤だった。


私は、そんな彼の愛おしい横顔を見つめるだけで、また胸の奥が少しくすぐったくなる。


――本当に、だめね、私は。

自分で自分が、もう制御できない。


太郎。あなたの言う通りよ。

私ももう、あなたを地上へ帰したく、なくなりそう。


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